05. 佐久間、陛下の名前を知る。
あれから近くの街までなんとか辿り着き、馬を拝借して街を抜けた頃には、既に夜中を過ぎていた。そこからさらに馬に乗って夜道を進み、少しだけ休憩を取っていたところだったのだ。
「馬の持ち主さん、怒らないですかね」
「怒るだろうさ。でも仕方ないだろう」
お金や金目のものがあるのならそれと交換するのが一番なのだが、持っていなかったので本当に泥棒だ。この国の警察に捕まらなければいいのだが。そう思いながら、馬を見る。何度か見たことがあるサラブレッドよりは少し小さい。その分足がしっかりしているような気がする。
「ほら、そこに足を掛けて」
「横向きなのですが、いいのですか?」
「ああ、問題ない。むしろ前向きに乗った方が問題あると思うぞ」
男性の手を借りて、二人用の鞍の後ろに横向きで乗せてもらう。馬は前向きで乗るイメージなのだが、これは横向きでも大丈夫、らしい。確かに前向きはスカートの関係で股を開けないから乗れない。続いて私の前に男性が乗った。目の前が深緑色に染まる。バイクならば安全のためしかりと前の人にくっついた方がいいのだが、馬はどうなのだろう。悩みはするのだが、回らない頭では答えが出そうにない。
「しっかり掴まれよ。それ!」
掛け声と共に手綱を取り、馬は歩き始める。上下の揺れから落ちないように、鞍にしがみついた。
林の中を抜けて道へと出る。開けた道ではなく、馬同士がすれ違うのがやっとの道幅の、木々に囲まれた道だ。太陽は地平線から顔を覗かせているが、まだ霧が立ち込めている。
「もっと走らせないのですか?」
私が尋ねると、男性は首だけをこちらに向けた。
「どうしてだ?」
「こう、逃げるのなら馬を全力疾走させているイメージが」
「イメージ?」
「……雰囲気? 想像?」
「ああ、馬はあまり長く走れないんだ」
「そうなのですか?」
「馬を知らないのか」
「人に引いてもらって乗ったことなら、何度かあるくらいです」
「そうか。馬は人よりも早くは走ることは出来るが、長くその速さを保って走ることは出来ない。だから街道には馬を休ませる場所や宿場町で貸し馬を営んでいるところがある」
「へぇ」
「急ぎたい気持ちも分かるが、ここまでくれば一安心だろう。俺を召喚したことがバレていなかったら、連中は女一人で逃げたと思っている。捜索をするなら神殿内、周辺の森、それから近くの街と範囲を広げていく。その頃には俺たちも遠くまで移動出来ているはずだ」
「どこまで追いかけてくると思います?」
「完全に追っ手を振り切りたいのであれば、国から出るしかないな」
「おうふ……」
そうなると、情報を集める時間も限られてくるのか。首都で金銭も稼ごうかと考えていたが、あまり長く滞在するのも難しくなりそうだ。
「そういえば、名乗るのが遅くなったな」
今後のことをぐるぐると考えていると、男性がこちらに声を掛けてきた。
「俺の名前は、ルドルフ・フォン・ハプスブルクだ」
「ルドルフ、フォン……?」
「ハプスブルク」
「……ハプスブルク」
「ああ、そうだ」
聞き間違いでは、なかった。世界史は聞きかじった程度の私でも、その名前は知っている。
「オーストリアの王家の……」
「……ん? 何か勘違いしていないか? 確かにウィーンはオタカル二世から奪って息子に譲ったが、俺の領地はスイスだぞ。それに王家ではなくて伯爵家だ」
「スイス」
「ああ」
あれ? と言うことは違う家の人なのか? 名字が一緒なのか。
「いや、待て。俺が皇帝に選ばれたから、王族になるのか?」
「はあああああああ!?」
眠気が飛んだ。凄まじい声が出た。
眉根を寄せた男性――もとい、ルドルフ……陛下がこちらを振り返る。
「うるさいぞ。いきなりなんだ?」
「皇帝って言いました!? 今!」
「言ったな」
「どこのですか!?」
「神聖ローマ帝国だ」
「ファーーーーー!」
頭に手を当てて空を仰ぐ。神聖ローマ、知っている。漫画で名前を見て覚えた、昔あった国家だ。あの国の、皇帝陛下。本物の、皇帝陛下!
「……サクマ?」
「えー! ちょ、私どうすればいいですか? いえ、いいのでしょうか?」
「は?」
「取りあえず土下座した方がいいです? 数々の無礼や不敬をお詫びしなければなりません」
「いい。俺が名乗ってなかったんだ。知らなかったら当然だろ」
「知らなかったで許されるのですか!」
「ああ。それに、俺は元は伯爵だ。皇帝として選出はされたが、ローマ教皇から戴冠は受けられなかったんだ。だから正式にはドイツ王。ほら、ちょっとは身近になっただろ?」
「それでも王様じゃないですか……王族だ……待ってスケールが違う……心臓止まりそう……」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです……すみません、王族と会話したことがないので言葉遣いが全然出来ていません……むしろ黙ったほうがよろしいでしょうか。あと馬から降りましょうか。それに皇帝陛下に手綱を取らせるだなんて不敬すぎます!」
「いい、いい。もう気にするな。さっきまでの丁寧なんだか砕けているのか分からない口調で問題ない。許す」
「ひえええ、王様から許すいただいた……昇天する……」
「はぁ。大げさだな」
顔を覆って悶えていると前方から呆れたような声が聞こえてきた。
「ほら、次はサクマの番だぞ」
「は? 何がです?」
「自己紹介。まだ名前と出身国しか知らないな」
「それで充分ではないですか」
「説明は後でするって散々言ってなかったか? それも踏まえてだ」
「……えー」
仕方がないなぁ、と鞍に座り直してから深緑色の背中に向かって話しかける。
「佐久間瑞季。出身は日本。陛下にはヤポンとかジャパンが聞き覚えがあるかもしれません」
「どれも聞いたことがないな。どこにあるんだ?」
「大陸の東、中国よりもさらに東にある島国です、陛下……呼び方は陛下で問題ないです?」
「ああ。しかし、人前ではやめとけ。どこの王族かと思うだろ?」
「王族だからいいじゃないですか。事実ですし」
「話がこじれるだろうが。それで? どうして東の果ての国出身のお前がドイツ語を話しているんだ? それにハプスブルクの名前を知っているのは?」
「私には陛下が私の国の言葉を話しているように聞こえます。ただ、カタカナ……と言っても分からないか。英国の言葉が元になっているものは上手く通じてないようですね」
「言葉が違うのに通じているのか。何故イギリスの言葉を?」
「話すとすっごく長くなるのですが、構いませんか?」
「ああ、どうせ馬に乗って移動している間は暇だ。話してくれた方が助かる」
「途中水分補給は出来ますか?」
「どこかに川や泉があるだろう。次の街にはあとどれくらいで着く?」
ポケットからスマホを取り出してマップアプリを開く。電池の量は半分より少し多い程度。あまり多用はしない方がいいだろう。……しかしこれ、電池がなくなったら一体どうなるのだろうか。
「このまま道なりに進むと……地名は読めないですけど、街に着くみたいです。徒歩で三時間」
「馬ならもっと早く着くな。今日はそこで休むとしよう」
「了解です」
ポケットにスマホを仕舞い、さて、どこから話し始めようかと考えてから口にする。
「陛下、生まれた年は覚えています?」
「えーと、確か……一二一八年だったはずだ」
「西暦ですか?」
「暦か? ユリウス暦だ」
「……あれ、ちょっと違う。私が知っているのはグレゴリオ暦なのですが、太陰暦です?」
「いや、太陽暦だ。一年は三百六十五日で、四年に一回閏年」
「ならばあまり変わりないですね。……陛下、私は二十一世紀の人間です」
「……は?」
思わず陛下が馬を止めてこちらを見る。
「陛下が十三世紀だから、ざっと八世紀も後の人間ですね。その間に地球は丸いことが証明され、遠く離れた国同士の交流も盛んになりました。私の国は異国の言葉を取り入れやすいので、それで言葉の端々に英語が混じるのです」
「八世紀……嘘は、ついてないよな?」
「その証明が、これですよ」
ポケットから取り出したスマホを、陛下の深緑色の背中にこつんと当てる。陛下が振り返ったので見えやすいように掲げた。
「スマートフォン、略してスマホと呼ばれる現代の利器です。こんなに小さなものですが、現代の科学の粋が詰まっていまして、遠くの人との会話や写真撮影、調べ物、翻訳等、様々なことがこれひとつで出来ます」
「よくは分からないが、魔法とは違うのか」
「違いますよ。全然全くもって、違います」
ひらひらと、目の前でスマホを振る。
「魔法と言うのは限られた能力のある人が使える、自然現象すらひっくり返すようなものです。対してこれは、お金さえ払って所持すれば誰だって使えます。最近は子供の教育にも使われるみたいですよ」
「へぇ……進んでいるんだな。未来は」
「そうですね。地球の裏側にいる人と会話が出来る、そんな時代です」
「へぇ……裏なんてあったんだな」
「え?」
「なんでもない。それで? あいつらがお前を救世主だとか呼んでいたのは? それに召喚できたのは?」
「知りません。私はただの一般人ですし、そんな力なんて本当にないです。救世主様なんてナザレのイエス様ぐらいしか知りませんよ。召喚についても陛下を召喚できたのは本当にたまたま……というか、ノリと言いますか。当てずっぽうでやったら出来ました」
「ノリでやったのか、あれを」
「はい」
「呪文は?」
「適当です。元々創作……人が作った物語で聞いていたものをうろ覚えで読み上げました。あとすみません一部間違えました」
「はぁ!? 間違えたぁ?」
「なんだっけなぁ。本当は『汝の力で世を光で照らさん』だったはずです。しかしノリで義を為すって言っちゃいまして」
「ああ、まぁ、それくらいの間違いならいいんじゃないのか? それで、成功したのか?」
「はい。おそらく」
陛下が自身の手を握ったり開いたりして動かし、それから振り返って私の上から下へと視線を動かした。
「お前、実はすごいんじゃないのか?」
「いいえ。こんなの、出来たら私は元の世界でヒャッハーしてます」
「なんだって?」
「めちゃくちゃ楽しんでるってことです」
そう言って肩を竦ませる。英雄や偉人の召喚かぁ……今楽しんでるとは言ったけど、面倒臭そうだから絶対しないんだろうなぁ。昔の人に現代のことを説明するのは骨が折れそうだし、現代で生きるには不必要な能力だ。
「他に聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「神聖ローマ帝国のことや、ハプスブルク家のことを知っていたのは?」
「学校の歴史の授業で習うからです、陛下。基礎教養として世界の大まかな歴史の流れを学ぶように義務付けられています。神聖ローマ帝国はローマ帝国の後を継いだ国として聞いていますし、ハプスブルク家出身と言えば、オーストリアの女帝、マリア・テレジア様や、その娘でフランス国王ルイ十六世に嫁いだマリー・アントワネット王妃です。男性の名前は、忘れてしまっているか、詳しく勉強していないので知りません。申し訳ないです」
「いや、それを聞いて大体推測は出来る。そうか……王家か。俺の家の名は何百年も先の東の果てまで届いているのか」
すごいな、と陛下が呟いたのが耳に届いた。深緑色の背中に赤いリボンが揺れている。周囲の霧は晴れていた。馬が地面を歩く音が耳に届く。物思いにふけっているのだろうと判断して、陛下が話すのを待った。くわりとひとつ欠伸を噛み殺す。眠いのを無理に起きている感覚が強い。こんな時は珈琲が欲しくなる。ブラックで。最高だ。
「眠るなよ」
「努力します」
「あとどれくらいだ?」
「……もう少し」
「それまでの辛抱だ。ほらサクマ、前を見てみろ」
陛下の背中越しに前方を確認すると、森の間に街が広がっているのが見えた。見慣れない西洋風の木製の街並みに、あちこちで煙突から煙があがっている。
「やったあ、宿に着いたら眠ってもいいですか? というか、宿に泊まれます?」
「ああ。その前に食事を取らなくていいのか?」
「お腹は減っていますけど、眠いのが優ってるかなあ。あ、そういえばお金はどうします? また盗んだりは……」
「しないさ。その代わり、こいつを売る」
とん、と陛下が叩いたのは今乗っている馬のたてがみ。
「え、売るんですか!? 馬を!?」
「ああ。他に売れるものがあるか?」
「いえ、それはないですが……いいのですか? 移動はどうするのです?」
「借りる」
「借り……売った馬をですか?」
「同じ馬になるかは分からないぞ。なにせ、あれだけいるんだからな」
そう言って、陛下が指で示した先には、街の外れに牧場のように柵が巡らされていて、中には馬が数えきれないほど草を食んでいる。併設されているのは形状から考えると、あれは厩だろう。
「結構、いるんですね」
「移動に使うんだ。馬も生きているから世話をするのが大変で金がかかる。金持ちならまだしもそうじゃないのなら借りるのが手っ取り早い。それに、本当は長距離を移動するならもう一頭以上は必要だ。馬も疲れるから替えが必要だし、餌を運ぶ必要だってある」
「へぇ……食べないんですね」
「は?」
振り返った陛下をきょとりと見返す。
「美味しいんですよ。刺身にして生姜やニンニクと一緒に、醤油でいただくんです。たてがみは高いんですよねえ……お腹減った」
「……もう少しだ。我慢しろ」
「はい……」
ルドルフ一世のデザインはひろさんからお借りしています。なおルドルフ一世はハプスブルク家で初めて皇帝に選出されていますが、本文中にあるように正式にはドイツ王(ローマ王)止まりです。本作品では「帝国内で皇帝として選出」されていることを踏まえて皇帝として扱っています。詳しくはwikiで。