英霊の加護
しばし考えた末、理性的な手順を踏んだ。
手の甲を扉に添えて、学園唯一の洋式ドアをノックする。
間を置かず、老婦人の上品な皺声が応えた。
「どうぞ……」
それだけだった。名前を問わずに入室を許すのだから、やはり、こちらの正体と精神状態を知ったうえでの反応である。
学園長の対応を憎らしく感じながら、綾平雫は扉を開く。
部屋の主は、執務机の奥にある座敷の上で、衰えに窄まった口をモゴモゴとさせて待ち構えていた。
机上で指を組んだその姿勢に、挑戦的な意図はない。
むしろ、どこかしら済まなさそうな気持ちに包まれている。
――感情とは、波濤のようなものだ。
打ち寄せる波が厳しいほどに、揺り戻しもキツクなる。
雫は、学園長の気持ちを察して、一気に心がグラついた。
(やっぱりこの人も、私とおんなじ考えなんだ……)
そう想うと、切なさが途端に口を突いて出る。
「学園長先生、どうにかなりませんか?」
曖昧な問い掛けに、その真意を気付いていながら、五部紫彩は、念のために聞き返す。
「どうにかならないか、とは?」
「惚けないで下さい。転入生の……、藤森イチカさんのことです」
日にちが分かってない内は、まだ好かった。
すべては予定なのだから、まだ大丈夫である……と。
だが、テストの開催時期が決まってしまえば、もう動かしようがない。
藤森イチカは充分な訓練を受けないまま、期末試験へと放りだされる。
忍術学園には、留年や退学の制度はない。
一介の教師が、生徒相手に強い思い入れを必要としないシステムだが、雫個人が抱えている複雑な事情が、それを許さなかった。
哀切が、雫の口から次々に零れ出る。
「やっぱりこんなの、公平じゃありません。最近、藤森さんは忍術修業に意欲が湧いてきたとは聞いてます。それでも……、他の娘と戦って、まともな勝負になるとは思えません」
今年の新入生は、忍術伝法の儀を受ける前から、陽忍術を部分的に操れるのだ。
そのぶん今年の期末試験は、いつになく熾烈を極める戦いとなるだろう。
練度と経験に乏しいイチカには、これに打ち勝つ可能性は皆無である。
「なにより藤森さんには、教頭先生との約束があります。それに、他の生徒達だって……」
「確かに……」
五部学長は雫の非難に短く同意すると、引き出しの中から分厚い資料を取り出した。
「学園長、それは?」
「守り部からの報告がまとめられた、貴方たちに関する極秘資料です」
極秘資料の閲覧は、里での地位と忍者階級によって限られている。
雫の階級は、戦闘禁止の上忍教師だ。
非常事態の収拾と指揮のために、受け持ち生徒の住所氏名に加え、家庭事情や
身体的特徴と既往歴、つまりは対象者の弱点までを知ることができる。
この場で彼女が提示したということは、特別に見ることを許可されたのだろう。
五つに区分されたその先頭には、自身の経歴が記されていた。
およそ十年前、忍ヶ丘は敵の忍者集団・天海衆の侵入を許し、多くの死傷者を出した。
その時の不幸の一つが、狂忍・血華の雫の誕生である。
彼女は天海衆に捕まり、忍術媒体の過剰投与によって理性を奪われ、狂乱の戦闘忍者と化した。
その彼女を身を挺して救ったのが、学校保健医の東雲清蘭である。
東雲保健医は、そのときの負傷で陽忍術の力を失い、雫は生活記憶の一部を失った。
綾平雫は自ら望んで、座学担当の担任教師に甘んじているのではない。
戦闘行為がいつ、彼女の狂乱気質を呼び覚ますか分からないため、戦うことを禁じられているのだ。
想うままに生きて行けない無念さなど、イチカの比ではない。
同時期、忍ヶ丘には多くの災厄が、生徒達の身に降り掛かっている。
金岡あきえは綾平雫と同様、一時的に天海衆の手に落ち、狂忍処置の影響で術力が不安定になっている。
問題は、異能の術と精神力が、密接な関係にあることだ。
術力を高めれば気持ちが昂ぶり、理性のバランスを崩す。
彼女には、精神安定剤の代わりになるものが必要なのだ。
自己犠牲と献身の向かう先、それが、同じクラスに編入させた幼馴染みの坂本愛里だ。
二人並んだ経歴の末尾には、『相互依存の可能性アリ』と、太字で黒く記されている。
彼女らの他にも、柳沼理乃は離縁した実の父・勒霜魁淵の虐待で母を失い、自身も視神経の一部を損傷し、忍びとして致命的なハンデを負っている。
そのため、陽忍術の一部機能を視神経に副行させて、視界をどうにか補助している。
だからこそ彼女は、奉仕活動の名目でゴミを漁り、日銭を稼いでいるのだ。
焰薙華隠の両親となると、既にこの世には居ない。
偵察中に敵に捕まり、裏切り者という偽情報が流されたあと、忍ヶ丘の外で縊死している所を発見された。
第三者によってそうされた節は濃厚だが、緋群一刀を始めとする、疑りぶかい
忍ヶ丘北部の重鎮たちは、今でも焰薙家の叛逆を信じている。
そうした、深い曰くのある人物や関係者が、一年臨組には意図的に集められている。
まるで、ゴミ捨て場のような扱いだ。
綾平雫は、押し殺していた感情を吐き出す。
「どうして…………。どうして、ウチのクラスばかりなんですか……」
とどのつまりは、気丈に振る舞うべき心が折れかけていた。
懸命に修業を重ねる生徒に、自分を含め、なにも出来ない無力な教員を呪っていたのである。
ゆるゆると、そして切々と、五部紫彩も、奥底にある想いを明かす。
「悪い事をしていると……、私も思っています」
謝罪から始まった返事は、雫の漏らした弱音への返答に移る。
「ですが……。これもすべて、運命選定法の導きによるものです」
応えてはいても、説明的な答えにはなっていない。
里の秘事を前面に押し出された綾平は、顔を俯かせて小さく漏らす。
「いったい、運命選定法って何なんですか……」
こればかりは、回答を期待したものではない。
しかし、五部学長は「ふむ……」と小さく呻き、綾平担任の奮起を期待して口を開いた。
「まぁ、好いでしょう……。今回は特別に、一部、運命選定法の秘密を貴方に教えましょう」
「えっ!?」
思わぬ返事に顔を上げる。
運命選定法の秘密。
その片鱗だけでも、内容を知る者はごくわずかだ。
話が長引くのを恐れ、五部紫彩は、遠回しな表現を一切省いた。
「運命選定法は、過去、天海衆を退けた英霊の意志を汲み、将来、起こり得る問題へ事前に対処することを目的とした、忍ヶ丘最大の意志決定手段なのです」
耳を疑う真実に、綾平雫はこの日初めて、忍ヶ丘に生まれながら、非現実的な
感覚に襲われた。
「英霊に……未来予知!?」
「無論、その効果は、朧気ながらではありますが」
学園長はそれ以上の質問を許さず、ただ……、と付け加える。
「選定官が誰であるのかは、たとえ皆伝者が相手でも、容易に明かす事はできません。選定官は絶えず命を狙われ、里は再び、十年前のような危機に晒されるでしょう。どんなに備えが万全であろうと、戦いとは、必ず襲撃側に利があることは変わりません。現代社会に忍びの里が存在するのも、すべては超常的な対抗策があっての事なのです」
「…………はい」
綾平担任は、慎重な面持ちで同意する。
そこにはもう、さっきまでの悲愴な空気はすっかり影を潜めていた。
五部学長はそれを確認すると、今度は打って変わった様子で、確信のない呟きを漏らす。
「藤森さんの件は、またいずれ考えるとしましょう。現状では、彼が付いていますから……」
話をはぐらかされた形ではあるが、心のモヤモヤが晴れたこともあり、綾平担任は、明るい声でそれに続く。
「ああ……。あの、お爺ちゃん先生ですね♪」
学園の名物爺さんが話題に出ると、この学園の誰もが皆、安堵の表情を浮かべるのだ。
綾平担任とて、それは同じである。
未知数のイチカと、彼の薫陶。
なかなかどうして、良い勝負である。
綾平担任は辛うじて、その日の職務に復帰することができた。
・勒霜魁淵。
陽忍には珍しい、氷の術の使い手。
幼少期は親戚中から神童と謳われるも、その才能ゆえに、男性忍者から執拗な妬みを受ける。
忍務中、ただ一人敵地に取り残されるも、必要な情報を収集して無事に帰還。
しかし同僚は、自分たちが仲間を見捨てた事実を隠蔽するため、魁淵が持ち場を離れて部隊が混乱したと主張。
日頃から魁淵の悪評(そのほとんどが嘘の内容)を耳にしていた小隊長がこれを信じたのが決定打となり、忍ヶ丘を去る。
なお、小隊長は忍術学園で言う所の担任教師。
分隊長は学級委員、もしくは副委員。




