悪魔の便所
忍術学園訪問までは、まだ少し時間がある。
イチカは食卓前の椅子に座り、コンロの前で蕎麦を茹でる姉に愚痴を零した。
「それにしても、姉上が忍者だったなんて……。母上たちはどうして私に、そんな大事なことを隠していたんだか。しかも自分達でさえ、その道のエリートだなんて!」
後ろ背に聞き耳を立てる葵は、菜箸で鍋を掻き回しながら無邪気に笑う。
その仕種に、立派な姉を演じるメッキは剥がれている。
保母に適した面倒見の良い声が台所に響いた。
「そんなに母上たちを悪く言ってはダメよ。これでも貴方が小さい頃、みんなで
真剣に話し合ったんだから。忍びの世界に常人が一人。どう考えたって、普通の
家庭が成立するわけないでしょ?」
「むうぅぅぅ……。それは確かに、そうですけどぉ~」
騙し討ちを喰らったようで、なんとなく気分が悪い。
イチカは行儀悪く、テーブルの上に突っ伏した。
その横で、生まれも育ちも忍びの里の瓊荷木さよが、イチカの反応に疑問を感じる。
「イッちゃんは、そんなに忍びの存在が不気味ですか?」
不可思議レベルで言えば、隣りに座るさよも同じだ。
見た目は子供と侮っていたが、なんと、イチカと同じ15歳である。
彼女も忍ヶ丘に住む一般女子と同様、幼少期から忍術修業を受けていたが、華奢な体格のため、訓練に慣れなかったのである。
その代わり、忍具の鑑定眼は一級品。
その才能を見込まれて、忍術学園一階の購買で、管理人として働いている。
さよの見た目通りのたおやかさに強く出れず、イチカは人差し指を立てて丁寧に返す。
「さよちゃんの場合、生まれた時から忍者社会に馴染みがあるので仕方ありませんが、もしも、この街の外で『忍者』なんて言おうものなら、完全に変わり者扱いなんですよ?」
忍び社会は、隠蔽体質そのものである。
さよも、その点には心当たりが有るので、明快な反応を見せた。
「確かにこの忍ヶ丘も、秘密にしていることが多々あるですね。現代社会に忍者あり。それを隠すために、街中には近代建築が一杯ですよ」
その一言で、道中、イチカが抱えていた疑問の一つが払拭された。
さよの同意を得たこともあり、イチカの追及に勢いが増す。
「そこですよ! 甘味処の横にビルとかミスマッチな光景に出会すし、一般人と思しき人も平気で歩いてる。いったい何なんです、忍ヶ丘って。本当に忍者なんて居るんですか?」
葵は再び短く笑うと、改まった調子で口を開いた。
「そうよね~。これから、この街で生活するんだもの。まずは、その辺りのことを詳しく教えてあげる♪」
さも愉快と言った調子で、葵が忍ヶ丘の来歴を語り始める。
慶応1年、幕末の時代。
異能の力の源である紫水晶を手にした忍び・天空は、時の権力集団である徳川幕府と敵対し、陰忍組織『天海衆』を結成した。
天空は、己の体内に大量の呪術媒体を保有し、直ちに傷を再生する不死身の存在である。
これに対して雪風率いる陽忍集団『五部』は、陽忍術の高純度媒体・五行の宝輪を用いて、天空の体内に流れる呪術媒体を無効化しようと考えた。
しかし、その試みは失敗した。
五行宝輪が放つ膨大なエネルギーに術者が耐え切れず、その模造品を使って、
天空を封じるだけで精一杯だったのである。
『いつの日か、天空は復活する』
そう言い残した雪風の遺志を継ぎ、今なお延命術によって生き長らえた一部の
忍ヶ丘・陽忍は、五行の宝輪を使いこなす、優秀な忍びが生まれるのを待ち続けていたのである。
話の区切りに、イチカが緊張感のない相槌をうつ。
「ふうぅん、そんな事があったんですかぁ……」
踏んぞり返って椅子の脚をガタガタ揺らす妹に、葵は残念な気持ちで肩を落とした。
「イチカ……。その口振りからして、全然信じてないって感じね」
当然のことである。現代社会に忍びの集落が存在するだけでも眉唾物なのに、そこに来て、陽忍術なる異能力の存在である。
(やっぱり、どっか胡散臭いんだよなぁ……)
集中力の切れたイチカは、使い勝手の良い用件を切り出す。
「あっ、そうだ。ちょっと、トイレに行っても良いですか?」
イチカの魂胆を見抜いたさよが、隣りの席で目を細める。
「うわっ、誤魔化したです」
「ハア……。もう好いわよ。どうせイチカも、すぐに信じざるを得なくなるから。トイレは玄関に向かってすぐ右だから、行ってらっしゃい」
「ハ~イ♪」
イチカは席を立つと、葵の指示通りに台所を出て、玄関前を右へと曲がる。
やがて、目の前の粗末な木戸を開けて中に入ろうとした瞬間、イチカの笑みが
凍り付いた。
そこに在ったモノは、和式というよりむしろ旧式。
ツンと鼻を刺す化学的な香り。
屈み込む姿勢を強要した伝統的な造形。
その中心に広がる『謎の大穴』。
水洗式などではない。
それは、今は亡き古式ゆかしい汲み取り式。
人呼んで、『ボットン便所』であった!
これは、女子にして10代半ばのイチカにとっては、あまりにも厳しい洗礼である。
呼吸を止めて、『バターン!』と力一杯に異次元空間を封印。
一目散に台所へ戻ると、目を渦巻き状にグルグルと回して不明瞭に喘ぐ。
「あ、あ、あ、姉……。トイレ、穴……」
なにを言ってるのかサッパリ判らない。
鍋の中身をザルへと移した葵は、頭上にハテナマークを浮かべるばかりである。
反対にさよは、イチカの言いたいことを具に理解して、気不味い空気で口を開いた。
「そう言えばイッちゃんは、葵の家のおトイレ、初めて目にするんでしたっけ」
ようやく葵もすべてを理解して、ウンウンと小刻みに首肯する。
「もう数年越しの付き合いだから、すっかり忘れてたわ。そっかそっかぁ♪ 忍ヶ丘広しと言えど、家だけだものね~。ボッ……」
「ストーップ!! それ以上は何も言わないで下さい、姉上!」
禁則事項を阻み、乙女のプライドをギリギリの所で死守するイチカ。
続けて、どうしたもんかと表現方法に苦しみ、しどろもどろに質問する。
「その……。あの場所、と言いますか……。とにかく姉上も、あそこで用を足すのですか? しかも、その格好で……」
葵の服装は、膝下までの裾の長い着物である。
屈み込んだら確実にアウトだ。
さすがの葵も、そんなバカな……、と鼻を鳴らして苦笑した。
「近くに衣紋掛けがあるもの。上着をそこに掛けてからよ~♪」
屈託もなく返してくれる。
こいつはかなりの玄人と見た。
(どうしよう……)
イチカの心は揺れに揺れる。
これからこの家に住む以上、決して避けては通れぬ関門だ。
行くべきか、行かざるべきか。
それこそが問題だ。
有名な物語の一節を引用してみたが、事態は一向に解決されない。
――行ってみよう……。
勇気を振り絞って拳を握るが、脚がまったく動かなかった。
どうしても無理だ。
女の子にとって、彼処は魔窟である。
あまりの苦悩ぶりに、さよが気の毒に感じて助け船を出した。
「あの、イッちゃん……。もし好かったら、私の家のを使いますか? すぐ御隣りですし」
藤森イチカ、自分の家のトイレに行けない15歳。
はたしてそれで良いのか、と自問自答する。
一秒、二秒、そしてギブアップ。
イチカは、ほんのりと涙を浮かべて項垂れる。
「ハイ、お願いします……」
さよの家のトイレは、ちゃんと水洗式であった。
私の生まれた家のトイレが、まさにコレでした……。
子供のころ、親戚が家に来て『かくれんぼ』をやった時、私は何者かに身体を押されたような衝撃を受け、あの深淵に右脚を突っ込んだのです。