隠行
翌朝、疲労と寝不足で、頭にボンヤリと白濁の霧が掛かる。
どうにも思考が纏まらない。
昨日の特訓が、よほど効いたみたいだ。
らしからぬ寝坊で髪のセットも中途半端に、朝食を掻き込んで家を飛びだす。
男の子って、いつもこんな感じなのかな……と頭を過ぎる。
あやふやな意識のまま裏門を抜けて、教室前へとやってきた。
臨組の扉を開けると、どういう訳か、教室内にはクラスメイトが一人も居なかった。
「アレ? アレ!? やっぱり週休二日制?」
あわてて黒板横の掲示物を確認する。
なんの事はない。『土曜一限:練丹術、二限:戦術訓練』の記述がある。
自分は間違ってない。
安心すると、さっきまでの呆けた思考は雲を散らしていた。
気が抜けたイチカは、ゆっくりとした足取りで窓辺に近付き、自分の席へと頽れた。
もとより親しい者など少ないが、こうなると本格的に、話し相手に不足する。
自然とイチカは思索に耽り、欠伸と共に不平を漏らした。
「ふわあぁぁぁ……。昨日は話の勢いで、ついつい補習を受けると言い切ったものの、ちゃんと試験の日まで生き延びられるかどうか……。私、この学園を辞めるのになぁ」
誰に憚ることなく本音を吐きだすと、教室内の空気に、『ピキッ!』と奇妙な罅割れが走る。
「ふえっ?」
異変を感じて目を開けるが、周囲はさっきと同じ無人の教室であった。
ほどなく、眠気に似た倦怠感が、身体の奥で目を覚ます。
イチカはすぐに興味を失い、億劫な瞳を窓の外へと浮かべて、蕩けた頭を頬杖で支える。
それから五分後、机のすぐ横で、『シュバッ!』とすばやく人影が生まれた。
「藤森さん、おはようございます」
イチカは出し抜けに呼びかけられて、席から勢いよく立ち上がる。
屈伸の勢いで膝裏が座面に当たり、椅子がカタンと小さく弾んだ。
「うわあぁぁ!! き、希更ちゃん。一体いつの間に……」
希更は長い黒髪をしゃらりと横に傾けつつ、澄まし顔で眉をくねらす。
「つい、今し方です。私としては普通に入ってきた積もりですけど、なにか変でしたか?」
「私としては、みなさんの常識が普通じゃないんですよ。外の世界でそんな事したら、心臓が止まる人、増えちゃいますって」
頬をひくつり上げての抗議だが、抵抗もなしに『外の世界』と言ってるあたり、イチカも少しずつ、忍ヶ丘の生活に馴染んでいる。
反対に希更は、俗世の慣習を完全に捨て去ってしまったらしく、イチカの真っ当な指摘にクスリと微笑んだ。
「藤森さんったら、冗談が上手いんだから……。いつかは藤森さんも、馴れて来ますよ」
隣りの席に座り、藤色の風呂敷包みを解く希更。
彼女に倣って、イチカも机上にペンとノートを用意すると、教室のドアがガラリと開いて、ニコニコ顔の綾平担任が入室する。
「は~い。それでは皆さ~ん、ホームルームを始めますよ~♪」
始めるもなにも、着席してるのはイチカと希更だけである。
流石に、このまま事態を静観するのは後味が悪い。
イチカは教室内を一瞥して、躊躇いがちに声を掛ける。
「あの、先生……。他の人が全然来てないのに、先に始めちゃって良いんですか?」
すると綾平担任は、人懐っこい笑みで、同世代の友達みたく否定する。
「も~う……。藤森さんったら、冗談が好きなんですから。よく見て下さい、全員いますよ」
またしても冗談か……、と不満げに目を細めるイチカ。
いわゆる、ジト目という奴である。
そのままの眼郭で窓際から教室内を注視すると、次第に目の前の空気がユワ~ンと揺らめき、着席していた級友たちの実像が次々に姿を現した。
「みなさん、いつから其処に居たんですか!!」
今では恒例となったイチカの驚きに、絢爛着物の剣豪娘・焰薙華隠が、呆れた
口調で返す。
「いつからも何も……。あちし等は、イチカの来るず~っと前から、この教室に居ただわさ」
続けて、委員長の坂本愛里は感情を交えず、金岡あきえはウインク交じりに解説する。
「藤森さん。今のは隠行と言って、気配を絶ち、相手に認識されないための忍術なの」
「まっ、相手が同程度の忍術使いだと、打ち消しあうような感じでバレちゃうんだけどね」
最後に、空気を読まない柳沼理乃が、踏んぞり返って椅子の脚をガタガタと鳴らした。
「今のだと、ボク達よりも先生が凄腕で、イチカがダメダメ過ぎるってのが正解かな~。イチカってば、ボク達の誰にも気付かないし、逆に先生は、一発で見破っちゃうんだもん」
「ううっ。そんなにズバズバ言わなくても……」
実力差を改めて認識させられて、イチカはガックリと肩を落とす。
綾平担任は、転入生への懸念もあって、理乃の称賛と軽口に、不吉な笑みで釘を刺した。
「うふふ……、ありがとう御座います。でも理乃さん、お友達の事を、そんな風に悪く言っちゃダメですよ。イケナイ娘は、『ギュッ♪』って抹殺しちゃうんですから」
「いぃぃ~やぁぁ~。罰とか怖いぃぃぃ!!」
頭を抱えてコミカルに叫ぶ理乃。
いっぽう、守り部の娘である獅堂このえは、一瞬、緊張に腰を浮かせて反応した。
理乃の恐れは形ばかりで、親にじゃれつく仔猫のような甘えが感じられる。
これは入学当時、賭け事の罪が露見して、奉仕活動を言い渡された一件が絡んでいる。
彼女自身が、エロ本集めを町内美化だと抜かしていた例のアレだ。
いっぽう綾平雫は、その昔、『血華の雫』の異名を誇る、仲間殺しの狂乱忍者である。
学園生のほとんどは知らないが、忍ヶ丘の治安警戒を司る守り部の一族なら、里の事情をいくらか心得ている。
獅堂このえの耳からすれば、『抹殺』の一言は、そのままの意味にも取れた。
落ち込むイチカと萎縮するこのえを他所に、しばし、クラス内で微笑みがざわめく。
やがて、綾平担任がパンパンと両手を打つ乾いた音に、全員の意識が引き戻された。
「みなさん静かに。ホームルームを始めますよ。……と言っても、今日は週の終わりなので、特別、気にする事はありません。ただ来週には、進級試験の概要が発表されると思います。まだ正式ではありませんが、開催時期は7月上旬……。会場は恐らく此処、忍術学園の敷地内だと思います。遅刻は厳禁ですが、早めに会場に来ると、実技試験のカンニング扱いもありますから、注意して下さいね」
何かに急き立てられているかのような、早口言葉と長台詞。
普段はボンヤリとしている彼女にしては、珍しいことである。
「それじゃ、ちょっと駆け足ですけど一時間目が迫ってるので、ホームルームはお終いで~す」
ちょっとどころの話ではない。生徒達の最優先事項をつらつらと語り終えると、綾平担任は、委員長の号令を待たずに教室を離れていった。
それもその筈。
綾平雫は、期末試験が近付いている事に焦っていた。
内心、強い歯噛みで心が乱れている。
(平常心を保つよう、里の医師からも言われてるのに……)
どうにも無理そうだ。
なかば本能的に脚を動かし、気付くと、目的の学園長室は目の前だった。
何処を通ってここまで来たのか思い出せない。
まるで焼け焦げた写真のように、途中の詳細な経路が斑模様に潰れている。
(ここまで気配を尖らせてたら、私の接近をとっくに察知してるはず……)




