08. 佐久間と陛下、買い物をする。
「すみません。林檎をひとつ……いや、二つください」
「二つで銀貨二枚だよ」
握っていた金貨を取り出して露天の婦人に渡す。
金貨を摘まむように取った婦人はしげしげとそれを眺めると、テーブルの上に置かれた袋に入れ、銀貨を一つ一つ数えてからその手を私に差し出した。
「はい、お釣り。好きなの選びな」
「ありがとうございます」
店先に山盛りに置かれた中から、色や形が良さそうに見えるものをふたつ選んで店から離れる。少し離れた場所で手の中の銀貨の数を親指で数える。その数、十四枚……十四枚?
「………………」
十進法では、ない……だと? コインを見ながら冷や汗が出て来た。本とかで読んだ事がある、硬貨ごとに取引量が決まっている海外のものだ。どうしよう、コインごとに単位の呼び方が変わる可能性もある。本の中でコインごとに名称が変わったのを覚えられない人間だぞ。やっていける自信がない。
「……金貨一枚で銀貨十六枚」
しかし、泣き言を言っている暇はない。頭に叩き込んでからポケットにコインを仕舞い、空いた手に林檎をひとつ持ち替える。そしてもうひとつを左手に持ち、スマホが入っているポケットの入り口を開いて近づけた。
「お金がいけるのでしたらこちらも受け取れます?」
林檎を手で揺らしていると、一瞬で林檎の感触がなくなった。どうやら受け取ることが出来たようだ。残った林檎を齧ると、口に広がった味に真顔になった。甘くない、みずみずしくない。姫林檎を食べている感触だ。これはこういう品種なのだろうか……好みの味ではないが、買ってしまったのなら全部食べるしかない。もう一口齧ると、もそもそとした食感の果肉が口の中に残る。喉を潤し、小腹を満たすつもりだったが小腹ぐらいしか満たせなさそうだ。
「食べ歩きは行儀が悪いぞ」
くぐもって聞こえた声に眉根を寄せる。陛下め、呑気に喋っているのか聞こえていないと思っているのか知らないが、ここで私が話したら一人で喋ってる怪しい人にしか見られないんだぞ。
林檎を齧りながら歩き始め、店を物色する。日本の縁日では食べ物が多いけれど、ここの露店は食べ物よりも雑貨や旅で使うような品が多い。まだ移動が続くのなら、あとでこの辺りも見繕った方がいいだろう。陛下に相談だな。
「お、あった」
外套が売られている店を見つけ、店先にあったマントが目を引いたのでそれに近寄る。マントに使われている布の質や色合いがよさそうで、胸の留め具の銀の飾りが素敵だったからだ。
「お嬢さん。そちら、お気に召しました?」
「え、ええ」
店にいた少々太めのマダムが私を見てにこやかに声を掛ける。
「そのマント、素敵でしょう? 私が織って作ったのよ」
「本当ですか? へぇ……! 生地がきめ細やかで綺麗です!」
「そう? そう言ってもらえて嬉しいわ」
触り心地に首を傾げる。ポリエステル? ……違う。絹ほどつるつるしていなくて、植物繊維にしては滑らかすぎる。
「これ、素材はなんですか? 羊?」
「いいえ。それは――蜘蛛の糸よ」
「……蜘蛛?」
マダムが、カウンターから出て来た。足は、六本。虫の足でカウンターを器用に跨いで目の前に現れる――下半身が、本当に、蜘蛛だ。ワンピースの下から蜘蛛の尻と足が覗いている。
「サクマ!」
目の前が深緑色に染まる。陛下が外に出て来たらしい。腰の剣に手を当てて構えている。
「あら、護衛がいたのね。安心なさいな。私は人なんて食べないわよ」
「どうだか。そう言ってうちの主人を食べるかもしれない」
「そうねぇ。お嬢さんは確かに可愛いけれど、美味しそうではないわね。それよりはあなたの方が……なんてね、冗談よ。こんな人前で食事するわけないわ。商売にも影響が出るし――それに、私が食べるのは旦那様だけよ」
うふふ、とマダムが蠱惑的に微笑む。随分物騒な台詞が出て来たが――まぁ、蜘蛛だし。交尾の後は雄食べるって聞くし、ゴケグモの由来もそこらしいから、そんなものだろう。
「お嬢さん術士なの? 素敵な使い魔を従えているのね。正直妬けちゃうわ」
「ありがとうございます。――あなたも美しいですね」
「は?」
嘘だろ、と視線で見て来た陛下に静かにしててと目配せする。
「あらそう?」
「はい。お肌も艶がありますし、足がとっても綺麗です」
「やだわぁ。足には自信があっていつも手入れしてくれるの。人間で褒めてくれたのはあなただけよ」
「だって本当のことですもの。整っていて綺麗です」
「まぁ!」
身を捩らせて喜ぶマダムに対し、陛下が近づいて耳打ちする。
「サクマ、お前正気か?」
「陛下はちょっと黙っててください」
「……任せていいのか」
こくりと、頷く。事務以外にも顧客と対応したことはクレーム対応も含めていっぱいあるんだから。
「どうか非礼をお許しください。私も彼も、あなたのような方を見るのは初めてでして」
「あら、亜人は初めてだったの? どこの国の方?」
「遠い東から参りました」
「まぁ、東から。グライコスは通らなかったの?」
「グライ……」
「私の国よ」
ちらりと陛下を見るが、首を横に振る。うん、私も知らない。
「申し訳ありません。ずっと船の中にいたのであまり訪れた国を覚えていなくて」
「まぁ、海路で? それは遠かったでしょう。若いのによくやるわぁ」
「ははは。それで、マントを新調しようと思うのですが見繕ってもらってもいいですか?」
「いいわよ。お嬢さんに似合うとっておきのを選びましょう」
布を選び始めたのを見て、そっと陛下の袖を引っ張って小声で話す。
「ほらね、大丈夫だったでしょう?」
「しかし、油断した時に襲われたら」
「……多分、多分大丈夫だと思います」
「お前な、多分でもしものことがあったら」
「お嬢さん、来てもらえないかしら」
「はい!」
ではこれを、と食べかけの林檎を陛下に渡すと、困惑しながら受け取った。手ぶらになった状態でマダムに近づく。下半身が蜘蛛だからか、私よりも大きく感じる……いや、大きい。
「まずは寸法を計らせてね」
近づいて来たマダムの口に牙があるのを見つけてしまって、あ、これはやばいかもしれないと、ぐっ、と腹に力を入れたのだった。
* * * * *
蜘蛛のマダムとのマント選びは結構時間がかかり、ようやく値段と気に入ったデザインに折り合いが行った頃にはかなりの気疲れを起こしていた。林檎を齧って回復した分なんて微々たるものだ。もう無理。私は疲れた。死にそう。
「どうもありがとうございました」
「いいえ。あなたの旅が良いものになるよう祈っているわ」
「こちらこそ」
マダムに礼を言って陛下とともに店の前を離れる。離れる。離れる。陛下の袖を引いて小走りで路地へと曲がった。
「ぶわっはぁ!」
緊張で溜め込んでいた空気を一気に吐き出して陛下と顔を見合わせた。
「何ですかあれは!」
「俺だって聞きたい。なんだあれは!」
「下半身蜘蛛でしたよ? 一体どうなっているんです!?」
「あんな化け物が人と生活をしているのか?」
「いや、化け物は失礼……あ」
ぽつんと、頭の中に言葉が出てきた。蜘蛛で、機織りが得意と言ったら……。
「アラクネ……」
「なんだ?」
「確かギリシャ神話に出てくる怪物です。人と蜘蛛が合わさっていて機織りが得意と聞いています」
「ギリシャ? ビザンツ帝国のか?」
「はい……おそらく……」
「ギリシャの怪物がどうしてここにいるんだ?」
「それは私にも分かりません。でも、私の国にも蜘蛛女とか女郎蜘蛛という怪物の伝承が残っています。……残っていますけど、どう進化を遂げたらああなるのかはまでは、ちょっと」
あれ、視界がおかしい。白くもやがかかって見えない場所がある。
「……サクマ? 顔色が悪いぞ」
「すみません、今ちょっと気分が」
ぐらりと足元が傾いだ。頭が揺れる。立っていられなくてそのまま倒れる。
「サクマ!」
地面に膝が着く前に陛下に両腕を掴まれた。
「大丈夫か?」
「………………」
具合の悪さが一気にくる。言葉にするのも億劫だ。
「さっきの蜘蛛女に何かされたか?」
首を横に振る。何もされていない……はずだ。あと思い当たるのは……。
「林檎……」
「え?」
「林檎しか食べてない……」
陛下が呆れた顔をしたような気がした。
「そうだったな。あと緊張が解けて一気に力が抜けたのか」
「でも今食欲ないです……」
「どっちだ」
「少し休めば、元に戻ります」
「ああ、元々そのつもりだったんだ。場所を移動しよう。歩けるか?」
「………………」
二十四時間以内に男性に二回も抱きかかえられた。これは中々に恥ずかしいが、今は抵抗する気も全く起きない。ぐったりして身を任せていると、どこかのベンチに降ろされた。
「大丈夫か? 横になるか?」
「いえ、そこまではないです」
「何か食べ物を買ってこよう。好き嫌いはあるか?」
「……海鮮系がダメです」
「海鮮?」
「魚とか、エビとか。今は食べたくないです」
「分かった。それを避けて買ってこよう」
「お願いします……申し訳ありません」
「いや、謝ることはないさ」
ぽん、と肩を叩いて陛下がその場を離れる。背もたれに身を預けて薄く目を開く。最初よりは少しずつ回復してきた。しかし、久々になったな、これ。よっぽど負荷が……掛かっていたのだろうな、きっと。こっちに来てからずっと気が休まらなかったのが、さっきので一気に解けたのだろう。最初にあのマダムを見た時に、体が震えていたのだ。……怖かった。物語で聞いたり絵で見てはいたけれど、実際に見るのは違った。――とても、怖かったのだ。
「待たせたな」
思い出して腕を抱きすくめていると陛下が表通りからこちらに近づいてきた。周りをよく見れば、少し表からは外れた憩いの広場になっているらしい。私が座っている以外にも、いくつかベンチがある。
「ほら、これなら食べられるか?」
陛下が渡してくれた器を受け取る。中に入っているのは、ポタージュスープだ。これなら飲めるしちょうどいい。
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
そう言って陛下は隣に座る。匙で掬ってスープを口に運ぶ。これはキャベツに、豆……かな。疲れた体に温かなスープがじわりと満たしていく。
「はぁ……美味しい……」
「それは良かった」
匙で飲むのがもどかしいけれど、行儀が悪いから我慢だ。
「あれ? 陛下は食べないのですか?」
横でこちらがスープを飲むのを眺めている陛下に問いかける。
「俺はいい。さっきの林檎で満足だ」
「でも、昨夜から私と同じくらい食べてないですよね? もっと食べないと倒れますよ?」
「いや、俺は……俺はいい」
一瞬、陛下が目を伏せた。何かあったのだろうか。
「それよりも、気に入ったものは買えたのか?」
「はい。マダムにちゃんと見てもらいましたよ」
そう言って、今着ているマントの裾を広げてよく見えるようにする。裾が地面につくものもあったが、生地が痛むので膝下十センチ丈のものにした。やや薄手だが丈夫でしっかりしていて、胸元の留め具のデザインも可愛い。
「蜘蛛の糸で出来ているんですって。すごいですよね」
「……毒が仕込まれたりしていないか?」
「……陛下?」
「何だ?」
「蜘蛛の糸には毒はありませんよ?」
陛下が目を丸くする。
「でもな、サクマ。相手は蜘蛛の化け物だぞ? 蜘蛛以上の力を持っている可能性だってあるだろ」
「ある、かもしれませんが、よくよく考えてください。彼女は商売でここに来たんです。ああいうところで商売をするには、許可がいるのではないですか?」
「ああ、そうだな」
「その許可を得るためには、それなりの信用がないといけないはずです。つまり彼女はあそこで店を開くに当たって信用を得ている人物……蜘蛛? ってことではないですか?」
「そうだな。でも隠れて襲っているかもしれないだろ」
「蜘蛛は基本臆病ですし、網を張るか巣穴を作って通りがかった獲物を捕らえます。出向いて獲物を駆逐してすぐに去っていく種類なんて、あまりいないですよ」
「……網を張ったり巣穴を作る。それはつまり、自分の安全な場所を確保すること、だな?」
「は、はい」
「そしてそこにやってきた獲物を網で絡め取る」
「……そう、ですね」
「サクマ」
「何ですか?」
「今の状況は、違うのか?」
自分の着ているマントは、蜘蛛の糸製。ひいい! と身を震わせた。
「いや、でも糸で包んだ後安全な場所まで連れて行かれていないですし!」
「この後連れて行くんじゃないのか?」
「もう、陛下!」
「だから、その呼び方はやめろと言っただろ? 冗談だ。何かあっても俺が守ってやるさ」
笑って言われた言葉に、うっ、と詰まって視線をそらす。イケメンめ、これだから困るんだよ。
「もう飲み終わったか?」
「あ、あともう少しです」
「ゆっくりでいいぞ」
とはいっても、あと本当に少しだ。器に口をつけて一気に飲み干す。よし、お腹が満たされた。さっきよりも断然元気だ。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて挨拶すると、陛下が立ち上がる。
「ほら、持って行くぞ」
「え? いえ、私が持って行きます」
「何言っているんだ。また倒れられても困るから休んでおけ」
「いや、これは私が」
「座っとけ」
「……お願いします」
陛下に椀と匙を渡すと、また表通りの方へと歩き出した。これは申し訳ない。戻って着たら礼を言っておこう。
井戸の縁に腰掛けたまま、広場を眺める。皆思い思いにベンチに座って会話していたり、前を横切って行く。……服装も顔立ちも、日本とは違う。本当に、別の場所に来てしまったのか。
「……ん?」
目の前を通った婦人が、木の板を持っていた。ちょうど片手で持てるサイズの、薄くて小さい……スマホサイズのものだ。それを一人ではなく、よく見れば他にも同じように木の板を持っている人がいる。中にはその木の板を両手で挟み、広場の真ん中にある像に向かって拝んでいる。
「………………」
像をよく見ようと、眼鏡の真ん中を指で上げて焦点を合わせ、目をこらす。
石で出来た像は台座も合わせて約三メートルくらいだろうか。背格好からして恐らく男性。ズボンにジャケットを着ている。こちらを向いていないので顔や表情は分からない。右手はどこか先を指差し、左手に持っているあれは……。
「……スマホか?」
「戻ったぞ」
歩いてくる音が近づいてきたので見るのを止めて顔をあげる。
「お帰りなさい。ありがとうございました」
「気にするな。どうする? 宿を取りに行くか?」
「そうしましょうか。あ、まだ移動が続くのであれば備品の購入はどうします?」
「明日でもいいだろう。それよりも休憩が必要だ」
「陛下が疲れています?」
「……お前な」
少々、怖い顔をした陛下がこちらを見る。何か粗相を……あ、名前。
「ルドルフ様?」
「それもあるが……もういい。先に宿に移動しよう。話はそれからだ。ここは人目につきすぎる」
「かしこまりました……部屋を取るのはどうしましょう? 別々で取ります? それとも同じ部屋で?」
「………………」
陛下が顎に手を当てて考えている。
「少しいい宿で二人部屋が取れないか聞いてみてくれ」
「はぁ」
「もう一人はと聞かれたら、後から父が来ると伝えておけ。顔はフードでしっかり隠しておけよ。親子を偽るが、民族が違うからすぐに怪しまれる」
……親、子? 陛下が何歳で亡くなって、今何歳の姿をしているのか分からないが、私の年齢から考えて親子は厳しいのではないのだろうか。
「奴隷、もしくは使用人は?」
「それも……ありだが、俺の時代のように奴隷が少なくなっている場合もある。それに、お前を奴隷に貶めるのは俺の気がひける」
「?」
「自分の主人にそんなことをさせられるか?」
ああ、そういうことかと納得する。
「了解しました。そのようにしましょう」
「ああ。俺はまた隠れるぞ」
「はい」
「……歩けるか?」
聞いてきた陛下を見上げて首を傾げる。何を言っているのだろう。
「歩けますよ? 問題ないです」
「本当か?」
「はい」
こくりと、首を縦に振る。先ほどよりはずっと体調はいい。でも、今日これ以上動きまわれと言われたら、絶対に無理だ。早く宿で休憩するのが無難だろう。よっ、と立ち上がって尻を叩く。
一歩踏み出そうとすると、互いの動きが止まった。
「へ……ルドルフ様、先に」
「サクマが先だろ」
「ルドルフ様が先ですよ」
「主人が先に歩くものだろ」
「目上のものが先に歩くべきです」
「それならサクマが」
「一般庶民とどちらが偉いと思っているのですか」
「それでもサクマが主人だろ」
「年長者」
「従者を先に歩かせる主人がどこにいる?」
「庶民が皇帝を従えるだなんて聞いたことがないですよ」
「現にそうなったのだから仕方ないだろ」
「なんでそれに納得しているのですか」
「納得しているからこうして外に出てこられたんだ」
「納得しないでくださいよ! 皇帝でしょう? もっとプライドとか持ってください」
「……俺が何も考えないでお前に仕えることを決めたと言いたいのか」
「そもそも――使い魔って何ですか。召喚士のことすら分かっていません。確かにあなたを召喚したのは私ですが、従わせるために召喚したのではありません。……私が助かるためです」
「………………」
一度口を開きかけた陛下だったが、すぐに口を閉じ、困ったように頭を掻いた。
「お前な」
「エゴなのは分かっていますし、自分本位であることは分かっています。……それに陛下を巻き込んだことは申し訳なく……」
「もういい。分かった。宿で話そう。ただし、休憩を取ってからだ。また倒れられても困る。それに、さっきから話していることが支離滅裂になっているぞ」
「うっ」
「少し寝ろ」
「……了解しました」
先に行け、と手で示されたので歩き出す。広場に出て後ろを振り返ると、既に陛下の姿はなかった。
「……はぁ」
溢れたため息に頭を振って、フードを深く被った。
何がどうなっているのか、未だによく分かっていない。不安要素だって増えた。早く元の世界に戻ることが出来たら、こんなことで悩まなくて済むのに。