01 佐久間、異世界に召喚される。
「佐久間」
「はい」
上司に呼ばれて自分の席を立ち、上司のデスクの横に移動する。
「この間のデータ整理はどこまで行った?」
「ほとんど完成しています」
「メールに貼り付けて送ってくれ」
「共有フォルダに入れていますのでこのPCから見られますよ」
「そうか。どこにある?」
「こちらに」
ファルダからさらにフォルダを指示し、開いたエクセルファイルを元に状況を報告していく。
「こちらで更に枠を作りまして、より見やすく分かりやすくしました。関数を全て入れ込んでいますので、データが変わっても対応できるようになっています」
「すごいな、佐久間」
曖昧に微笑んで答えてから、液晶画面へと向き直る。
「あとは空欄にデータを入力して、もう少し枠を整えたら終了です。今日中に終わるかと思います」
「よし、任せた。それともう一つ、これとは違う視点で同じようにデータをまとめてくれないか?」
「はい……データはどこに?」
「俺が持っているから、メールに貼り付けて送るよ」
「いえ。共有のフォルダに入れてもらえれば、そちらから引っ張り出すのでお願いします。データの照合は……」
「一つ一つ手打ちで調べてくれ」
膨大なデータを前にして思わず目を瞑る。一つ一つを手打ち? そんなことしていたら日が暮れるじゃないか。非効率だと心の中で毒吐く。……アプリケーションを使ってデータ同士を関連付けし、それから引っ張り出すようにすれば確か出来たはずだ、と考え、上司にはわかりましたとだけ返答した。下手に出来るアピールをすれば仕事を増やされる。これ以上はキャパシティオーバーだ。
「あと佐久間、悪いがこれ来週の会議に使うから、明日までに仕上げることが出来るか?」
「…………残業、申請してもいいですか?」
「任せた」
上司……頼むから早めに言って欲しかった。どう考えても無理な注文に、自分の中での実行可能なラインを見つけて返事をする。また残業か、と気分が下がったが、これで残業代がつくのなら、まぁ、いいだろう。その分ゲームに課金が出来る。そう自分を納得させた。
「それと佐久間」
「何です?」
「更新かけたら登録していたメールアドレスが全部消えた。復元してくれ」
「……は?」
今、何とおっしゃいましたか? メールアドレスが消えた? 登録していたのが、全部?
それっ、ウイルスによってデータが抜き取られていたのならどうするんですかこのクソ上司ぃ!!
……私、佐久間瑞季は日本の企業で働いていた。
ほぼ毎日パソコンで会社のアプリケーションやエクセルを画面越しに睨みつけ、パソコン初心者レベルの上司にイライラし、眼精疲労と戦う日々。
肩こりや腰痛に悩まされ、目の疲れを軽減させるためについにブルーカットの眼鏡まで新調してしまった。近視で目が悪く、その分レンズも厚くなるから少々高い非球面レンズを使用して……店員が示した金額は、お財布に打撃だった。しかし、これ以上目を悪化させるわけにもいかない。しばらくは財布の紐を締めなければ。
勤務時間は一応一七時までだが、始業時間よりも早く出社し、忙しい時は一日の半分以上オフィスに滞在すると退社時間は二〇時や二一時になってしまう。それから一人暮らしをしている賃貸のアパートに戻るとなると……寝るのは日付変わってからだ。
恋人は……数年前にはいたが、今は必要性を感じていなくて作っていない。というより、そんな暇がない。出会いを探しに外に出ることも、異性と会う時間を作ることも、そんなことに使うのなら、自分に使った方がよっぽど有意義だと感じてしまう。……使い先だなんて、たかが知れているが。
「……ん、来たか」
仕事の合間の休憩中、こっそり盗み見たSNSに発表された、ゲームのイベントを知らせる告知をすぐさま友人にDMを送って知らせる。イベントと共に新しくガチャにキャラクターも登場するはずだ。楽しみだと口元を緩ませながらスマホを閉じた。
現在ハマっているのは、各国の偉人や神話の英雄、お伽話の主人公を使い魔として使役し、戦うアプリゲームだ。
特に女の子のキャラデザが可愛かったのと、ゲームシステムがシンプルでいて奥が深いもので、他プレイヤーと対決したりすることなく自由にのんびり出来るのが性に合っていたようで、気づいたら長く続けている。……かれこれ二年以上は経つのか。それなりに――重課金勢に比べれば、だが――課金しているせいもあって持ちキャラの数は多く、メインで使うキャラの育成は粗方終わらせた。ゲームは広く浅く、そこそこ楽しめればいい方なのでやり込みはあまりせず、普段は最低限ログインをこなし、ガチャが始まったら課金して引いて、爆死したら落ち込んで、来たらある程度使えるまで育て、イベントとなったら本気で素材を取りに行く……これは最近のどんなアプリゲームも一緒だろう。
昔から、女の子らしい……いや、らしいと言っていいのかは分からないけれど、アイドルや歌手、ドラマに騒ぐことは殆どなく、一人で黙々とゲームや漫画に没頭しているのが好きだった。身近で遊ぶ友人は少なく、ネット上で共通の趣味で知り合った友人とオフ会を開いて会って遊んではいる。今風と言えば、今風かもしれない。
別段寂しくもなく、未来に対して大きな目標も予定もなく、今をひたすらに享受する。
この日々に、何の不満も特に感じていなかった。
黙々と作業していると、昼の休憩時間になった。さっさと休憩を取ろうと、席を立って新たに珈琲をマグカップに入れに行く。胃を休めるためのミルクと、エネルギー源になる砂糖を加えることを忘れない。
「佐久間さん痩せた?」
「いえ、多分変わらないかと」
「ちゃんと食べないと倒れるぞ」
よく言われるお決まりの声掛けに曖昧に笑って対応する。学生時代に運動部に所属していた影響もあって、軽めに体重を調整するのが癖になっているのだ。
席に戻ってから通勤途中で買ったパンを自分のデスクで黙々と食べる。その時も、片手間でゲームを開いて素材周回を……今日は無理だ。体が疲れている。画面をつけてログインしようとしていたが、早々に諦めて画面を消し、デスクの上に置いた。
昼間のオフィスは省電力も兼ねているせいで、電気を消している。暗くて静かだ。各々デスクで食べるか、御局様たちの姿が見えないからどこかで集まって食べているのだろう。さっさと食欲を満たしたら、残った時間ですることは昼寝だった。化粧直し? 申し訳ないがそんな女子力は私にはない。だから昼寝しても崩れにくい化粧を朝施してきた。眼鏡を外して目の前に置き、デスクの上にうつ伏せて目を瞑る。仮眠を取らないと昼からの業務が眠くて眠くて仕方ないのだ。チャイムが鳴ったら、またひとふんばり――。
しかしこの日から、私の普遍に続くと思われた日常はいともあっけなく崩れ落ちた。
目が覚めると、私は冷たい台の上に寝かされていた。眼鏡をつけたままらしく、吹き抜けた天井に、描かれている凝った装飾がしっかりと映っている。天使、だろうか? キリスト教系か? ……いやいや、そもそも私は会社でうつ伏せに寝ていたはずでは? なのにどうしてこんな所で寝ているのだろうか。誰かの悪戯か? ……いいや、私の身近でこんな悪戯を仕掛ける人間はいない。いくら眠っていても、運ばれれば流石に分かる。そこまで眠りが深くはない。
「女?」
誰かがそう言ったのが耳に聞こえた。何事かと体を起こそうとすると、両側から人が現れてそれぞれの腕が私の脇へと回り、起こすのを手助けされた。声をかけようとしたが、思わず上から下まで見てしまった。
……白い。髪も肌も服も、白い。顔はベールで覆われていて見えないが、体つきや雰囲気から察するに、恐らく女性だろう。チュニックのような、上から着るワンピースのような服の生地は白だが、それよりも肌の白さが際立つ。
「ようこそおいで下さいました、救世主様」
眉根を潜めていると、女性の声が神殿内に響いた。見れば数段高い所にいる私に向かって、同じく白い服を着た人々が跪いて頭を垂れている。私を起こした二人も、私から離れてその場で跪いた。……何だか、映画とかテレビで見た神殿の雰囲気に似ている。しかし、純日本生まれ純日本育ちの私は日本で暮らしていたのだから、こんな西洋風な場所にいることがおかしいのだ。
「今、この国に危機が迫っております。どうか貴女の御術でこの国をお救いください」
「……は?」
一番前にいる男性が頭を下げたまま、そう言う。救世主? 誰が? 危機? 何の?
思わず後ろを振り向いたが、誰もいない。壁が近いくらいで……いや、奥に御神体のような、神様の像が置かれている。向き直ると、未だ彼らは頭を垂れている。
どう考えたって、私のことではないだろう。そう判断して、台から降りようと一歩横にずれた。
「救世主様? どちらに行かれるのですか?」
「えっ?」
横で跪いていた女性が私を見上げて声をかける。私に向かって、救世主と。指で私が自分自身を示すと、こくりと彼女は首を縦に振った。
「は、はははは、ははは」
乾いた笑いが出てくる。
ああ、もうダメだ、頭おかしい。私が救世主だって? そんなのないないないない。
……ない、ので。
「とうっ!」
「救世主様!?」
ここからダッシュで逃げるしか、ない!
そう決意して、振り返りざまに台を飛び越えた。が。
「っ……!」
飛び降りた台が高かったこと、履いていたスカートがビジネス用のタイトだったこと、靴がスニーカーではなくパンプスだったこと。相手の数が多かったこと。様々な要因が災いして、台から数メートルも離れないうちに囲まれてしまった。
全て、ベールや布で目元を覆った女性……いや、若い少女の姿もある。ここは一体、どこなんだ。
「救世主様、どうか落ち着いてください」
彼女たちを割って、一人の男性が現れた。先ほど、私にこの国のことを救ってほしいと言った人、だろう。白い布で出来た服を上から身にまとい、肩には……あれは、ストラと言うのだっけ? それに似たものを着ている。
「いきなりのことでさぞ驚いていることでしょう。しかし、ご安心を。我らは貴女の味方です。貴女を傷つけたりしません」
……どうだか。人を知らない場所に連れてきた奴のセリフなんて、信用が出来ない。
「ここは、どこなの?」
「レンツラウ国第三神殿です」
「私はどうしてここに?」
「我らが神へと願い、神が力をお貸しできる人物を異世界から選び、そして我らが召喚しました」
「……は?」
今この人、何て言った? 神? 異世界? 召喚? ゲームのやりすぎじゃない?
「貴女は、異世界から来訪した偉大なる召喚の力を持つ救世主です。どうかその力で貴女の世界の偉人や英雄を呼び出し、この国に栄光と繁栄を――」
「無理」
きっぱりと、言い切った。ダメだこの人たち、ゲームのやりすぎで頭可笑しくなってる。
「異世界なんてあるわけないし、一般人が英雄を呼べるわけもない。いいから早く、私を元の場所に戻して。きっとみんな心配しているはずだから」
周りがざわつく。私が何を言っているのか、分からない。理解できないと言うように。男が手を挙げたことで、ざわつきはすぐに静かになった。
「……それは無理です」
男が、重々しく口を開いた。
「どうして? 身代金でも要求するの? 言っておくけど、私の会社は大企業でもないし、私は重役でもない。家にだってそんなお金は……」
「この召喚術は、貴女を呼ぶことが出来ても、帰すことは出来ません」
「………………」
本当に、何、言っているんだ。
「貴女はこの世界に来たことで今までの地位・名誉・未来が無くなってしまったと思うでしょう。しかし、嘆くことはありません。救世主は神によって選ばれた地位・名誉です。さらに、我らは貴女が得ていた以上の幸福を、栄誉を、安寧を、貴女にもたらすと確約しましょう」
……何を、言っているんだ。
「貴女は神に選ばれたのです。神は貴女にこの国を、ひいては世界を救う力があると確信したのです。どうか我らの手を取り、ともにこの国を」
「ふざけんな!」
滅多に出さない大声が、口から飛び出た。喉が、震える。熱い液体が、頬を流れる。ありえない。ありえない。ありえない。
感情が、爆発する。抑えたくても、抑えられない。
「人を勝手に連れてきておいて……何? 救世主? 寝言? 馬鹿みたい。そんなの、頭がおかしいでしょ! いいからさっさと私を帰せ!」
「一体何をおっしゃっているのか」
訳がわからないと、男は声を荒げる。
「我らは貴女に幸福を確約している! 神に選ばれて元の世界で得ていた以上の名誉も、栄光も、この先手に入れることが出来るというのに、何がご不満なのですか!」
「当たり前でしょ! そんなのいらないわよ! 私は今までの生活が一番なの! 栄光とか名誉とかいらない! 望まない! だから私を帰して!」
「出来ません」
「帰せ!」
「無理です。……もう貴女は、元の世界へと帰ることが出来ません」
「……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
踵を返し、人を掻き分け、その場から走り出した。とにかく、出口。出口に向かわなければ。出口に向かえば、帰れる。警察にでも、日本の領事館にでも飛び込めば、きっと助けてもらえる。これは夢なんだ。ちょっと働きすぎて見た悪夢なんだ。早く夢から覚めて。そうすればいつもの毎日が……。
「捕まえろ!」
「っ!?」
左右から憲兵がやって来て、私を取り押さえる。あっという間に、冷たい石の床へと叩きつけられてしまった。
「いっ、たぁ……」
「神官長様、無事保護致しました」
「うむ。よくやった」
床に這い蹲った状態で、やってきた男を見上げて睨みつける。
「あの、救世主様は……」
「召喚したばかりで気が動転しているのだ。塔にお連れしろ。なぁに、すぐに落ち着くさ」
男は私の前に屈み、耳元へと顔を寄せる。
「この世界で貴女の味方は、我らだけです」
「!」
「落ち着いてもらえれば、手荒なことは致しません」
「くっ、そ……!」
抵抗も無駄に等しく、憲兵たちに立たされて連れていかれる。
こうして私は、塔に閉じ込められた。
周りは石で出来た壁、鎧戸と格子付きの小さな窓、簡素なベッドとテーブル、トイレが用意された、まるで囚人のための部屋だ。最初は出せとドアを叩いたが、何も反応がない。脱出できる経路がないか辺りを見回すが、手元にあるのは、スマートフォンと、ポケットに入れていたボールペンとメモだけ。髪を纏めるのにピンを使っていなかったから、錠破りは難しそうだ。
「………………」
スマホは圏外で、ネットに繋がってない。どこにも連絡が取れない。格子の間から外を覗いてみるが、降りることが出来ても地面が遠い。ロープか綱が必要だ。ベッドに敷かれたシーツを手に取って歯で噛んで引き裂いてみようとした、が。
「……痛い」
漫画みたいには、上手くいかない。びりりと裂いただけで歯が痛くなった。……細かく裂いて編んで、ベッドに縛り付けてから庭まで降ろせばいける、かもしれない。しかし、縄を作るまでに時間が必要で、かつ見つからないように作業しなければならない。格子は鉄製だが、何とかなるだろう。きっと。
ドアの外から、階段を上がってくる足音が聞こえた。シーツをベッドに戻し、その上に腰掛けてごまかす。
「救世主様、食事をお持ちしました」
ドアを開けて、憲兵が中へと入って来た。隙を縫ってドアから外へと逃げるべきか……いや、先ほどのように捕まるのがオチだろう。逃げるのなら、確実に成功しなければ、きっと終わりだ。
「………………」
食事をテーブルの上に置いた憲兵が、こちらを見ている。身を強張らせて距離を取った。何かするつもりだろうか。こちらを見つめていて動く気配がない。
「……何です?」
沈黙に耐えきれずに声を発すると、相手は狼狽えながら「申し訳ありません、失礼します」と言って部屋を出て行った。鍵のかかる音がしなかったからベッドから降りてドアへと駆け寄るが、目の前でガチャリと金属の音が鳴った。……閉じ込め、られた。外界から……隔離された。何故だろう。さっきだって閉じ込められたはずなのに、今回の方が胸にくる。
ふらつく足取りで、ベッドに戻った。カーディガンも脱がずに、そのまま横になる。食事を取る気にもなれなかった。
空気が冷たい。石の壁が熱を奪うからだろう。ベッドの上で小さくなり、毛布を体に巻きつける。これはきっと、夢なのだ。寝て起きたらきっと、私は会社に戻っている。……きっと、今起きたことも、忘れていくだろう。
そう思いながら、目を閉じた。
――目を覚ましたら、全てが元通りになっている。そう、信じて。
「救世主様」
閉じていた瞼をゆるり、ゆるりと開く。
気づいたら辺りは白い空間になっていた。目の前にいるのは、あの先ほど神殿で会った女性と同じ姿の少女だ。白い髪に、白い肌。白い服。目元を白い布で覆っているから眼は分からない。――その少女が今、私の目の前に座って、こちらを覗き込んでいる。
「……誰」
「依代の、巫女でございます」
「巫女」
「はい」
嬉しそうに、少女は首を縦に振る。
「救世主様をこの国に御呼びするために、私は依代となりました。今あなたさまは、私の体に宿っている状態です」
体を起こして座り直し、天を仰いだ。胡座をかきたいが、タイトスカートが邪魔をする。
「……寝言は寝て言ってくれる?」
「これは寝言ではないです! 私は、あなたさまの意識に直接語りかけています」
「だーかーら、そういうのが寝言って言うのよ!」
ばちんと、自分の前の床を叩いた。
「救世主とか依代とか、ふざけないで! 現実的な話ではないでしょう! 厨二病こじらせているにも程が有るわ!」
「ちゅうにびょう……あ、習ったことがあります。確か救世主様の国の言葉で、妄想と現実を混在させる、死の病のことですよね?」
両の手を顔の前で合わせて、少女は微笑む。
「ご安心を。私たちはそのような病には罹っていないですし、救世主様に移すことはありません。私は体が丈夫なのです」
えへん、と――検討違いで何か可笑しい、胸を張る彼女に対して、はぁ……と気の抜けた返答をした。
「私は、あなたさまをこの国に繫ぎ止めるため、あなたさまに力添えするために、依代となりました。どうか私を頼ってください!」
「……と言うことは、あなたが死ねば私は元の世界に帰れるの?」
「うっ。発想が物騒すぎませんか?」
「どうなの?」
「……私が死んだ場合は、救世主様もお亡くなりになりますから、神によって天に召し上げられるとお聞きしています。私は天の花園で、救世主様は神の身許で最後の審判まで永遠の命を得るのです。どうです? とても幸せでしょう?」
思いっきり、ため息をついた。悪いなぁ、おねーさんそんな答え聞きたいんじゃないんだ。
「救世主様は元の世界に戻りたいのですか?」
「そりゃ、もちろん」
「どうしてですか?」
「どうしてって、私にも生活があるから」
「それは救世主様になるよりもいいものですか?」
困惑しながら首を縦に振ると、少女はもっと困惑した。
「救世主様に選ばれるのは、住んでいた世界で居場所がない方々だと聞いています。今世は神が与えた最後の機会であると。戻っても帰る場所がないのに、どうして戻ろうとするのです?」
「……居場所がない?」
「はい。元いた場所で周囲に価値がないとされていたと聞いて……」
「……あんた」
全身が、粟立つかと思った。全身の血が沸騰するかと思った。
「あんた……それ、本気で言っているの?」
「え……違うの、ですか?」
「違うわよ! 少なくとも私はそうじゃない」
摑みかかる勢いで、少女に詰め寄る。
「私は、努力したの! 今の居場所を手に入れるために努力した! 学校で勉強して、大学にも行って、入社してからも努力して! 認められるようになって今があるの! それを、あんたたちが無に帰そうとしているの! 分かる!?」
「でも、神官長様がおっしゃるように、救世主様には今まで以上の名誉や幸せを」
「こんなの幸せじゃない!」
彼女の顔の隣を、拳で殴った――見えない壁を殴るかのように。ないはずなのにそこにあった壁は、打ったところから波紋を描く。
少女は、こちらを見上げる。ぽかんと、口を開いて。
「……幸せに生きていたのに、充実していたのに、それをいきなり奪われたら、あなた、どう思うの?」
静かに語りかけると、少女は、息を飲む。
「救世主だなんて寝惚けたこと言わないで。――そんなの、大工の息子しか知らないわよ」
少女から離れると、世界が暗転した。
ドアをノックする音が聴こえる。
瞼を開くと、部屋はすっかり暗くなっていた。蝶番を軋ませて開いた扉からは、憲兵が松明を持って現れる。部屋の蝋燭に火を灯し、一口も食していない食事と、こちらを交互に見比べて、食事のトレイに手を伸ばした。
「待って」
持って行こうとした憲兵を呼び止める。
「それ、毒は入ってないの?」
驚いた様子で憲兵はこちらを振り向くと、ありえない、と言いたげな様子で首を横に振った。
「この神殿の厨房で作られたものです。救世主様にお出しする食事に、毒を盛るような真似は決して――」
「自白剤、もしくはそれに類するものは?」
憲兵は首を横に振る。
「そこに置いておいて。後で食べます」
「ではスープが冷えていますので温め直しを」
「もういいわよ、そのままで」
憲兵は腹に手を当てて会釈すると、部屋を出て行った。部屋は再び暗くなり、外から錠を掛ける音がする。
ポケットからスマホを取り出し、ライトを付ける。テーブルに近づくと、用意されていたのはパンにスープ、カップに入った飲み物だった。スープの入った木のボウルを手に取り、少しだけ、口をつける。冷えてしまっているが、豚肉と野菜のスープだ。味におかしなところはない。
もう少しだけ、口を付けてスープを含むと、そのままテーブルを離れて窓へと向かった。鉄格子の根元へと口をつけ、含んでいたスープを吐き出す。吐き出したそれを指で触れ、上の方にも塗った。
これで、スープに含まれていた塩分を利用して錆びさせることが出来るだろう。口元のスープを手で拭う。
「……無価値だなんて言わせない」
こんな場所にいてたまるか。絶対に、逃げ出してやる。
2018年3月18日 最終修正完了