憧れの本性
「起立……。礼、着席……」
愛里の号令で全員が席に座ると、黒板前の土御門ひなたは、普段と違った切り出し方で授業を始めた。
「それでは今日の授業は……、そろそろ夏休みも近いことだし、いつもの練丹術ではなく、休み明けから始まる科目の『符術』について説明します」
授業の説明によると、ひなた自身は符術を得意とする陰陽師で、彼女が教えられる練丹術は、符術作成の前段階までが限度らしい。
(陽忍術かぁ……。私にもソレが使えたらなぁ)
ひなたの講義をボンヤリと聞きながら、イチカは密かに夢想する。
ついさっき、希更に学園を辞めると言っておきながら、その実、心の奥では未練が燻っていた。
――理由は分かっている。
すべては理想と現実の兼ね合いだ。
本当は心の何処かで、平凡な日常に飽き飽きしている。
イチカは、ノートの白紙をシャーペンでトントンと叩きつつ、陽忍術が使える
自分を想像する。
月を背に、屋根から屋根へと宙を伝い、敵を退ける忍者。
その姿に自分の容姿を重ねるが、どうにもしっくり来なかった。
想像の面影は、すぐに姉の葵にとってかわる。
なんの見劣りもしない可憐な風貌。
瞬く間に、現実感が空想世界に押し寄せる。
イチカは失望に首を振って、頭の中から妄想を追い出した。
(やっぱり私は、忍びになんて向いてないや……)
夢から覚めてしまったイチカは、右隣りの席を横目でチラリと盗み見る。
あれ以来、彼女は此方に目を合わせようとせず、空疎かつ黙々と講義に耳を傾けている。
イチカに対して怒っているのではない。
廊下でひどく取り乱した自分を恥じているのだ。
続く金剛先生の戦術授業も、個人技訓練の内容が重なり、接触の機会がまるでなかった。
試験前のお浚いとして、体育館で、刀と手裏剣の扱いを指導される。
事前に計画された訓練メニューだろうが、ついでに素人の自分を考慮した反復
授業であることも容易に想像がついた。
(忍術修業に慣れるための、特別編成授業かぁ。私、この学園を辞めるのになぁ……)
授業の難易度に反して、イチカの心は重くなるばかりである。
午後、イチカは職員室の中に入ると、ついさっき授業で対面していたばかりの、修験者風味バッチリの教師へと近付く。
すると、普段は笑顔の映えるこんもりとした表情筋が、今に限っては、緊張に
ピタリと顔に張り付いていた。
(あれっ? ひょっとして、何かあったとか……)
イチカは金剛先生の席へと近付き、恐る恐る声を掛ける。
「あの、金剛先生……。今日も特訓に来たんですけど、なにか困った事でもあったんですか?」
「ああ、藤森か。うむ。まぁ、少々な……」
言葉少なく誤魔化してから、金剛先生は自分の膝をパシンと叩いて、気合いを
充填する。
「いや。今はとにかく、修業だ修業……。今日は昨日とは違う霊場、『愚民の森』に行くぞ。基礎訓練が壇ノ浦なら、遭遇戦や地形を利した立体戦術は愚民の森だ。しばらくは、この二箇所を基点に特訓を進めて行くぞ。良いな、藤森」
「はい、分かりました!」
「よし、では行くぞ。昨日と同じく、水野は既に現地入りしている。我らも続くぞ!」
さっそく二人は、愚民の森へと分け入る。
壇ノ浦が熱帯の密林だとすると、愚民の森は、地上に光が差し込む自然公園といった趣が強い。
植生は豊かで、足下は牧草と苔が入り混じり、鳥の囀りもごく静かである。
反面、はぐれ魔獣との遭遇率も格段に高い。
彼等は、忍ヶ丘に自生する草木類から忍術媒体を経口摂取し、異常な身体能力と知性を獲得している。
分かりやすく言うと、彼等も動物流の陽忍術が使えるのだ。
危険な地域であればこそ、訓練場の整備は行き届き、専門的な技術修練にも向いている。
手裏剣の的や戦人形の他に、樹木に吊された灌木罠や、複雑に入り組んだ塹壕と高低差のある足場。
すべては、動きながらの修業を前提とした造りで構成されている。
二人が来るまでの間、希更は剣術修業に打ち込んでいたのか、縄吊りの丸太が
左右に揺れていた。
イチカは朝の一件が気に懸かり、訓練場に到着するや否や、躊躇いながらも声を掛ける。
「あの、希更ちゃん……」
希更は静かに小太刀を納めて、普段通りの笑顔を心掛ける。
「今朝のことは気にしなくて良いわ。私もあの時は、興奮しすぎたもの……」
だがその笑みからは、何処かしら、ぎこちなさが見て取れた。
こうした二人のすれ違う空気に、金剛先生は小さく『ぬうぅ……』と呻き、苦い物を少しずつ吐き出す。
「藤森……。やはり御前は、忍びになるのが嫌なのか? 今度の試験、敢えて自ら落ちる積もりなのか?」
振り向いたイチカは、驚きと心苦しさに、一歩、二歩と後退する。
「ど、どうして先生がそのことを……。まさか、華隠さんが先生に話したんですか?」
「いいや……。それは違うぞ、藤森。副委員長の立場として、獅堂が先生に相談してくれたのだ。われわれ教師が変に期待すると、却って御前を苦しめるだけではないかとな……」
責任感の強い彼女からして、如何にもありがちな配慮である。
イチカは、相手の隠れた優しさに触れた気がして、自然と顔が綻んだ。
「そっか……。獅堂さんは、私を心配してくれてたんですね」
しかし、現実はそんな人情話では済まない。
金剛先生は握り拳を震わせながら、張り詰めた空気でイチカを見つめる。
「だが藤森、今回だけは駄目なのだ。お前には、どうしても期末試験に合格せねばならん事態が持ち上がったのだ!」
熱意を込めて訴えかけると、金剛先生は視線を落として、悔しげに宣告する。
「ついさっき、昼の職員会議で試験方法が決まった。今回の試験内容は、生徒同士による模擬戦。その対戦方式は、『二人一組のツーマンセル』だ!」
事情を知らないイチカの横で、希更がショックに青ざめる。
「そんな……!!」
「どうやら水野は、言葉の意味を理解できたようだな……。そうだ。今回の条件は、お前の忍者生命を絶つことに等しい」
話の飛躍について行けず、イチカが困惑の度合いを深める。
「二人一組が、どうして希更ちゃんに不利なんですか?」
説明には個人情報を多分に含み、金剛先生は、顔に深い難色を示す。
「実は、水野の忍術学園進学には、彼女の父が強く反対しているのだ。水野は、この日本でも有数の商家、水野グループの一人娘だ。忍者一筋の強い憧れゆえに、一度は娘の進学を許可したものの、体調を崩すたびに、今度こそは辞めさせようと、方々へ手を回して来るのだ」
忍術学園には、留年制度がない。
三年間で自動的に学園を去ると分かれば、そのぶんの出費や代わりの教育費を
捻出することくらい、資産家の父親にとって大きな負担ではなかった。
そこへ更に、希更が絶望的な事実を告げる。
「だから今度の試験に合格したら、私がくのいちを続けるのを許す代わりに、失敗したら忍びの道を諦めるよう、約束してしまったの……」
「でも、進級試験で相手チームに負けたからって、落第するとは限らないんですよね?」
苦し紛れで返す意見に、金剛先生は自信なく頷く。
「忍術学園の成績は、平常授業の単位に加え、試験時の『技術点』と『遂行点』によって計算される……。だが、前にも言ったはずだぞ。水野はこの時期、体調を崩して休みがちだと」
「それじゃあまさか、希更ちゃんは……」
不安に首を軋ませながら動かすと、視線の先で、希更がワッと泣き崩れる。
「私にはもう、この試験に合格する以外、進級することが出来ないの!!」
補習や特訓で単位の補充も可能だが、無理をすれば体調を崩し、父親の不安を煽って、更に不利な状況となる。
金剛先生の顔に、幾重にも苦渋の皺が走る。
「下忍の御前たちに、技術点など望むべくもない。かと言って、試験は数少ない単位修得のチャンスだ。よほどの事がない限り、他の者が協力してくれる事などなかろう」
金剛先生の空気に、鬼気迫るものが加わる。
「藤森、もう分かったろう。事は御前だけの問題ではないのだ。御前にとっては、万事が降って湧いたような苦難ばかりだ。厄介至極なのは重々承知している。しかし、水野のことを想うのならば、お前は試験までの一ヶ月で、級友たちを倒すだけの力を得なければならない!」
イチカは更に、二歩、三歩と後退る。
今にも彼女の胸は、重圧と、不運と、自分の意志を無視する圧倒的な運命に押し潰されんばかりである。
「そんなの、私には無理ですよ……。私は、皆さんと違って忍術も使えないし、姿だってロクに消せない落ち零れなんですよ? ダメダメの、見せかけ忍者なんですよ!?」
怯み、恐慌するイチカの肩へ、希更が亡者にも似た必死の形相で縋りつく。
「そんなこと言わないで、藤森さん! 私、くのいちを辞めたくない! もう、あの小屋には戻りたくないの!!」
希更はそのまま、イチカの瞳を直視する。
しかしその瞳にあるのは、日頃、彼女が口にする忍者への憧れではなく、理想の未来から外れることへの底知れぬ恐怖であった。
「自分勝手なのは分かってる。でも、もう彼処は嫌なの! 座敷牢みたいな、あの、何もかも整えられた部屋から、空を見上げてる日々は……。苦しくても良い。辛くたって構わない! それでも私を、自由な世界へと解き放ってくれる生き方……。私は、くのいちでありたいの!!」
希更は何度も息を吸い、想いの丈をイチカにぶつける。
そのうち彼女は、突然、身体を痙攣させて激しく咳き込み、イチカの肩へと体重を預ける。
まるで悪霊が憑依したように髪を振り乱し、胸を押さえて半狂乱に藻掻く姿に、自身の煩悶など一瞬で吹き飛んだ。
イチカは希更の肩に手を掛けて、必死に呼び掛ける。
「希更ちゃん!! 希更ちゃん、急にどうしたんですか!?」
希更の急変に、金剛先生の気配に鋭さが増す。
「ぬうっ!? これはまさか、喘息か!!」
話には聞いていたが、これほど酷いものとは思わなかった。
喉を擦る硬い息と、肺を叩く咳が乱暴に胸を打つ衝撃。
火傷に似た痛みが身体の内側で進行し、粘膜を灼いて、細胞膜をこそぎ落とすかのようだ。
「先生。この森は、空気が綺麗な場所じゃないんですか?」
金剛先生はイチカの問いに同意しかけて、すぐに心当たりを閃いた。
「……まさか!!」
揺れの止まった丸太に近付き、注意ぶかく視線を走らせる。
真新しい斬撃痕。
穿たれた直線は短く、それにしては深い。
乱暴に溝を刻んだせいで、破砕面が荒く罅割れている。
模造刀の頑丈さに頼った、下忍によくある力任せの太刀筋だ。
金剛先生の予感は確信へと変わる。
「やはり、かなりの刀傷だ……。水野は我々が来るまでの間、この吊り灌木を敵に見立てて、ずっと修業していたのだ。それで恐らく、話の途中に木片を吸い込んだのだろう」
金剛先生はゆっくりと希更を抱え上げると、一語一語、ハッキリとした滑舌で
言い含める。
「藤森……。かくなる上は、修業はいったん中止だ。荒療治ではあるが、お前は
昨日の特訓を一通りこなして、この森から自力で生還するのだ!」
「それじゃあ、先生と希更ちゃんは?」
「水野を保健室に送る。直接、家に行くと、また彼女の父君が騒ぐに違いないからな」
金剛先生はそこまで言うと、咳き込み続ける希更を抱えて姿を消した。
取り残されたイチカは、暫しその場に呆然と佇む。
希更はあれで良い。
病人の彼女にできるのは、ひたすら苦しみに耐えることだけだ。
金剛先生の対処にだって問題はない。
だが自分は?
試験を強要された自分はどうすればいい?
イチカの心奥に、すべてを投げ出す虚無的な思考が込み上げる。
なりたい自分? 忍術修業?
いったいそれが、なんだというのだ!!
やがて、誰も受け止めてくれない本音を宙にぶちまける。
「私だって、こんなの厭ですよ……。希更ちゃんには忍者で居て欲しくて、でも、でも……」
イチカはいったん言葉を切り、森中に響く大きな声で叫んだ。
『私は、忍者なんて辞めたいんですぅ~~~!!』




