風
翌日、水野邸内。
白い壁紙と夜具。その他必要だけ、必要だらけの空間。
目が覚めた希更は、『チリン……』と涼しげな音色を鳴らす。
人が来れば万事を相手に委ね、来なければ自力でこなす。
それが、この部屋での習慣であった。
水野希更にとっての『世界』と言っても良い。
ただ、今日の世界はやけに騒がしかった。
『ドムッ! ドムッ! ドムッ!』
重低音のビートを刻む低音域スピーカー(ウーファー)みたいな足音が、畳を強く振動させる。
(なんで戦国武将みたいな、自信満々の歩みなのかしら?)
訝りながらも、希更は思い当たる人物の名を口にした。
「お父様?」
だが、希更の予想は乱暴にも裏切られる。
ズバッと遠慮なく障子を開けて現れたのは、黒の忍者服に、ショートカットが
特徴の素人忍者、藤森イチカであった。
無礼千万な登場もさる事ながら、意外な人物を視界に捉えて、希更はすばやく
身を起こす。
「ふっ、藤森さん!? なんでこんな所に!」
いっぽう、当のイチカもビックリしていた。
彼女にとっての家とは洋風建築であり、自分の部屋とは、木のドア一枚隔てた
要塞である。
まさか、障子紙一枚さきにプライベート空間が広がってるとは、夢にも思わなかったのだ。
威勢よく乗り込んだ割には、まさかの不作法に顔を赤らめ、イチカの勢いが一気に崩れた。
「はぇ!? まさか、ここが希更ちゃんの部屋? ご、御免なさい! 私、てっきり客間か何かかと思って、ショートカットしようと……」
想像を絶する非道な動機に、希更は硬直した笑みで指摘する。
「藤森さん。それも充分、失礼だと思うけど……」
「す、済みません……。私、日本人の癖に、日本建築ってよく分からなくて」
イチカは開け放った障子をしずしずと閉てて、寝床のそばにペタンと正座する。
腰を落ち着けるなり、イチカはしげしげと室内を見回した。
(ふへえぇぇ……。ここが、希更ちゃんのお部屋かぁ)
正確には、静養し、寝起きするだけの病室である。
彼女本来の部屋は別にあった。
以前に聞いた座敷牢という表現は、あくまで彼女の心象風景なのだろう。
イチカとしては、子供の頃、教育番組で見た戦後まもなくの隔離病棟を想像していたが、現実はもっと開放的だった。
手の届く範囲に自由があるだけ、病人の希更にとっては、むしろ残酷だったのかも知れない。
イチカが無遠慮に視線を走らせる間に、希更が思考力を取り戻す。
「でも藤森さん、一体どうして此処に?」
どうやって家を知ったのか。
そういう意図の質問だったが、日本語の難しさが、うまい具合に本題へと結びついた。
イチカは早速、決意の変化を希更に示す。
「私、希更ちゃんのお見舞いついでに、『今度の試験を本気でやる』って励ましに来たんです」
驚きの連続で、頭がうまく働かない。
だが、それも時が経つに連れて、雨が大地に染み込むように、その意味がじんわりと心に伝わる。
イチカの急な心変わりを聞いて、希更は不思議さと喜びで声が震えた。
「それじゃあ藤森さん……。私と一緒に、試験合格を目指してくれるの? でも、どうして? 藤森さんは、くのいちを辞めたいんじゃなかったの?」
心意気も姿勢も固く、イチカは背筋を伸ばして、拳を膝の上に固める。
そこには志を曲げぬ、武人のごとき風格があった。
「それが……。私、あのあと色んな人に会って分かったんです。『なりたい自分』は、今もまだ分からないけど、少なくとも、『今、こう在りたい自分』だけは守り抜こうって!」
「こう在りたい自分……?」
思い当たる節はあった。
一週間前、駅へと向かう帰り道だ。
ただ、あのとき自分が放った言葉は、細部が少し違った気がする。
――自分が知らない言葉なのは、彼女なりの答えを見付けたということか……。
結果を期待する希更に、感覚的で回りくどいが、実感のこもった表現をイチカは連ねる。
「理想の未来は分からないけど、一瞬一瞬、今、なにをしたら良いのかくらいは、直感的に分かると思うんです。正直、忍者社会への抵抗だって少しはありますけど、大切なのは其処じゃないって気付いたんです」
なにかが動き出す予感に、希更の心が弦のごとく張り詰める。
「それじゃあ、何……?」
イチカは、静寂と潔癖の世界に、決定的な音色を奏でる。
「忍びを辞めるかどうかじゃない。大切なのは、今、『自分がどう在るべきか』なんです。私はこんな時、友達のために戦い、自分自身に何が出来るのか、目の前の困難に全力でぶつかる自分でありたい! 理想の自分は、きっとその先にこそあって、こんな時、全てを諦めるような道の先に、なりたい自分は決して存在しないって事を!」
情熱と希望を、冷え固まった水野希更の『世界』にぶちかます!
「私、自分の師匠を見付けたんです! だから今度の試験、絶対に希更ちゃんと
合格してみせます。希更ちゃん、今度は私の方からお願いします。『頑張れ』だなんて言いません。でも、もう一度だけ立ち上がって下さい。私と一緒に、立派なくのいちになって下さい!」
その瞬間、希更は心に風を感じた。
確かにイチカは、姉のような優秀な忍びではない。
その身に風を受ける『女騎士』でもない。
――なぜならイチカは『風』である。
不安の霧を裂き、惑いの雲を払う一陣の清風である。
頬を切る涙が、白の牢獄から霞を吹き消し、錆びた視界が一気に色付く。
涙で視界がぼやける中、希更は、自分が忍びを目指した真の意味を、時を越えて理解した。
「藤森さん、ありがとう! 私、私……、絶対にくのいちを辞めたくない! だって、こうして貴方と会えたんですもの!!」
差し伸べられた手を、イチカは固く握り締める。
――もう此の手を、決して離したりはしない。
イチカは勇ましくも快活な笑みで、病床の希更を励ました。
「希更ちゃんには、金剛先生が付いててくれるはずです。お互い、自分の師匠と一対一で特訓を受けて、絶対に試験を合格しましょう! 希更ちゃんなら、必ず
立派なくのいちになれます!!」
イチカの激励に闘志を蘇らせた希更は、掛け布団を身体の脇へと捲りあげる。
「なら、私もノンビリなんてしてられないわ。特訓、始めないと……」
まだ少し顔の蒼い希更を、イチカが腰を浮かせて引き留めた。
「あっ……。ムリは禁物ですよ、希更ちゃん。私の師匠が言ってました。忍びの
忍耐は身体の我慢よりも、まずは心の自重からだって」
イチカのもっともらしい忠告を聞いて、希更は内心、白旗を揚げた。
実際、強がるだけで精一杯で、ノロノロと布団の上へと崩れ落ちる。
「まさか忍ヶ丘の外から来た藤森さんに、忍びのなんたるかを教わるだなんて思わなかったわ」
「エヘヘ……。私もこう見えて、密かに精進してるんです」
イチカは照れ隠しに人差し指で頬をなぞると、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ私は、特訓の打ち合わせと新忍具の開発をしに、今から学校に行って来ます」
布団の中で病臥の姿勢を整えた希更が、イチカを見上げて柔らかく微笑む。
「ほかの人はともかく、新しい忍具、私には見せてくれるんですよね?」
「勿論です! 待ってて下さい。私にピッタリの物を製作してきますから!」
踵を返し、部屋を出ようとした所で、イチカは不意にその動きを止めた。
「っと……。その前に、希更ちゃんに渡す物があったんです」
意地悪めいた顔でイチカが振り向くと、病床の希更は期待を感じて、掛け布団の端っこを握り締めた。
「私に……? いったい何かしら」
「もうっ……。あれだけ自分から言っておいて、もう忘れちゃったんですか?
ハイ、約束の本ですよ」
リュックから出した雑誌を畳の上に置くと、希更が布団の上から跳ね起きた。
「それは! 雪風家伝創刊号と、付録の隠れんぼキット!!」
「ハイ。私が皆さんに勝つためには、隠密状態からの急所攻撃しかないと、天狗どのも言ってました!」
一拍おいて、イチカは急所攻撃を仕掛ける際の不安を明かす。
「とはいえ、こちらが陽忍術を抑えて気配を隠してるなら、どうしたって相手の方がスピードは上ですからね。不意討ちの成功率を上げるには、術を使わない隠行を、その本で学んで置くべきだと思うんです」
「そ、そうね……。なんと言ってもコレには、その極意が記されてるんだもの……」
希更の返事は賛成半分、雑誌への魅了半分といった譫言めいた雰囲気だ。
激励に加えて、創刊号による絶大な効果を確信したイチカは、まるで子供の機嫌を取るかのように、希更にやんわりと言い聞かせる。
「それじゃあ希更ちゃん、私はこれから学校に行きますけど、くれぐれも創刊号に影響されて、無理なんかしちゃ駄目ですよ」
イチカはクスッと笑って背を向けると、またしても、豪傑度まちがい無しの足取りで去って行く。
空の青さと草花の香り。障子が開けられた時、渦を巻いて吹き込む風ですら、生命が芽吹く緑色に見えた。
もう、寒々しい『白の世界』ではなくなった室内、布団の中で希更が微笑む。
「ふふっ。藤森イチカさん、か……。本当に変な人♪」
希更は楽しそうにクスクスと笑うと、自分が切望していた雑誌よりも、今は友人の方が気懸かりである事に気付く。
今さら、ベルを鳴らす気にもなれない。
「やっぱり起き上がろうかしら……」
言い付けを破って立ち上がると、昨日とは違う未来が、明日から始まる気がした……。
・天海衆
天にも海にも遍く影の存在。また、天網恢恢疎にして漏らさずという諺から生まれた、忍びを多く擁する生活集団。
徳川家の命令により、邪教徒の手から妖術の源・紫水晶を奪い取るも、その力を
独占しようとする幕府軍により、集落を焼かれて散り散りとなる。
後に、徳川の世を恨んで天海衆を再結成するも、邪教徒の用いた『呪術』に代わる新たな異能力『陰忍術』の先鋭化により、体制側に仇をなす戦闘集団へと変わる。




