閑話 バレンタイン・イン・レンツラウ
※少し先の時間軸での話
スマホのカレンダーの日付を寝る前にぼんやりと見ていたときに、ふと、気づいてしまった。
2月14日。バレンタインの日が、あと一週間と近づいてきている。
現代にいた時には、学生時代には家族でお菓子を作ったり、友達と交換したり、好きな人に特別なものを作ったこともあるけれども、社会人になってからは仕事に追われて作るのが億劫で買うことが多かった。職場に配るのも、面倒で。誰かがまとめて買ったのに便乗することもしばしば。
今回は、どうしようか。
体を起こして、うーん……と考える。
お世話になってる人……皇帝陛下にあげるのはもちろんだが、宿屋のご夫婦にもおすそ分けしたい。
では何を作ろうか……クッキーは、作り方は分かるが分量を覚えていない。分量を覚えているもの……全部の分量が同量のパウンドケーキ、もしくはカトルカールがいいだろう。ここは中世のヨーロッパに近いのだから、流石にレシピはあるだろうし、簡単に作れるはずだ。明日、おかみさんに聞いてみよう。
そう決めて、再びベッドに横になって眠りにつく。
明日から大変になるだなんて、思ってもみずに……。
「パウンドケーキ?なんだいそりゃ」
「へ……?」
聞き返して来たおかみさんにぽかんと口を開ける。
「カトルカールは……」
「聞いたことないねぇ。どんなのだい?」
「こう、全部同じ分量で、四角くて中がふわっとしてるけれどしっとりとしていて」
「知らないねぇ。あんたの国のものかい?」
「いっ、いえ!異国のものと聞いてます!」
カトルカールはフランスのお菓子と聞いていたのだが……違ったのか?
「それがどうかしたのかい?」
「いやぁ、ちょっと……作ろうかなって……」
「お菓子を?あんたが?」
「はい。分量と作り方が分かれば作れます」
「へぇ〜」
食器を洗っていたおかみさんが手を止めてこちらを向く。
「お菓子の作り方なら、ひょっとしたらパン屋のおかみさんが知っているかもね。聞いてみな」
「はい!ありがとうございます!」
「作ったら私にも食べさせておくれよ」
「もちろんです!」
が、しかし。
「パウンドケーキ?そんなの知らないねぇ」
パン屋のおかみさんから出た言葉は、期待を裏切るものだった。
「こう、四角くて板みたいな形で、バターが入ってて焼いたら膨らむのですが」
「膨らむぅ?ケーキがぁ?」
「はい」
そんなものは見たことがないと言いたげな表情で、パン屋のおかみさんは腰に手をあてる。
「どうやってケーキが膨らむんだい?」
「ベーキンパウダー……とか、重曹とか……メレンゲとか……」
「どれも聞いたことないねぇ。そもそも、膨らむケーキだなんて見たことないよ」
「そんなぁ……」
がくりと肩を落として息を吐く。ベーキングパウダーや重曹は工業製品だからないのは知っていた。そもそも、膨らむケーキがないというのはどういうことなんだ……?まさか、まだケーキが発明されない?
「そのケーキがどうしたんだい?」
「……人への贈り物で作ろうかと」
「あんたがぁ?作れるの?」
「はい!」
「へぇ……ねぇ、本当にあんた、どこかのご令嬢じゃないの?」
「へ!?」
「ケーキが作れるのに、火を起こしたことがないなんて、ねぇ?みぃんな噂してるよぉ……ねっ、私にだけ本当のことを話してくれない?」
にぃんまりと笑って顔を寄せてくるおかみさんに必死に顔の前で手を横に振る。
「ち、違いますって!そんなことないです!」
「ふぅ〜ん……ま、竃を使いたいんだったら、言ってくれれば空けとくよ。ただし、お代はいただくけどね」
「あ、ありがとうございます!」
頑張りなさいよ、とパン屋のおかみさんは去り際に声をかけてくれる。
「ゴシップ好き以外は、いい人なんだけどなぁ」
「で、誰に贈るんだ?」
「わっ!」
突如として現れた陛下に肩を跳ねさせる。
「へ、陛下!いきなり現れたら駄目じゃないですか!」
「悪い。でも、ちゃんと裏通りから出て来たように見せたぜ」
「もう」
「それで?探しているケーキは誰にあげるんだ?」
「秘密ですよ。秘密」
「ふーん」
「陛下は知らないですか?そういうお菓子」
ふむ、と陛下は顎に手を当てる。
「膨らんだケーキは食べたことないな……パンじゃないのか」
「パンではないです」
「へぇ……」
「そもそも今って、お菓子あるのです?」
「あるに決まってるだろ。俺でも食べていたぜ」
「どんな?」
「……ガレットとか、クレープ。グーゲルホップフとか」
「グーゲル……?」
「中に干しぶどうとアーモンドが入ってる、王冠型のパンみたいなものだ」
「ほー」
しかし、パンか。今回作りたいのはケーキなのだから、作り方が全然違うだろう。はふ、とため息をついてからどうしようかと頬に手を当てる。
「どうするんだ?」
「……材料は分かっていますので、あとは作り方を考えてみます」
「おう。で、それは俺の分はあるのか?」
「あるに決まっているじゃないですか」
さて、パウンドケーキ、もしくはカトルカールと言う名前から材料の分量を考えてみよう。
パウンドケーキは材料が全て1ポンドづつ、カトルカールは4分の1が4つという意味だ。それから察するに、材料は4つでしかも同量である。使う材料は昔作った記憶から……小麦粉、バター、卵……あとは、なんだっけ?牛乳か?いや、水っぽい生地ではなかったから入れなかったはず。ええと……ベーキングパウダーで膨らませないから、卵白に砂糖を入れて泡立てたメレンゲを……そうだ。砂糖だ。4つめの材料は砂糖だった。
材料が分かったのは、次は作り方だ。メレンゲで膨らませるのだから泡が崩れないように後の方、それから粉をさっくりと混ぜるので粉が最後。卵黄とバターをどうするか……バターを練ってから卵黄入れるか?メレンゲ混ざりにくくない?ならばバターを溶かすか?しかしそうすると卵黄に熱が……
「何してるんだ?」
書いていたメモを手で隠して振り返る。暗い部屋の中を照らすのはスマホのライトのみ。私の後ろから覗き込んでくる陛下は、身長が高いせいもあってぬっとした大男に見えてしまう。
「陛下!まだ寝てなかったのですか!」
「それはこっちの台詞だ。お前がライトを使っているせいで俺が寝れない」
「す、すみません」
「……ま、いいけどよ。あんまり根詰めるなよー」
くわりと欠伸をしてから、陛下が消えてスマホへと戻る。ふぅ、と小さく息を吐いてから、メモに向き直る。気づいたら真っ黒になるくらいに書き込んだ、作り方の模索。無難にクッキーか、この国のお菓子にすればよかったかなぁ、なんて思うが、ここまで来たのなら今更だ。作る、私はパウンドケーキを作るんだ!
「おかみさん、泡立て器ってあります?」
「なんだい、そりゃ」
ぽかんとした顔、パート2。
「卵や液体を泡立てるもの……」
「スープを泡立てるのかい?」
「いやっ、いや……なんでも……ないです」
嘘だろ、ここでつまづくのかと店の裏で壁に持たれた。卵を泡立てるのなら他には……フォークが……。
思い出して頭を壁にぶつけた。この国、フォークがないのだ。あるのはスプーンで基本手づかみ。スパゲティを手づかみしているのを見た時には気が遠くなったな……はは……何か他に泡立てるもの……泡立て器……あの形状なら鉄の棒を買ってくるか……高いな。無理だ。火で炙って曲がるような竹もない。他に泡立てることが出来るもの……泡立てる。
「あ!」
ぽん、と手を打った。そうだ、茶道で使われる茶筅だ!あんな感じで箒っぽく作ればいい。よし、そうと決まったら実行だ!木の枝を集めて、加工しなければ!あと焼き型!木の板貼り合わせてやったらなんとかできないかな?これはパン屋さんに相談してみよう!メレンゲ?別立てするのが面倒だから共立てにしちゃえ!
こうして、道具の準備が全部出来たのが、バレンタイン前日だった。
「うー……」
「買い物なら付き合うぞ」
「ありがとうございます……」
ここ最近、睡眠時間を削ったせいで頭がよく回ってない。珈琲を摂取したいが、残念ながら珈琲豆がまだないのだ。ったく、この時代は物がなさすぎる。
「小麦粉に、バターは買えました……次は、卵………………」
高かった。卵が、高かった。まぁ、日本の戦国時代でも卵は貴重だったはずだ。確かに高いが、お祭り価格と思えばそうでもない。……年に一回だから、いっか。
「陛下、これ持ってください」
「おっと」
「最後は砂糖ですね。これで終了です」
が、店の前に着いた瞬間声が出てしまった。
「高っ!!」
店主がこちらを見たので思わず店の前から遠ざかる。高い。砂糖が高い。なんでや。なんで!?
「砂糖は高いぞ」
「どうしてですか?」
「胡椒と同じで輸入品だ」
「……なるほど」
確か胡椒少しで金と同じ価値があった……と聞いたことがあるような……
しかし、これは困った。卵ぐらいのちょっと高いぐらいならまだしも、これは非常に高い。今まで働いて貯めた給料の大半が飛んでいきそうだ。
「はぁ……」
「……サクマ、砂糖が絶対必要か?」
「入ります。必要です……」
「それなら、俺も少し出そうか?」
「え?」
目を瞬かせて隣の陛下を見る。
「お前と取り分けた、俺の取り分の金貨があるだろ。俺も食べたいから少し出そう。それで買えるだろう?」
……感動、しかけた。この人、なんて優しいのかと。光が見えかけたが、ふと我に返った。今回は、バレンタイン。贈るのは、こちら側だ。
「いえ、陛下。大丈夫です」
「いいのか?」
「はい。私も取ってる分がありますので、そちらを崩します」
「何かあった時のために取ってたんじゃ」
「大丈夫です!」
さらば、私の貯金。いいんだ。明日からまた稼ぐ。お金は使ってこと、経済を回すのだ!
「っしゃあああ!ミッション終了!今から帰って作ります!」
「おう。頑張れよ」
「はい」
……そして、迎えた当日。
いつもよりも早めに設定したアラームでスマホが振動したと同時に止めて体を起こす。そしてすぐさまベッドから出ると、布の包みを手に取って、一階へと駆け下りた。
まだ誰もいないキッチンに入ると布の包みをテーブルに置き、そうっと広げる。現れたのは、黄金色に輝く、四角いケーキ。右腕右肩が必死に混ぜた結果、かなりの筋肉痛だが、無事に膨らんでくれたようでよかった。取り出したナイフで端を切り落とし、味見にと自分の口に放り込む。うむ、きめ細やかさはあまりないが、ずっしりとしてしっとりとして、それでいてふわりとバターの香りが口に広がって、甘い。ひとまずは成功のようだ。
食べやすい大きさに切り分けて、パン屋のおかみさんの分、宿屋のご夫婦の分と分ける。カップ2つにそれぞれエールを注ぎ、それと布に包みなおしたケーキを大事に持って、再び自分の部屋へと上がった。
「陛下ー、持って来ましたー」
部屋に戻って声を掛けると、長持ちの上に腰掛けた陛下が目を丸くしてこちらを見る。
「妙に寝起きがいいかと思ったらこれか」
「えへへ。一緒に朝食にしません?」
「おう。でもサクマ、これ大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、多分」
「多分……って、お前な」
「ちゃんと焼きたてはふわふわになっていたので大丈夫です。生焼けも切ったら見当たりませんでしたし、もしも変なところがあったら私の胃に入れます」
……流石に、昨日作りながら「唸れ筋肉」とか呟いたり、「やっべ、分離した」とか焼けたと思って取り出したら生焼けの生地が溢れて来て慌てて元に戻したりしたのは悪いと思ったが……最後きちんと焼けていればそれで、いいのだ。
本当はよくないけれど。
部屋に備え付けられた簡素なテーブルにカップを2つ置き、布にくるんでいたケーキを広げた。
「おお、膨らんでる」
「でしょー。味はさっきつまみ食いしたから保証します」
椅子に座った陛下が、食前の祈りを始める。私は長持ちを引き寄せて腰掛けて、無宗教の私は陛下の祈りを両手を合わせて待ち、終わったのを見計らって「いただきます」と挨拶をした。
黄金色のケーキをひとつ手に取ると、陛下はそれを口へと運ぶ。
「お味はどうですか?」
「……うん、美味い!」
「本当に?」
「ああ」
「甘いの大丈夫です?」
「大丈夫だ。でも、正直に言っていいか?」
「……どうぞ」
どうした?失敗したのか?それとも口に合わなかったのか?
「こんなに甘いものは初めて食べた……」
「……ジャムとか果物のソースとか」
「あるにはあったが、こんなにたくさん砂糖入ったものはないぞ。あの買った砂糖全部入れたんだろ?」
「はい。入れました」
びっくりした顔で、陛下がしげしげとケーキを見つめている。そして私の方を見た。
「せっかく作ったのに、俺がもらっていいのか?」
「いいんですよ。陛下のために作ったものですし」
そう言ってもう一つ、ケーキを手に取って口に運ぶ。うむ、美味しい。でも2個で充分かな?カロリーが心配だ。
「俺に?」
「はい」
「じゃあ何でお前も食べているんだ?」
「私だって食べたいからですよ。でなければ作ったりしません」
「お前……本当食い意地が張っているな」
「食べることを楽しむことは、良いことですよ」
「それもそうか」
ふっと笑って、陛下はケーキを口にする。うん、美味いと呟いて満足そうだ。
「ところで、今日は特別な日なのか?」
「はい。バレンタインと言いまして、聖ヴァレンティヌスが殉教したことにあやかって……えっと、恋人とかお世話になっている人に贈り物をする日なんです」
「……こっちのものか。聞いたことないぞ」
「まだないのか。歴史が浅いのかな?」
「サクマの国だけか?」
「いいえ。世界中に広まってますよ。発祥がキリスト教圏ですし」
「へぇ……忌み日も数百年あれば変わるんだな」
「……忌み日?」
口に入れようとした手を止めて、聞き返す。
「今日はユダの誕生日だぞ」
びしりと、固まった。キリスト教でユダって聞くと……あれしかない、よね……?
「……イスカリオテの」
「そうだ」
大変、申し訳ありませんでしたとその場で土下座したのは、言うまでもなかった。
※パウンドケーキのレシピが出てくるのは18世紀
※泡立て器の登場はルネサンス期。その頃になってようやく卵で膨らませたり、バターで膨らませる技法が生まれた
※グーゲルホップフ=クグロフ。新約聖書に似たような菓子が書かれているので、中世にもその原型はあったのではないかと推測します
※バレンタインが始まったのは14世紀から。ルドルフ1世は13世紀の方なので知らない……はず