電話(きみ)の名は……
トイレ一つで、本当に苦労するものだ……。
さよと一緒に家に戻ると、葵が食事の準備を済ませて、しれっと席に着いていた。
「あっ、来た来た♪ おソバの準備、出来てるわよ~」
本当に無邪気に言ってくれる。
しかも、会うたび会うたびに、なぜだか姉の言動が幼くなってゆく。
(ひょっとしたら姉上、困ってる私を見て、楽しんでるんでしょうか……?)
そう言えば、家族みんなで暮らしていた頃は、自分はよく悪戯の犠牲者だった気がする。
昔の記憶がヒントとなって、イチカは母への報告義務を思い出した。
「あっ、そうでした。母上に連絡しなくては……。姉上、電話はどこですか?」
ごくごく普通に聞いた積もりだが、どういう訳か葵は、コテンと首を傾ける。
「電話……? 居間にあるけど、なにをする気なの?」
「なにをするって、電話を掛けるために決まってるじゃないですか」
喋りながらも、居間と思しき隣りの部屋へと向かう。
食器棚でもあるまいに、扉の上部で嚙み合わせ式の固定金具が、『バイ~ン!』と渋く長鳴りした。
――何故だろう。
居間の真ん中あたりに、邪魔っけな大黒柱がある。
「………………」
イチカは敢えて、なにも突っ込まない事にした。
なにせ、トイレの中にブラックホールがある家だ。
柱くらいなら真面な方である。
クルリと向きを変えて壁際を見る。するとそこには、鏡台の横、サイドボードの上に、ポケベルよりも旧式のアイツが鎮座していた。
「く~ろ~で~ん~わ~!?」
思わず意味不明な叫びを口にするイチカ。
なんと、そこにあった通信機器とは、黒いボディに受話器を乗せ、腹の部分に回転式の数字盤を抱えた固定電話、通称、黒電話であった!
さらには電話の上部、壁に貼られた面妖な張り紙が、イチカの常識性を破壊する。
『緊急性のない場合、電話を使用せし者、万死に値する』
イチカは呆れ返って、声のトーンを一段階上昇させる。
「だったら、なんでわざわざ電話があるんですか!」
すると葵は席も立たずに、隣りの台所からのほほんと答えた。
「だから、張り紙に書いてあるじゃない。緊急時のためよ。あっ……! あと、忍ヶ丘には基地局がないから、携帯電話も使えないからね」
スマートフォンが普及している今の時代、まさか、携帯すらもロクに使えないとは……。
食卓に戻ったイチカは、声の音域を更に上げて葵に食って掛かる。
「でしたら、普段はどうして連絡するんですか!」
「それは勿論、私達は忍びですもの。狼煙や忍鳩に決まってるじゃない♪」
忍鳩。すなわち、伝令用に特殊訓練された伝書鳩のことだ。
いま思い返すと、姉からの届け物は宅配便で、手紙だけならいつも文束であった。
「う~がぁ~!! なんで電話を使っただけで、万死に値するんですか~!!」
苛立ちも声も最終フェイズに突入するイチカに、隣りの席に座るさよが、しおしおと落ち込んだ様子で回答する。
「それは……。中央政府に盗聴されちゃう危険があるからです」
(もう駄目だ……。いくら忍び好きな私でも、これはあまりに苛酷すぎる)
まともに取り合った所で勝ち目はない。
イチカは苛立った様子で、丼に盛られたソバを一気に啜る。
それでも気分は収まらず、コップの水を飲み干して、テーブルの上にドンと置き捨てた。
「私、決めました! なんとしてでも、忍術学園を辞めてみせます!」
実に潔い、しかし後ろ向きな決意。
こうした妹の熱意を、葵が早々に水を差す。
「そうは言うけど、イチカがこれからしなくちゃいけないのは、それとは真逆の
入学説明と身体測定でしょう?」
憎むべきは藤森家・誓願。
イチカは、母の前で誓いを立ててしまった以上、万難を排してでも遣り遂げる
必要があった。
かつて之程までに、我が家の家訓が邪魔だと思った事はない。
せっかくのイチカの熱意が、急速に冷めてゆく。
「あぁ、そうだったぁ……。私、今からその為に、学校に行かなくちゃいけないんだぁ~」
夏場のバニラアイスみたく、グテッ……とテーブルに凭れかかるイチカ。
諦めの悪い妹を、葵が冷酷に突き放した。
「どうせジタバタしたって無駄なんだし、さっさと一人で行って来なさい」
「一人でって、薄情な……。姉上はついて来てくれないんですかぁ~?」
甘え口調でイチカが詰ると、葵は苦笑いで肩を竦めた。
「いやぁ~。最初は確かに、そうしてあげようとは思ってたんだけど、ちょっと今、大学のレポートが立て込んでて、あんまり手が離せないのよね~」
なんでも器用にこなす葵が不都合とは……。
さよはその原因に興味が湧いて、いったん箸を休める。
「手が離せないって、どんな課題を出されたですか?」
質問に答える間際、葵は突然名案を閃き、両手をパチリと打ち合わせる。
「あっ、そうだ! 目の前に、忍びとは無縁だった妹と、忍びの世界に詳しい『擬似妹』が居るじゃな~い♪ ちょうど好いから、この件について二人に聞きたい事があるの」
流石は忍者。
何処からともなく数枚のレポート用紙を取り出して、テーブルの上に並べる。
イチカはその第一ページに目を通して、胡散臭そうに題字を読み上げた。
「なになに……。『外国人に忍者が絶滅したと思わせる方法』って、何ですか、このしょうもない題はっ! いっそ本当に絶滅してくれてたら、私にとってどれだけ好かった事か!!」
「イチカったら、そんな意地悪なこと言わないの。これって結構、忍ヶ丘には重大な事なのよ」
まったく同意見のさよが、具体例を上げて注意を呼びかける。
「よく有りそうなのは、外国人観光客がウッカリ迷い込んで、写真をねだるケースです。それを皮切りに、ネットで動画をアップ。そうして大勢の人が忍ヶ丘に雪崩れ込んできたら、さよ達の生活は滅茶苦茶です!」
自分への同情は何処へ行った!?
イチカは、莫迦らしさを感じて勢いよく席を立ち、午後一番の訪問予定を繰り上げる。
「その前に、私の生活は現在進行形で滅茶苦茶です! もう付き合い切れません。こうなったら、私一人でも学校に行って来ます!」
イチカはリュックを肩に掛け、現実から目を背けるように玄関へと向かう。
三和土の手前――式台に座って下足に指を這わせるイチカを、葵とさよが能天気に見送った。
「あっ、イチカ~。だったら貴方の意見は、あとでキチンと聞かせてね~♪」
「イッちゃ~ん、行ってらっしゃいです~。『はぐれ魔獣』や『里の外から忍び込んできた敵忍者』に気を付けて下さいね~」
(出掛けに、なんか不吉なこと言われたっ!!)
イチカは渋い顔で我が家を飛び出し、自転車に乗って忍術学園へと向かった。
正解は、黒電話でした。
忍者に関する専門知識はともかく、一般科目に強いイチカは、どうやら黒電話の
存在を知っていたようです。