10. 佐久間、ショックを受ける。
※食事中の閲覧はお控えなすって
「何かおかしいか?」
陛下の言葉に、私はその場に崩れ落ちた。あれが……普通? おまるが普通なの? 部屋の真ん中にぽんと置かれていて、中に前の人の残滓があるのが?
「………………」
「サクマ?」
「……無理」
「は?」
「もう無理。折れた。ぽきっと折れた。やっていけない」
「やっていけないって……お前な。どこでも一緒だぞ」
「そのどこでもってのが無理なんですよ! なんで入れ物なのですか!?」
「なんでって言われてもな……その方が捨てる時に便利だろ?」
「捨てる……」
「ああ」
「どこに?」
「……外に」
「どうやって?」
「窓から」
「窓から?」
「ああ、窓から」
「窓から!? 窓からぽいっと!?」
「そうだ」
今度は違う意味で天を仰いで顔を覆った。精神の限界を迎えて肩を震わせる。
「窓の先には一体何が……」
「何がって、排水溝か道か」
「道」
「……ああ」
「道に、直接」
「そうだな」
ありえない。不衛生すぎる。価値観どうなっているの?
「無理……ありえない……何で……」
「神殿はどうだったんだ?」
「下に落とすタイプのものでした」
「ああ、あれか。あれはいいのか」
「辛うじて我慢していました……水洗式が一番です……」
「贅沢だな」
「私の国ではそれが一般的なんです……」
顔を覆ったまま下を向いて動けなくなっていると、陛下が横に来て座った。
「我慢するしかないぞ」
「……無理」
「ここだけではなくどこでも一緒だ」
「早く帰りたい……」
「帰る方法探すためには色んな場所にいかないといけないだろ? ここで慣れておかないと大変だぞ。それとも外でするか?」
「………………」
無言で首を横に振る。
「なら腹を括れ」
「うげぇ……」
「ほら、サクマ」
「………………」
「行ってこい」
「………………」
世の中は無慈悲で、残酷だ。
ふらりと立ち上がって部屋を出て、目的の場所へと向かう。その後のことは、話すことを割愛させてほしい。口にもしたくないし全力で体が拒否をするのだ。
用を済ませて部屋に戻ると、そのままベッドに潜り込んで眼鏡を外し、頭から布団を被った。べっきりと心が折れてしまった。屈辱だ。
もしも、私が望んであの行き届いた衛生的な国を出て、そうではない国に出向いたのであれば、受け入れられたのかもしれない。事前に情報だって得ることが出来て、心構えだって出来た。だけど、そうではない。私は望んで、ここに来たわけではない。
「……サクマ?」
スマホから声が聞こえてくる。返事が出来ない代わりに布団を被り直す。ぐすりと鼻を啜った。
「サクマ」
ベッドの隣に、人の気配がする。何も話せずにいると、肩に手が乗った。それがゆっくりと、拍子を打つ。陛下は、何も話さない。言わない。
「……なんで、なんであれで平気なんですか」
少しだけ、回復した。布団の端を少しめくって顔を出し、陛下に声を掛ける。陛下はベッドのすぐ側に屈んでこちらを見ていた。
「なんでって、あれで慣れているからだ」
「……不衛生じゃないですか」
「そうだな。でも昔からああだぞ」
……そういえば聞いたことがある。昔パリの街は捨てられた汚物で汚れていたと。それらを避けるためにハイヒールが生まれた、と。下水よりも上水が先に整備されたとも聞いた。
「でも、表の通りは綺麗でしたよ?」
「それが不思議なんだよな……行商人が来ていたから掃除されていたのかもしれないが、もっと汚れて掃除をするための豚や羊が歩いていてもおかしくない。馬が通るから馬糞だって落ちていることもあるんだ」
「まじで……ああ、でも……ああ、あれか」
心当たりがあった。少し前に観た映画で主人公が中世のそれらしい場所で生まれていた。
――ひどく不衛生で、不潔だったことが記憶に残っている。
「知っていたのか?」
「記録媒体で見たことがありました……水洗式は? 古代ローマにはあったと聞いていますが」
「滅多にない。あっても城の中から下の堀に落とすものがあるくらいか」
「落としたものはどうするのです?」
「そのままだ」
「……悪臭ひどそう」
「ああ。でも水の中に落とすから地上にあるより気にならない。しかも、敵が襲って来た時に役立つ。堀が汚物まみれだから敵が入ってこれないんだ」
「……そっか。そういう意味では実用的なんですね」
ふと、知識の一部が引っ張り出された。汚物が……糞尿が蓄積されるのであれば、もしかして。
「硝石は取ったりしないのですか?」
「硝石?」
「硫黄と合わせて火薬の原料になるのです。戦争で使わないのですか?」
「滅多に使わないが」
「なんでです?」
「……何故?」
互いに首を傾げたが、しまったと思い視線を逸らして口に手を当てた。私の知っている限りで火薬が戦闘で使われたのは、元寇の時だ。しい年代は忘れているが、陛下がそれよりも前の生まれ、もしくはまだヨーロッパには伝わっていなかったのなら知らないはずだ。
「火薬は東の民族が使うと聞いたことがある。異教の民の国よりもさらに東だ。サクマの国でも戦争に使うのか」
「……いや、もう私の国は戦争を放棄しているので戦うことはまずないですが、兵器ならもっとすごいのとかえげつないのとか……」
「例えば?」
「……国ひとつ滅ぼせるもの、とか……」
「……は?」
「いや、あれは原理が違うので火薬ではないか。あまりに強すぎるので使わないよう、各国で条約を結んでいます。私の国では持たず、作らず、持ち込ませず、を原則にしています。あれを使ったら焼け野原どころでは済みませんから」
「規模が大きすぎてよく分からないな。兵器ひとつでそうなるのか?」
「兵器ひとつで、ですよ」
「まるで神話の世界だな。そんなものが実在するのか」
「実在するんです。……嫌な話ですが」
「作ったのか? 人間が?」
「はい、確かに人間が。……ボタン一つ押すだけで街一つを全て破壊。多くの人を焼き殺し、多くの人に火傷を負わせ、それでも生き残った人を病で苦しめる、そんな兵器を作ったのです」
「………………」
「ただ、過去の大戦で使われてからは二度と使われないように私の国も動いています。あんなのが頻繁に使われるようになったらこの世の終わり」
「サクマ」
陛下の声色が、変わった。暗闇で表情は分からない。しかし、先ほどまでの優しく柔らかな様子は消えて、堅い。怖い。
「それ以上は話すな」
「……はい」
「それと、俺以外の奴に何を聞かれても今のことは話すな。いいな?」
「はい……かしこまりました」
申し訳がなかったと、息を吐き出す。
「すみません。あまり気分のいい話ではなかったですね。以後気をつけます」
「明日も早いんだ。もう寝ろ。おやすみ、サクマ」
「……おやすみなさい、陛下」
静かに、目を閉じる。もう一度開いた時には、陛下の姿はなかった。スマホの中に戻ったのだろう。
「……寒くないですか?」
ぽつりと聞いた言葉には、「いや、大丈夫だ」と返事があった。
* * * * *
非常に大変で面倒なことになったと、ルドルフ・フォン・ハプスブルクは思った。それは彼女に召喚されたことに対してではない。死んだ彼が生き返ったことでもない。彼女の逃走に付き合うことになったことでもない。
――それは、彼女自身に対してだった。
ルドルフが生きていた時よりも遥かに先の人間であることは聞いていた。だから価値観が違うことにも、ルドルフが知っている女性よりも自由で知識があることも、社会に変化が起きた結果なのだろうと推測できる。
ただ、その価値観が厄介であることにたった今気付かされた。
兵器一つで、国を破壊することが出来ると、彼女はこともなく言ってのけた。一瞬で焼け野原にして、数多くの人間を殺す兵器があると。
ルドルフ・フォン・ハプスブルクの生きていた時代には、そんな兵器はなかった。ルドルフも行なっていた戦争は、言わば経済戦争であった。兵を出し、領主自ら戦地へ赴き、馬を駆り剣を振るって戦う。それは人を殺すためではなく、領地を獲得するのが主な目的であった。
……昔、ルドルフが皇帝に選ばれたことを認めなかった王と戦ったことがあるが、それは別の話だ。
もしも、もしも彼女の言う火薬が戦争に使われるところを想像してみる。多くの兵が死ぬだろう。敵を全て惨殺することだって可能かもしれない。それは騎士と騎士との誇りある戦いではない。それは、まるで――
侵略。何もかもを破壊して、奪うことが出来る。
彼女の愛用している道具、スマホの中は快適なはずなのに、寒気を感じてルドルフは腕を摩った。なるほど、彼女が『救世主』と呼ばれていたのは言い得て妙だ。彼女はこの世界のこの時代にない技術の知識を得ている。そして価値観も。それらは全て革新的だ。下手をすれば技術や文化の進歩を数百年早めることが出来るだろう。……彼女が、その鍵を握っている。
しかし、彼女は自身を『救世主』だと認めていない。むしろ無理やり連れてこられたことに嫌悪感を抱いている。これが幸運なのは、彼女が救世主の役割を放棄することで革新はしばらく行われないこと。正義感の強い彼女のことだ。きっと権力に逆らい大勢のことを考えるかもしれないが、権力者がそれを放っておくわけがない。――不運なのは、彼女を絶対、あの神殿の連中が逃したままにするはずがないことだ。
ルドルフが面倒で厄介だと感じるのはそこだった。昨夜から今朝にかけての移動で遠くへ行くための余裕はまだあるはず。しかし、神殿の連中は彼女を取り戻すために必死で追いかけてくるはずだ。――この国を救ってほしいと、あの神官長は言った。と言うことは神殿という宗教だけではなく、国家まで絡んでくる可能性がある。彼女は情報を得るために首都を目指すつもりだが、神殿側からの呼びかけに領主や王まで彼女を追うかもしれない。情報を得るのも、一苦労だ。一度国外に出るのもひとつの手だろう。
しかし、ここまで考えていると疑問が湧き上がってくる。
それは彼女が召喚士の力を得て、それを神殿側が要求していることだった。技術的な革新、時代の変化を求めるのなら彼女だけでいい。ルドルフはいらない。だが、現に神殿側は彼女に英雄を召喚することを求め、彼女とともにこの世界に来ていたルドルフは彼女によって召喚された。自分たちの世界の英雄ではなく、異なる世界の英雄に力を求める。これについてもルドルフは理解が出来ない。英雄とは、時代に名を残し、世界に変革をもたらした人物だ。かつて仕えたローマ帝国皇帝でシチリア、イタリア、ローマ、さらにはエルサレムの王となったフリードリヒ二世がそれに当たる。ならば、直接英雄を召喚すればいい話であり、彼よりも名を残せなかったルドルフの出る幕ではない。
革新を求めるのであれば、未来の異国の人間である彼女にすがればいい。彼女を取り成し、上機嫌にさせ、未来のことを喋らせればいい。過去の人間であるルドルフを召喚する必要もない。
彼らは一体、何を求めているのだろうか。
外で衣摺れの音がした。耳を澄ませて様子を探る。どうやら彼女は寝たようだ。まとまらない頭のまま、ルドルフは再び、外へと姿を現した。それが彼女の負担になるのは分かっているのだが、ほんの少しだけ、休む前に彼女の姿をよく見ようと思ったのだ。
まだ火を灯したままの蝋燭の小さな明かりに照らされる、異邦人の彼女。普段顔に掛けている硝子を取ると、あどけなく幼い容姿をしている。中で聞いていた限りでは気が強く、芯がある女傑かと思っていたのだが、実際の彼女はかなり華奢だったので拍子抜けした。
だが、彼女の真っ直ぐに見つめるその眼差しも、抗い貫こうとする姿勢も、悪いものではないとルドルフは思っている。
「……どうしました?」
どうやら、眠りが浅かったらしい。寝返りを打った彼女が薄目でルドルフを見つめる。
「いいや、何でもない。少し考え事をしていた」
「人の顔を見ながら?」
声がはっきりとしている。寝たのではなく、起きていたようだ。そういえば、塔に閉じ込められていた時も寝付くのが遅く、加えて眠りが浅かった。何度か寝て起きてを繰り返していたのをスマホの中から感じていた。その分、朝起きるのが非常に苦手のようだったが。
「悪かったか?」
「何も解決しませんよ。話なら聞きましょうか?」
黒色の瞳がこちらを見つめる。――彼女はルドルフのことを「人が良すぎる」と言ったが、そういう彼女こそ、人が良すぎることに気づいているのだろうか。
「いや、そこまで重たいものでもないし、疲れているのに無理はさせられない。寝ている時にこうして出てくるのもだめか?」
「別に、それは構いませんよ。何だったら下でお酒飲んで来ても問題ありません」
「そうか。今日は気分ではないからやめておくが、飲みたくなったら行ってくる」
「ご自由に」
くわりと、彼女は欠伸をしてから掛け布団に包まる。
「明日は何時起きです?」
「一時課。三回目の鐘が鳴る頃だ」
ああ、あの時間帯かと彼女は首を縦に振っている。
「起きられなかったら起こしてもらってもいいですか」
「ああ、いいぞ」
「ありがとうございます。……おやすみなさい、良い夢を」
「……ああ、良い夢を」
そう返して、ルドルフは再びスマホの中へと戻った。
これから先のことは、どうなるのかルドルフにも分からない。不安も不確定も多いけれど、彼女とならなんとかなりそうな気持ちにもなる。
明日のことは明日考えよう。そう結論づけて、ルドルフは体を休めた。
本当は排水溝は表通りにあったらしいのですが、諸事情で裏に配置しています。その辺の理由はまた後ほど