03. 佐久間、神殿から逃走する。
日が沈み、夜の帳が下りた頃。
「お前、本当にここから降りようと考えていたのか?」
「はい。どうです?」
「無理だろ。どう考えたって」
窓から下を覗き込んでいた男性が呆れた様子でこちらを振り返る。
「鉄格子を外して、ロープを作って降りれば」
「その鉄格子が今の状態じゃ一本しか外れない」
そう言って男性が持つのは一本の鉄の棒。私の力ではびくともしなかったが、彼が試してみると一本だけ外すことができた。しかし、かなりの力で引っ張っての結果だったので、これ以上は無理だろう。
「こんな狭いところから外に出て滑って落ちたらどうするんだ」
「どうって……」
本や物語、映画では上手く行ったんだ。口ごもっていると男性はため息をついた。
「しかし、よく外す方法を思いついたな」
「昔脱獄犯がこの手法を使ったのをテレビで観たんです」
「テレビ?」
「……電気の箱で遠くのものを映す道具です」
「魔法か?」
「そんなところです」
ふうん、と男性は納得したようなしていないような表情を浮かべる。……昔の人にテレビを説明しても、実物を見ないと分からないだろう。箱の中に人がいる、となるのだろうか。
「とにかく、こっちは無理だ。別の場所にした方がいい」
「別の場所、って……」
二人で視線を向けた先は、ひとつしかない重たいドア。普段は外から鍵が掛けられていて、扉の向こう側には憲兵がいる。基本的に一人で待機しているみたいだ。手にしたスマホで時間を確認する。現在、二〇時を少し過ぎた。
「外の憲兵が交代したのはさっきだったな」
「はい。次は夜中までないかと思います」
「そうか。よし」
ぽんと、肩を叩かれた。
「俺は隠れる。適当なことを言って中に引き込め」
「はっ!?」
振り返った瞬間には、もう男性の姿はなくなっていた。
「えっ、ちょっ……ええっ……どうしよう……」
部屋を見回し、頭に手を当てて考える。咄嗟に目に入ったのは、窓に付いている鎧戸だった。逃げるために開けていた鎧戸をさらに全開にする。ギィイイ、と嫌な音を立てて軋んだ。限界まで開けた後に、外れた鉄の棒を手に持って自分の影へと隠す。そうしてからドアの前に立つと、深呼吸して落ち着かせてから、ドアをノックした。
「すみませーん」
控えめに声を掛けると、ややあってから鍵が外れる音と共にドアが開いた。
「どうしました?」
現れたのは、ここに来てからよく見る憲兵だった。罪悪感や緊張で心臓がばくばくと波打っている。
「すみません、あの、鎧戸が閉まらなくなったので見てもらえませんか?」
廊下の松明に照らされた憲兵の表情は、よく分からない。それでも、失礼しますと答えて、室内へと入ってくれた。
窓に近づく憲兵を見ながら、後ろ手で持つ鉄の棒を握る。どうしよう。背後から襲って殴ろうか。でも当たり所が悪かったら相手が死んでしまう。それだけは避けたいけど、最適な力加減で的確に殴ることなんて出来ない。この隙に外に逃げてしまおうか。でも、捕まってしまったら? 騒ぎを聞きつけて、誰かやってきたら? もしもが浮かんでしまって、動くことが出来ない。
「おや? 動きますよ?」
「あ、あれぇ? おかしいなぁ。さっき動かなかったのに」
「軋んでいるから重く感じたのかもしれません。今度油を……」
瞬間、ぬっ、と憲兵の背後の影が動いた。彼に向かって剣を鞘ごと振り上げたのを見て、思わず目を瞑った。ごっ、と鈍い音の次に相手が床に倒れた音が聞こえて肩を竦ませた。おそるおそる、目を開くと、先ほどの憲兵がうつ伏せで倒れている。
「上手く行ったな」
「こ、殺したりは……」
「よく見ろ。ちゃんと呼吸している」
そうっと近づいて覗き込むと、確かに肩が小さくだが上下していた。ほっと、胸を撫でおろす。
「隠しているシーツの切れ端があっただろ。こいつを縛って逃げる時間を稼ぐぞ」
「は、はい!」
ベッドの隙間に隠していたシーツの切れ端を取り出して男性に渡し、開いていた鎧戸を閉じて開かないようにする。振り返ると男性が憲兵の口にシーツを噛ませていて、うわあと良心が痛んだ。映画の中で主人公が悪者とかにやられているやつだ。私、かなり悪いことしてる。これって捕まらないかな? いやでも、正当防衛だと思うし、逃げるための手段だし、私が悪いわけではないのだし……。
「何ぼけっとしてるんだ。手伝ってくれ」
「はい……」
ここで躊躇っていても仕方がない。男性の指示を腕は後ろ側で、両足を拘束し、轡を噛ませる。その間に腰にあった鍵はありがたく頂戴した。
「よし、サクマ、行くぞ」
こくりと頷いて、男性に続いて部屋を出る。部屋を出てすぐのところに松明があるのは、ドアの間から見えていたので知っていた。その先の階段には松明はかなりの間隔を開けて設置されているらしい。塔全体が、黒に塗り潰されている。橙の揺らめきが遠く、石の階段はそれに照らされほんの少し見える程度だ。
男性が、近くの松明を手に取った。その腕に私の手を添えて止める。
ポケットから取り出したスマホを触り、寒色のライトが足元を照らす。
「ほう」
「こちらが都合がいいかと思います。消すのも簡単ですし、もしくは」
スカートにスマホを押し当てると、周囲は再び闇が迫ってくる。再びライトを前に向けると、階段はくっきりと闇から浮かび上がった。
「熱くはないのか」
「熱くはないです」
「火打ち石は?」
「必要ありません」
「それも魔法か。すごいな。召喚士だから出来るのか?」
「……いや、全く関係ないと思います。全く」
松明を元の場所に戻しながら感心する男性に、渋い顔をしながら答える。……魔法ではなくてフィラメントの発熱……違う、LEDだから原理が違うか。どうやって光っているのか説明ができないし、そんな暇もないから黙っていよう。
光るスマホを男性に渡そうとすると断られ、私が持ったまま、先頭を歩く。パンプスのヒールが、石の階段を叩く度に音がする。音が塔の中で反響する。憲兵が立てる音とは、絶対違うだろう。そう考えて、出来るだけ慎重に、音が鳴らないように歩を進める。
夜、だからだろうか。それとも神殿が石で出来ているからだろうか。空気は冷たく体温を奪っていく。カーディガンを着ている上だけならまだしも、スカートにストッキング、パンプスだけの足が寒い。しかし、緊張で鼓動が早くなっているせいか、じわりと嫌な汗をかきそうになっている。
塔の階段を降り終わった場所は、ちょっとした広間になっていた。ドアノブを掴んでからスマホを胸元に当て、ゆっくりと、ノブを回す。
蝶番が、軋む。ドアの隙間から、向こう側が見えてくる。全て開けようとすると、男性の手でドアが押さえられた。私の上から、男性が覗き込んでドアの向こうを確認する。
「人はいないみたいだな」
「みたいです」
「もう少し慎重に行動しろ」
「これでも慎重にしています」
本当か? と向けられた視線が暗闇でも分かる。むぅ、と口を尖らせてドアの向こうを隙間からもう一度確認、顔を出してさらに右・左と確認してから広間へと出た。
広間は特に何か仕掛けがあるようには見えず、無事に突っ切ってから広間の出口までたどり着く。
が、出口から顔を覗かせると、廊下の向こう側から憲兵が歩いてくるのが見えた。
咄嗟に身を隠して隠れる場所を探す。どうしよう、広間には物が殆どない。もしもあの憲兵がこちらに来てしまったら見つかってしまう。おろおろと見回していると、男性に肩を掴まれて引っ張られた。向かうのは先ほどまで様子を伺っていた塔のドア。再び塔の中へ入り、ドアをほんの少しだけ開けた状態にする。
「ここで様子を伺おう。いいな?」
男性の言葉にこくりと頷き、隙間から向こうを覗く。石の床を歩く音が、橙に照らされて伸びた影が、近づいてくる。鼓動の音が、煩い。息を殺してひそめていると、憲兵は広間の前に来て足を止め、こちらを振り返った。
「誰か、いるのか」
どうしよう、見つかった。ひっ、と喉が鳴る前に、男性の手によって口を塞がれた。男性を見るとドアの向こうを静かに見つめ、様子を伺っている。呼吸が速くなる。息が苦しい。心臓の音が、耳に聴こえて来そうだ。
憲兵は広間の奥を見ていたが入ってくることはなく、そのまま通り過ぎてしまった。音は遠くなり、広間に静寂が訪れる。
「……行ったか」
男性の言葉を合図に、私は口を塞いでいる手を指で軽く叩く。
「すまない。悪かったな。大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
自由になった口で思いっきり息を吸って吐き出す。この先も、神殿を出るまでは隠れんぼが続く。下手をすれば、神殿を出てからもずっと続くだろう。まるでゲームのステルスアクションみたいだとわくわくする気持ちもあるが、見つかってしまった時の恐怖やどうなってしまうのかと考えると胃が痛くなりそうだ。
「……いけるか?」
「はい」
男性がドアをゆっくりと開ける。広間の出口まで進んで周囲を伺うと、来ても大丈夫だと私を手招きする。一歩踏み出すと、カツンとヒールが音を立てた。憲兵の足音よりも、煩い。
「おい、何をしてるんだ」
「え?」
男性の元に向かうと、強い口調で聞かれた。ダメだったのだろうかと、左手に持ったパンプスを見せる。
「足音が煩いので脱ぎました」
「靴下も履いていないのに裸足で歩くつもりか?」
「ストッキングは履いていますよ? 一応……でも、ヒールの音が煩いのでこうした方がいいかと。見つかるよりはましです」
「怪我したらどうするんだ?」
「……怪我、って」
怪訝な顔で男性を見上げる。割れたガラスや尖った石があるのなら、足の裏を切るかもしれないが、室内ならその可能性も低いだろう。それに、素足の方が音を消せるから忍ぶには持ってこいだ。
そう判断したのに、男性はため息をついて眉間を押さえた。
「何か問題が?」
「ここから出口までどれくらいあると思って……」
ざっと、今日歩いた場所と以前逃げようと走った場所を照らし合わせ、距離を概算する。
「……それくらいの距離なら、パンプスなしで歩くことに問題は……」
「もういい。失礼」
「うわっ!」
目の前に来た男性が屈むと、私の体が浮き上がった。いつもの視線よりもかなり高くなった景色。近い距離にある男性の顔。腰と足に回された腕。
簡単に言えば、私は今、男性に抱きかかえられている。
「ちょっと! 何しているんですか!」
「こうするしかないだろ。ほら、光出せ。前照らせ」
「はぁ!? 何無茶なこと言って……わっ!」
小声で抗議するが、男性はそう言って歩を進め始めるのだから、落ちないように手を肩へと回す。
「降ろしてください! 自分で歩けますし、この状態だとあなたの両手が塞がってしまいます! 私を抱えていたら邪魔でしょう?」
「そこまで頭が回るのに気づかないのか……お嬢さん、アホって言われないか?」
「なっ!? 今それとこれって関係あります!?」
「言われるのか……そうか……」
男性が思いっきり呆れた様子で遠い目をした。反論したかったのだが、言葉を飲み込んだ。私がアホではないと証明できるものがない。異性に抱えられるだなんて恥ずかしいにもほどがあるが、ここは大人しく従うしかない。
「……重くないですか?」
「それなりに。許容範囲だ」
「……ならば、せめて背負ってください。この格好なら私も両手が塞がりますし、何か会った時に対応が遅れます」
「そうか。もう少し抵抗するかと思ったが、物分かりがいいんだな」
「それなりに。私の長所です」
「ふっ。そうか」
男性は、小さく笑った。
松明に照らされても暗い廊下を男性とともに移動する。パンプスを履いて背負われ、片手にスマホを掴んだまま男性の肩で手首を固定し、前方を照らす。流石に、運ばれているだけなのは申し訳ないから、その分神経を研ぎ澄ませて周りを警戒する。
「よし、前方は誰もいない。サクマ、後方は?」
「問題ありません」
角を曲がるときには必ず立ち止まってその先を覗き込み、憲兵をやりすごしてから先へと進む。そう言えば、まだ男性の名前を聞いていなかった。聞こうと思ったが、聞ける状況でもないなと思ってやめる。後で聞けば、いいか。あまり支障はないだろう。
隠れたり回り道を繰り返し、少しずつ、少しずつ進んでいくと、周りの景色があの走って逃げたときの記憶と一致してきた。
「この先を進むと回廊に繋がって、確かその先が外でした」
「そうか。剣を振るう可能性があるから、外に着いたら降ろ……」
「貴様は誰に物を言っているのか!」
突然、怒鳴り声が石造りの室内を反響して聞こえて来た。びくりと肩を揺らし、周囲に誰かいないか見回す。
「これ、お前の嫌いなやつじゃないか?」
「向こうから聞こえてくるようです」
「どうする? 行ってみるか?」
「行ってみましょう。何か情報が掴めるかもしれません」
男性が廊下の奥へと進んでいく。誰かと話す声が先から聞こえて来て、それが近づくたびにどんどんと内容が聞き取れるようになる。
「たかが巫女の分際で私に楯突くと言うのか!」
「神官長様。私は巫女をまとめる長として、この国の未来を担う者として、恐れ多くもあなたに進言しているのです。このままでは救世主様は心を閉ざしたまま、我々や神の言葉をお聞きにならず、この国に救済も、栄光ももたらすことも叶いません。現状を変えるためには、もっと我々があの方に歩み寄る必要があると思うのです」
「はっ、貴様は一体何を言っているのだ」
たどり着いた廊下にはいくつかのドアがあり、そのうちの一つが少しだけ開いている。話の内容を聞く限り、どうやら神官長と巫女長が話をしているようだ。男性がそこから少し離れた物陰に隠れ、私を床に降ろす。その男性の陰に隠れるように移動し、耳をすませる。
「あんな瘦せぎすの小娘に気を使う必要がどこにある? 生意気な口を叩き、こちらが折角食事の機会を設けたというのに彼奴は結局降りてこなかったではないか! それに、あの服を見たか? ふくらはぎをさらけ出し、足首をさらけ出し、尻の形を見せつける。娼婦の格好と変わらないではないか。しかし、あれは娼婦だったとしても三流もいいところだ。男に媚びることが出来ず、さらにあんな痩せていて貧相な体、見せつけられた男は抱く気も失せるだろう。あの小娘を抱くくらいなら、首都の下級娼館の方がましだ。賭けたっていい! 世の男は皆、私と同じ意見だぞ!」
笑う神官長に眉根を寄せる。悪いが、下は仕事着用に買ったフォーマルなタイトスカートだし、パンプスもストッキングの組み合わせも何にも恥ずかしいものではない。パンツスタイルを好む女性はいるが、それはそれ。それに……。
「……怒らないのか」
振り返って私の表情を伺った男性が、こそりと声をかけて来る。ため息を吐き出したい気分だったが、前を向いたまま目を細めて答えた。
「別に。私も娼婦を選びますね」
「サクマ、あいつはお前を馬鹿にしているんだぞ」
「もちろんそれは分かっています。しかし、痩せているのは確かですし、貧相なのも自覚しています。娼婦だったら三流も言い得て妙です。媚びや甘えがかなり下手ですから」
納得がいかない様子の男性にちらりと視線を向け、小声での話を続けるために体を寄せる。
「例えば、例えばですよ? 手練手管を知り尽くした娼婦と、あなただけに体を預けてくれる恋人。どちらを取りますか?」
「……今、その例えが必要か?」
「必要ですよ。で、どちらです?」
男性は、困惑した様子で視線を逸らす。
「……後者だな」
「でも世の中には前者がいいとおっしゃる男性もいます」
「まぁ、確かに」
「男性の好みも様々、ですよね? 胸がいいとおっしゃる方もいれば、尻がいいとおっしゃる方もいる」
「そう、だな?」
「つまりはそういうことです」
「そういうことなのか?」
「そういうことです。あのハゲ頭は娼婦が好きで肥えた女性が好きで足見ただけで興奮してしまうと。痩せてる私はアウトオブ眼中。それでいいじゃないですか」
「……いいのか、それで」
「いいのです。私もあんなクソ野郎になんて欠片も興味がありませんし、アイツの趣味に合わせる義理だってありません。ほら、これで世界が平和になりました」
「………………」
全く、納得がいっていない顔で男性は首を傾げている。
「端的に言えば、考えれば考えるほど腹が立つので考えたくもないんです」
「最初からそう言えよ」
「そう言ってるじゃないですか」
「そもそも、救世主が心を開かないのは巫女長、貴様の責任もあるのではないか? 俺に口答えする暇があるならあの小娘に言うことを聞かせる努力をするべきだと思うが……どうなのだ?」
くつくつと笑いながら神官長が話している。怒ったり笑ったりと忙しそうだ。
「私たちも精一杯、救世主様に心を砕いています。しかし、頑なでしてまだ応じてくれそうにありません。それに、塔に閉じ込めていたままではこちらへの不信感もきっと募っているでしょう。特に神官長様にかなりの警戒を抱いているようですので、もっと優しく接する必要があるかと思います」
「そうだそうだ、もっと言ってやれ」
「お前、あいつに優しくされて喜ぶのか?」
男性の問いに想像して、うへぇと顔をしかめた。
「もっと? この国の人間でもない、戦争で勝つための道具に優しくしろと言うのか? 死んだら新たに召喚される消耗品に?」
「神官長様」
「事実ではないか。異界の英雄を使い魔として召喚し、力を与え、他国を蹂躙するのが救世主の役割だ。そこに意志や自我など必要ない。戦績を残して使い切ったら、また新しい救世主を呼べばいい。違うかね?」
「……言葉にはお気をつけください、神官長様。救世主様や使い魔様を召喚し、さらには力を与えるために大勢の巫女がその身を彼らに捧げるのです。彼女たちの死を無駄にすることは……」
「それが、どうしたかね?」
はっと、巫女長と呼ばれる女性が息を飲んだ。それが廊下にいるこちらにまで伝わってくる。
「君たちはその為に生まれてその為に育てられた。白い髪に赤い瞳、日の光に弱いその姿は神殿の庇護を受けることで外界から守られている。巫女として神にその命を捧げることは、言わば恩返しである……違うかね?」
「違い……ません」
「巫女長、君は代々巫女を排出してきた家柄とその努力により今の地位を得られた。巫女長である君は依代や贄に選ばれる可能性は限りなく低い。それはそうだ。君には神殿での役目が終わった後、家へと戻り、新たな巫女を生む役目がある。君は運がいい。他の巫女はここで命を全うするが、君には未来が確約されている。……もし、もし今の地位を失ったとすると、どうなるか分かるかね?」
「……それ、は……」
「出過ぎた真似をすることは君の足元を不安定にさせる。よくよく、理解しておきたまえ」
話は終わりか? もう夜も遅いのだから部屋に戻りたまえ。その言葉を聞いて、私と男性は同時に立ち上がり、静かにその場を後にした。身振り手振りで、男性に再び背負われ、神殿の中を移動する。二人とも、黙ったままだった。まだ喋ってはいけない気がした。
回廊をひとつ、ふたつと曲がり、人気が全く感じられなくなった場所で、ようやく男性が口を開いた。
「サクマ」
「何ですか?」
「贄のことは知っていたか?」
私が背中側にいるから、男性の表情は見えない。
「いえ……依代のことは知っていましたが、贄のことは知りませんでした」
「依代?」
「私を召喚するのに、女の子を使ったみたいです」
「そうか……」
男性の歩くテンポが速い。暗い回廊に、男性のブーツの足音が響いている。
「……俺の国では、生贄は禁止されていた。それは人間だけではなく、動物も」
「………………」
「神はそのようなことを望んでいない。しかも女を生贄にするなんて、間違っている」
「……でも、よくある話ですよ」
男性がこちらを振り返った。
「異国では少女を大切に育てて、神へと捧げていたそうです。私の国では、昔橋が何度かけても落ちるからと、人柱を使った結果、橋が落ちなくなったとか聞きます。創作でもよく聞きますね」
「ならお前は、生贄はあってしかるべきだ、と言うのか」
「そんなことは言っていません。でも、世の中には私たちの理解を超えることや、受け入れられない価値観だってあるのです。今回はここの宗教がそうだったってことですよ」
「それをお前は受け入れるのか」
「受け入れたくないから、逃げているじゃないですか。人を攫って救世主に仕立て上げる宗教がどこにあります? 他人の信仰を馬鹿にしたり貶すことはしたくないので、二度と関わり合いたくありません……胸糞悪いですよ、正直」
「そうか」
男性の足取りが、少し軽くなったような気がした。
回廊を抜けたところで、ようやく建物の外へと出た。空にはぽっかりと月が浮かんでいる。
「月が出ているのか。逃げにくいな」
ぽつりと男性が呟いた言葉に、私も閉じていた口を開いて声を出す。
「どうしてですか?」
「明るいと闇に紛れにくくなる。暗くすることは出来ないのか?」
「無理です。ただの人間にそんなことが出来るわけがありません」
「俺を召喚したり、闇を照らすことが出来るのに?」
「召喚したのは成り行きです。あとライトは魔法とは少し違うのですよ……詳細は長くなるので省きますが。それより、降りましょうか? ここまで来れば大丈夫だと思います」
「そうだな」
男性の背中から降ろしてもらい、ありがとうございますと礼を告げる。
「いや、気にするな。後は敷地内を抜ければ一息つける。……この辺の地理が分かれば楽なんだが……」
地理、と聞いて思わず手元のスマホを触り、マップを開く。何か分からないことがあればスマホを開くのがいつもの癖だ。マップアプリをタップした時に、そう言えば衛星がないからGPSが機能しないから意味がないと、そう思ったのだが……。
「うそぉ」
「どうしたんだ?」
「え? ええ?」
現れた見慣れない地図に眉根を寄せながら、拡大したり縮小したり、航空写真を表示させる。
「これ、この建物ですよね?」
「うん?」
「色とか配置とか、似ていません?」
画面を男性に見せると、男性は目を細める。顔からスマホを遠ざけ、建物とを見比べている。……あれ? もしかしてこの人、遠視か?
「これは一体、何だ?」
「地図アプ……地図です」
「地図? この絵はどうやって描いた?」
「本来なら真上から衛星で映像を受信しているはずですが……」
あ、ダメだ。男性分からない顔している。
「説明、長くなるので止めましょう。後で話します」
「ようするに魔法か」
「違います。科学の進歩です」
「科学?」
「サイエンス! アルケミー! アルケミスト!」
「アルケミー……ああ、錬金術か。なら、サクマは錬金術師なのか?」
「………………」
「よし、後で聞こう」
「そうしてもらえると助かります」
説明するのが面倒くさくなってきた。俯いて眉間を押さえると、察した男性がすぐに話を切り上げてくれた。
「どういう原理で使えるのかは私にも分かりませんが、これで周辺の地形を知ることが出来ます。今いるのがここなら……この先、この方角を進むと街があるみたいです」
「距離はどれくらいだ?」
「ええっと……正規の道を使えば、徒歩で二〇分だそうです」
「そんなことまで分かるのか。この時間に出歩く人間は少ないとは思うが、警戒して遠回りする必要がある。目の前の森を抜けなければならないが、歩けそうか」
「歩くのは慣れていますから大丈夫……と言いたいですが、靴が適していないので、時間がさらにかかるかもしれません」
「だろうな。街で馬を手に入れるまでの辛抱だ。今夜中に距離を取れば少しは休める。歩けなくなったらまた背負うしかないな」
「すみません。ご迷惑をおかけします」
「いい。乗りかかった船だ。気にするな。……行くぞ」
「はい」
一歩踏み出した瞬間、風が吹き抜けた。思わず目を瞑り、風が止んだところで瞳を開く。
空に浮かぶ月は、柔らかで冷たい光を帯びて夜を照らしている。クレーターを確認するが、私が知っている月と何も変わった様子はない。
ふと、目から涙がひとすじ流れた。
目にゴミが入ったわけでもないそれを手の甲でぬぐい、その理由を考える。悲しい気持ちもないはずなのに。
「サクマ、ぼけっとしてると見つかるぞ」
「すみません。今行きます」
足を再び動かし始める。神殿、と呼ばれる石造りの建物が、離れて行く。
こうして、逃亡劇が始まった。
「彼」のデザインはお借りしているものですが、ストーリーの都合上後から紹介させていただきます。
2018年3月18日 最終修正