実体なき未来
いっぽう、一年臨組の教室内。
担任教師が教室から出て行くと、クラス内では、お決まりのテスト談義に活気づいた。
しかし、その結末を既に心に決めているイチカは、胸の奥がズシンと重くなり、教室を密かに抜け出した。
行く当てなどない。
クラスメイトにしれっと混ざっている自分。
偽善に似た何かから目を背けられれば、それで充分だった。
まるで誰かを待つかのように、イチカは下駄箱前の廊下をブラブラと彷徨う。
「待って、藤森さん」
水道横、裏庭へ続く勝手口の隣りで、希更が呼び止める。
その後ろ、獅堂このえが、深刻な空気を飲み込んで立っていた。
希更は縋るような空気を滲ませ、無垢な瞳を愁いに曇らせる。
「なんだか急に辛そうに出て行ったけど、ひょっとして、どこか具合でも悪いんですか?」
イチカは希更と目を合わすことができず、俯いたまま、力なく首を振った。
「…………ううん。そうじゃないんです」
その雰囲気に、このえは半ば原因を特定しながら、努めて冷静に申し出る。
「なら、なにか悩み事があるのでしょう? 困ったことがあるのなら、私たちが力になりますわよ」
その優しさに、罪悪感が一層募る。
その一方で、このまま自分の気持ちを隠し通す方がよっぽど不誠実に思えた。
イチカは思い切って、二人に本心を打ち明ける。
「希更ちゃん、獅堂さん。私……。本当はこの学園を、自分から辞めようと思ってるんです」
言おうと決意して置きながら、イチカは唇がみっともなく震えるのを感じた。
希更はイチカの答えを予想していながら、いざそれを聞いて、激しく心を掻き乱す。
「そんな! せっかくこの前、お友達になれたのに……。藤森さんは、忍者に憧れてたんじゃないんですか?」
この一週間で、自分の実力は痛いほど分かっている。
自分には、忍びの才能がまるでない。
なりたくても、なれない……。
そのなりたいという気持ちも、淡く儚いもので、希更のような強い決意とはまったく違う。
(私は結局、忍者になりたいなんて、これっぽっちも思ってなかったのかも知れない……)
イチカは寂しそうに首を振り、日々、整理されてゆく心境を吐露する。
「確かにそういった気持ちはありました……。でもそれは、男の子がヒーロー物やゲームの主人公に憧れるのとおんなじで、実際に自分がそうなるのとは、少し違うんです」
くのいちを本気で目指す希更にとって、それは正しく残酷な告白であった。
縷々として語られる本音に、希更は悪夢に抗うような執拗さを見せる。
「そんなの分かりません! 私は男子でもないし、なりたい存在を目指すのが、
進路とか、希望とか、将来の夢ではないんですか!?」
くのいちと言えど、一皮剥けば普通の女子高生である。
世の学生の誰もが抱える漠然とした不安を、希更は悲痛に絞り出した。
彼女は今、イチカの存在に自分自身を重ねている。
イチカは自分の未来を示唆するように、再びボンヤリと首を振った。
「ううん、そうじゃなくて……。今まで憧れていた存在が、実は想像していた物とは違う、なにか『別の存在』だったんだと思う。自分の願望とか理想を、忍びっていう『身近な存在』にたまたま投影してただけで、本当に望む未来は、きっと別の所にあると思うんです」
まったく情け容赦のない、剥き出しの台詞。
それだけに、老若男女を問わず、現代人によくある感傷を正確無比に捉えていた。
真理の刃が胸を抉って、希更は喉をカラカラと空転させる。
「別の所……?」
「憧れていた『既存のヒーロー』になるんじゃなくて、『なりたい自分』を目指すこと。そこに必ずしも、くのいちの道があるとは限らないと思うんです……。まぁ、なりたい自分が何なのかは、まだ分かってないんですけどね」
イチカの自虐的な笑みに、このえは、日曜日の別れ際を思いだした。
あの日、自分が口にした言葉は、やはり何の解決も生まなかったのだ。
失望とも同情とも付かぬ暗い声で、このえはイチカに語りかける。
「藤森さん……。あなた、あの日から一歩も踏み出せずに居たんですね」
「……ハイ」
沈黙が辺りを支配する前に、視界の端で、黄砂の影がすばやく舞い降りる。
「なりたい自分なんて、あちしら若人には重すぎるし、いきなり分かる訳もないだわさ」
階段と下駄箱を隔てる壁に背中を預けて、怪しい方言を口にする華隠。
彼女の不意の登場に、三人の中で最も冷静なこのえが、するどく振り向いた。
「焰薙さん。貴方、いつの間に……。まさか、今の話を聞いてらしたの?」
華隠はガサツに腕を組み、普段通りの気怠い調子で返す。
「聞いてもいたし、聞く気がなくても、イチカと教頭の噂なんて、とっくに公の事実だわさ。まぁ、イチカはこの様で忍者には向いてないし、それで人生潰すのも酷ってなモンっしょ。さっさとくのいちを辞めて巻き返しを図るのも、立派な選択肢の一つだわさ」
落ち着いて聞けば穏当な批評だが、言い方が不味かった。
他人の神経を逆撫でする口調に、希更は声を荒げて突っかかる。
「そんな事ないわ! たとえ才能がなくっても、忍びを辞める理由にはならないもの!! それとも焰薙さんは、努力を重ねて腕を磨くのが無意味だとでも言うの?」
希更の有無を言わさぬ空気を持て余して、華隠はあらぬ方へと視線を背けた。
「別に、そこまでキツク言っては有りんせんが、忍びの世界は厳しいものと相場が決まってるだわさ。それに、今の希更のセリフ、まるで自分に言い聞かせてるようにも聞こえただわさ」
「クッ……!」
希を更にする。
その名前とは裏腹に、古い憧憬に固執する彼女には、最も指摘されたくなかった事であった。
希更は目にうっすらと涙を浮かべて、三人の前から瞬時に姿を消した。
このえは、華隠が放った無神経な言葉に腹を立てて、非難の眼差しを向ける。
「焰薙さん。今の言い方は、いくら何でもあんまりですわ。あれでは藤森さんにだけでなく、水野さんにもくのいちを辞めるよう、言ってるみたいじゃありませんの!」
――言いたいことが上手く伝わらない。
華隠はもどかしさに、天井を見上げて深い溜め息をついた。
「さっき、あちし等が教室で使った隠行なんて、先生にはアッサリ見抜かれたうえ、素人のイチカにすら、注視されただけで見破られるレベル。つまりはそういう事だわさ……」
謎かけめいた華隠の独り言に、イチカは沈黙したまま眉を寄せる。
相手の困惑した素振りに構わず、華隠は尚も独白を続けた。
「あちし等ごときの隠行じゃ、所詮は上級生の物マネが限界。本物の隠行術なら、あんな事でバレる訳がない。事実、教室では誰も身動きできず、会話だって不可能だっただわさ」
「ぐっ。それは……」
図星を射されて、このえは思わず小さく呻いた。
彼女の言う通り、ホームルームの前、イチカの独り言に平常心を乱し、静寂に小さな亀裂を作ってしまった。
しかもそれを、忍術無能者であるイチカに気取られた節すらある。
抽象的な言葉が続いたが、ただ一つ、明確に言える事がある。
それは、自分達はあまりにも未熟であることだ。
答えにだいぶ近付いてきたが、華隠には其処までが精々だ。
――これから学園を辞めるヤツに、これ以上、なにが言える?
華隠は、自分の口下手を恨んだ。
お節介さに照れ臭くもなってきた。
冷静に考えたら、終始、忍術話に落ち着いている。
華隠は両手でワシャワシャと頭を掻き回して、二人に背中を向ける。
「あ~!! あちしとした事が、何をこんな、しんみり語ってるんだか……。馴れない事なんてする物じゃなかっただわさ!」
希更に続いて華隠もまた、行く影を留めずに姿を消した。
その場に取り残されたイチカは、彼女の残した台詞を思い返して真意を探る。
要は隠行をダシに、自分達の実力不足を伝えに来たのだ。
転じてそれは、イチカも希更も、華隠とは大差がない事を示している。
「ひょっとして華隠さん、私を励ましに来てくれたんでしょうか?」
イチカが曖昧に問いかけると、このえは意味ありげに呟き返す。
「さあ、どうなのかしら? 焰薙華隠。一年生筆頭の実力を持つ戦闘中毒者。でも、彼女がそうまでして戦いを求める理由は、一部の先生以外、誰も知りませんわ」
「それじゃあ、あの華隠さんにも、なにか苦しんでる事があるのかも知れませんね」
このえは短く黙り込み、謎めいた答えを口にする。
「現代社会に忍びあり。何もかもが歪なこの街では、誰もがそうした命題に囚われて居ますのよ」
「もしかして……、獅堂さんもその一人なんですか?」
このえは何も答えない。
まるで自分には答える資格がないように、顔を落として沈黙する。
まもなく、教室横の階段から、長い黒髪の女性が降りてきた。
巫女装束に似た白の法衣に、緋色袴と紫リボンの短い髪留め。
土曜日一限の練丹術講師、土御門ひなたである。
ひなたは、廊下で立ち尽くす二人を見付けると、何気なく声を掛けた。
「あら? 貴方たち、もう授業を始めるわよ」
「あっ、ハイ。今、席に着きます!」
反射的に答えるその声に、さっきまでの翳りはない。
不思議とイチカは、誰かが抱える懊悩と不器用さに照らされて、元の明るさを
取り戻していた。




