葵
忍術修業など冗談ではない。
そっちが家訓を盾にするなら、自分は約束通り入学して、さっさと元の学校に
復学してやる。
回想から我に返ったイチカは、忍ヶ丘の住宅街で、母への憎悪を宙にぶちまける。
「母上、あなたは人間のゴミクズです!!」
誰にでもなく言い切ったことで、少しは気分がスッキリした。
ところが、返す筈のないその言葉に、何者かが恐怖の悲鳴を上げる。
「はにゅわぁ!? いったい何ですか、急に……」
気付くと、目の前に一人の少女がいた。
身長、約145センチ。あどけなさを感じさせる声と、ハッキリと意志の整った口調からして、おそらく中学一年生と言ったところか。
女の子は、白い無地の半袖シャツに、今では滅多に見られない、もんぺのような裾が膨らんだパンツを穿く。
さらにはその上から、初夏だというのに、薄手の袢纏を羽織っていた。
毛先が肩にふれるくらいの髪を、根本で短く二つに結んで、後ろに流した素朴な風貌。
過剰な装飾が一切見られない、人畜無害の塊みたいな存在だ。
そんな彼女が、今は小動物のように震えて、くりっとした円らな瞳をきつく閉じている。
――これはマズイ。
どうやら自分は意図せぬ形で、見ず知らずの人を恫喝してしまったみたいだ。
しかも相手は、自分より年下のいたいけな少女である。
イチカの胸に罪悪感が重く伸し掛かる。
「ああっ! ごめんなさい。私、ちょっと嫌なことを思い出して、ウッカリ独り言を口にしちゃっただけなんです。別に、あなたに向かって八つ当たりした訳じゃありませんから!」
少女は、「ううっ……」と小さく泣きべそをかいて、怯えがちにイチカを見上げる。
「本当ですか?」
「ホントホント! 私の母上ってば、物凄っっっっっごくマイペースな性格で、私の進路を勝手に決めちゃう、とにかく酷い人なんです。それなのに、誰にも相談できないものだから、さっきは思わず本音が出ちゃったんです」
本当は、忍術修業や家庭の事情を事細かく説明したかったのだが、初対面の相手にいきなりそんな事を言っても、奇異な目で見られるだけである。
少女はイチカの言い分を素直に聞き入れて、ポコンと可愛らしい溜め息をついた。
「ハア……。それなら好かった。信じるです……」
誤解が解けてホッとしたが、自分が迷子なことに変わりはない。
見知らぬ土地で最初に会ったのが無辜の民とは心細いが、黒装束でニンニン忍んじゃう輩よりはずっとマシである。
(私の愛読書、雪風家伝・虎の巻にも『好機、逸すべからず』と書いてありました。こうして会ったのも何かの縁ですし、ここは一つ、ダメ元で道を聞いてみましょう!)
イチカは思い切って、巻物型のメモを前に広げて少女に尋ねる。
「あの……。実は私、この地図を参考に、姉上の家を探してるんですが、住宅街に入ってからやたらと小さな路地が多くて、道がよく分からないんです」
すると少女はピコポコと近くへ歩み寄り、イチカの横に並んで、巻物を繙いてゆく。
「ふむふむ……。これは所謂、密書という奴ですね。それを他人に見せちゃうなんて、お姉さんも相当剛毅な人です」
密書などと、いやに古めかしい言葉を口にする。
少女と言葉の関係がミスマッチに思えて、イチカの顔から笑みが零れた。
「密書だなんて……。これは単なる横長のメモじゃないですか。忍びの世界じゃあるまいし」
「……………………」(無言で密書を解読中)
(ああっ、その反応……。やっぱりこの街には、忍者がいるんだ!)
嫌な予感に気持ちが塞ぐイチカ。
ややあって、地図の解読を終えた少女が、突然、爪先立ちとなる。
「あれれ? 此処って多分、葵の家ですよ。だってこの地図、さよの家のお隣りですもん」
「お隣りさんって事は、ひょっとして、姉上を知ってるんですか?」
自分の名前を『さよ』と口走る少女は、両手をフリフリと楽しそうに主張する。
「ハイです! 葵は髪が長くて、暑い日以外は、十二単みたいな上品な着物を着てスラッとスタイルの良い、理想のお姉さんです。ちょうど今から、さよも家に帰る所ですし、どうせだったら、一緒に案内してあげるですよ」
道端で『ゴミクズ』呼ばわりされてしまった事も忘れて、無垢なる少女・さよが前を行く。
イチカはさよの後ろに続いて、駐車場とアパートに挟まれた小径を抜ける。
奥まった場所を右に曲がり、砕石敷きの駐車場から、地盤が一段高い左隣りの
敷地に足を踏み入れた。
段差を越えて左を向くと、目的の家はあった。
周囲の立派な二階建てと比べると、その家は見劣りが著しい。
粒子が粗いセメント瓦に、焦げ茶色の板を打ち付けた薄い外壁。
駐輪場を兼ねた右奥の狭い庭の一角に、自分こそがこの家の主であるかのように、杉の巨木が天高く聳える。
玄関脇には黒土剥き出しの厳しい環境に耐え、左は笹、右にはバラが咲き、閑寂とした庵に風雅な趣を添えていた。
古い時代の街並みに、更なる古めかしさをもって時代に叛逆する一戸建て。
その玄関戸を、さよが小さな拳でノックする。
「ア~オイ~、さよですよ~♪ 葵に会いたいって言うお客さんを連れて来たです~♪」
細い金属格子の玄関戸が、立て付けの悪さから『ガザン、バザン!』と耳障りに揺れた。
ややあって、中から透き通った声で返事があった。
「はいは~い♪」
(あっ! 母上と声がソックリ……)
実際の声色はまったく別だが、その響きには何処となく、自分の家族を連想させた。
――この玄関の向こうに姉がいる。
イチカは不図、もどかしい衝動に駆られた。
さよの説明によると、髪は長いらしい。
なら、顔立ちは?
身長は、もう追い越しただろうか?
才媛と謳われた姉と、不出来な妹。
(私は、姉上に追い着けたのかな……?)
やがて、曇りガラスの引き戸が左にスライドして、藤森葵の姿がハッキリと確認できた。
長身細身で、白く肌理細かな肌。
腰まで届く芯の太い黒髪。
色鮮やかな着物の上に、藤色の上掛けを羽織り、金粉を散らせた黒の細帯が、
重ね着をウエストの辺りで緩やかに留めていた。
目は切れ長で鼻筋は高く、眉は細くて長い。
理知的な顔立ちで、黙っていれば氷のような鋭ささえ感じられる。
イチカはしばし、その場で声もなく立ち尽くす。
美しさに見惚れた訳ではない。
女性としての器量の違いに嫉妬したのでもない。
内面から滲み出す一人の人間としての風格に、唯々、姉が光って見えた。
玄関戸を開けて中へと吹き込む静かな風に、逆巻きもせず棚引く漆黒の艶髪。
その姿は、運命の風に曝されて尚、勇敢に立ち向かう、一人の女騎士を思わせた。
(運命……)
イチカは、己が身ひとつ侭ならない。
だからこそ自分は今、忍ヶ丘にいる。
――自分はただ女騎士を見仰ぐ、泥に塗れた町娘なのだ。
再会の喜びと劣等感に、言葉がうまく出て来なかった……。
いっぽう、肉親と長らく離れ離れだった葵も、掛ける言葉がすぐには見付からない。
長い時間の空隙は、容易に埋められるものだろうか?
妹を前にした葵は、潤んだ瞳を笑顔で隠し、震える声でイチカを迎える。
「家を出てから10年くらいになるかしら。本当に大きくなったわね、イチカ……」
対するイチカも、懐かしさが胸一杯に込み上げて、途切れ途切れに言葉を返す。
「姉上こそ……。顔は昔と変わりませんが、背も髪も、前よりずっと長くなりましたね」
葵は胸を咬む後悔に、再び短く無言の囁きを重ねる。
変わったのは外見だけではない。
自分は、忍び大学に進学した『上忍』である。
それに引き替え、イチカはどうか?
両親が言うには、イチカに忍びの才能はない。
だからこそ、隣り街へと置いてきたのだ……。
そんな自分に出来る事といえば、一人の姉として明るく振る舞い、これから厳しい修行に身を投じる妹を励ますことだけだ。
今度は遠慮や逡巡を一切感じさせず、二人を気さくに中へと招く。
「とりあえず、イチカもさよも中に入りなさい。外では気分が落ち着かないし、イチカは、この街に初めて来たんだから、色々と込み入った説明が必要でしょ?」
戯けた空気と柔らかい口調は、かつて一緒に暮らしていた頃と、まったく同じ
印象だ。
幼い頃の記憶がボンヤリと蘇って、イチカは澄み切った笑顔で葵に返す。
「ハイ、お世話になります!」
ちなみに、祖父(基一の父)の名前は『藤森新十郎』。
イチカの姉の名前が『葵』であることから、夫婦のどちらが名付け親なのか、割と簡単に想像がつきます。