忍ヶ丘
季節狂いの夏遅れ、駅のプラットホームに、一巻きの涼風が吹き抜けてゆく。
ゴールデンウィークからおよそ一ヶ月、運命に押し切られたイチカは、電車に揺られて、隣り街の忍ヶ丘へとやって来た。
服装は、紺のブレザーにチェックのスカート。
以前に通っていた高校の制服だが、目的は別にある。
忍ヶ丘、くのいち忍術学園。
はたして現代社会の片隅に、忍者などという絶滅危惧種が本当に存在するのだろうか?
いったん疑い始めるとキリがない。
空の蒼から地面の草まで、何もかもが胡散臭く思えてくる。
イチカは気を取り直して、上着と同色のリュックを肩へと掛けなおす。
構内一つ切りのホームから階段を登り、改札を抜けて左に曲がると、外へと通じる下り階段が見えた。
壁一面の広告看板と低い天井。
視界を阻む遮蔽物を越えて、道行く人の高さへと目線を揃える。
水無月の始まり、彼女の瞳に飛び込んで来たのは、時代遅れの古風な風景であった。
「うっわ~。田舎ぁ……」
思わず率直な意見を口にするが、事実、忍びの里の『忍ヶ丘』は田舎である。
公共施設は最新式なのに対し、一般家屋や商店は、昭和時代の面影を多分に残している。
通りに面した肉屋の庇で、昔ながらのビニール幕が風にはためく。
陽に焼けて色褪せた紅白縞。
そこには、無闇やたらに清潔さを求める現代とは違い、住む人の温かい息づかいと年月の重みを感じさせる。
アパートの外壁も、風雨を弾くパネル式ではない。
クリーム色の吹き付け塗料で防水加工された物だ。
風が塵を集め、年月が黴を呼ぶ。
これが見た目には、非常に格好が悪い。
だが、人の営みとは、概してそんな物かも知れない。
完璧など何処にもない。
完全な人など居ない。
生きる上での汚れと、その後始末が織りなす日常。
その狭間に生じるものが『愛着』である。
建物ばかりでなく、生活道も混沌としている。
幅員は狭く、車がすれ違うには曲がり角を利用するしかない程で、路側帯は全くなかった。
通学路には何件もの駄菓子屋が店を構え、家の間に間に、役目を終えた雑木林と森が広がる。
ほかにも桑畑と採石場、それに病院。
まるで統一感というものがない。
言ってみれば其処は、人と自然が生み出した迷宮である。
駅の正面に目を向けると、煉瓦造りの店舗が並ぶ半円形の広場があった。
幼心にそれを見れば、きっと『妖精の箱庭』に映っただろう。
イチカは、駅前の路地を左へ曲がると、交差点の奥に見える銀行を目印にとり、母から託された巻物風のメモを広げる。
自然と荒唐無稽な母のことを思い出して、文句が口を突いて出た。
「まったく……。母上はなんだって、私の人生設計を滅茶苦茶にするんでしょうか。くのいちの学校なんて如何にも怪しい勧誘なんか、断ってくれれば好かったのに」
黙っていようと思っても、ついつい零れてしまう憤りと愚痴。
イチカは、古い時代の街並みを歩みながら、一ヶ月前の口論を思いだす。
衝撃の告白からすぐあと、イチカは憤怒と共に、正面のカウンターへ握り拳を叩き付ける。
「母上! 私、そのような怪しげな学校、通いたくなどありません!」
母校を怪しげ呼ばわりされようとも、藤森さやかは、口だけは心外そうに屁理屈をこねる。
「怪しいだなんて失礼ね。訓練なんて本格的よ。だいいち貴方、女の子の癖に忍者とかって好きでしょう?」
うぐっ……、とイチカは後退る。
図星であった。
部屋のクッションはフカフカだけれど、手裏剣を模した色気無用の無骨品。
本日決めた髪留めも、十字傷を描いた鉢金風のプレートだ。
確かに認める。
――自分は、忍者なる存在にハマっている。
それでもイチカは一般論を振り翳して、粘りづよく抗議する。
「否、確かにそうですが、自分が成るのと憧れるのは別物です。だいたい、今から受験の準備をしたって、間に合う訳がないじゃないですか!」
娘と違って、母親は達観したものである。
身体の向きを流し台へと戻し、洗い物に布巾を掛けつつ素っ気なく呟く。
「あら、その点は平気よ。イチカは技能試験が要らない『運命選定法』で選ばれたんだもの」
聞いた事のないフレーズに、イチカは人差し指を顎に添え、首を傾げて眉を捻る。
彼女御得意の『考えるポーズ』である。
「なんですか。その、運命ナンタラ法というのは?」
「ほら、晩御飯の時にテレビでやってるでしょ? 日本地図に「えいやっ!」ってダーツを投げるヤツ。アレを手裏剣でやるのよ♪ なんかこう、運命を感じるでしょ?」
「横文字なんか使ったところで、ちっとも共感できません! だいいち、忍びの
訓練を受けた母上が、どうしてこんな風に、普通の街で暮らしてるんですか!」
そのとき初めて、元くのいちの母親に動揺が走った。
指の間からスルリと皿が滑り落ち、食器カゴの中で『ガチャ!』と悲痛な接触音が立つ。
顔面に哀愁たっぷりの感情を滲ませて、イチカの母は気不味そうに本音を漏らした。
「生活のためよ……。だって今どき、忍者なんてお金にならないもの」
「そんな所に我が娘を入れて、母上は良心が痛まないんですか!」
イチカの正論を耳にしても、母親は、背中を向けたまま気怠く返す。
「そんなこと、いちいち気にしてなんか居られないわよ。私も、お父さんとは忍ヶ丘で知り合ったんだし、今の葵だって『忍び大学』に通ってるんだもの」
「姉上までもがくのいち? 家族丸ごとNINJAではないですか!!」
「なにを今さら驚いてるの……。小学校の時からそうだったじゃない。だからアンタの所に、忍者系の雑誌や道具が送られてくるんでしょうが」
イチカはようやく日常に潜むヒントに気付いて、「ハッ!」とするどく息を吐き出す。
「言われてみれば、確かにそうだ……。私の愛読書『月刊・雪風家伝』も、子供の頃に姉上から貰った雑誌付録『超絶・隠れんぼキット』も、近所の本屋さんでは見掛けないレア物ばかり。いつの間にか、こんなにも忍び包囲網が敷かれていたなんて……」
相次ぐ衝撃の事実に、イチカは両手で頭を抱えて、悲愴感丸出しで嘆く。
「私はいったい何のために、今まで現代教育を受けて来たというのですかあぁぁぁ!!」
これにはイチカの母も返事に困り、苦笑いで振り返った。
「いやぁ~。だって貴方、見るからに忍びの才能が無さそうだから、せめてもと思って……」
フォローにならない解説を入れた直後、トドメとばかりにイチカの退路を断つ。
「まぁ、ジタバタしたって仕方ないわよ。キッチリ私の前で、藤森家に伝わる『誓願』まで立てちゃったんですもの。退学届けだってとっくに受理されちゃってるし、ここはもう覚悟を決めて、あっちの学校を卒業する事ね。それじゃあまぁ、せいぜい頑張んなさ~い♪」
幼い頃、生まれ故郷で見た駅前の風景を思い出しながら書きました。
あと、イチカのお父さんの名前は『藤森基一』です。
名前の由来は、「人間、基礎が一番!」という考え方。
どういう訳か藤森家の男性は、代々、ネーミングセンスが壊滅的です。