第四.五夜/決意とその後
6月14日(金)
「すぅ~、はぁ~~」
ベッドの上で深呼吸をして、閉じていた目を開く。
心乃香の目に、電灯に照らされた茶色い箱の姿が映った。
『自分を――心乃香ちゃん自身を信じてあげてください』
夕方に聞いた優しい声が脳内に再生される。
昨日予約した通りに、心乃香は先生のもとを訪れた。
大体の事情を察していたのだろう、先生は心乃香の話を聞いても取り乱した様子は見せなかった。
診察もそれほど時間を取ることはなかった。心乃香の心がほとんど固まっていたことも理由の一つだっただろうか。
心乃香は一昨日と同じようにゆっくりと茶色い箱を開ける。
ドクンと心臓がひときわ大きく拍動する。
胸の高鳴りが止まらないのも一昨日と同様だ。
違っていたのは、覚悟。
心乃香はこれを使うことでの記憶が消えたことを覚えている。しかし、それでも使おうと自分の意志で決めたのだ。
「……よしっ」
自分を鼓舞するように呟き、中身を取り出して準備を始める。
とはいってもやることは簡単だ。空いた箱を邪魔にならないように片づけ、二つ一組の機械をそれぞれ後頭部と腕にセッティングするだけ。
手順を手早く済ませ、心乃香は机の上のぬいぐるみを枕元に持ってこようとして……やめた。
そのまま部屋の明かりを消し、ベッドの中へ入る。
――今日はいい夢が見られますように。
心乃香はふわりとどこかへ沈んでいくような感覚とともに眠りへと落ちていった。
◇
6月15日(土)
――気付いたときには、私は碧い揺らめきの中をたゆたっていた。
今日の水面は静かに凪いでいる。そこには細波さえも立っておらず、空から降り注ぐ光が誰にも邪魔されずにここまで届く。
その光にいざなわれるように私の意識は水面へと浮上していった。
カーテンの隙間から差し込む一筋の光が、未だ寝ぼけ眼な心乃香の頬を撫でる。
「うぁ……」
朝の光を受けて徐々にまどろみから解けていく。
同時に、心乃香の頭の中にかすかに残る柔らかい記憶の残滓も彼方へと消えていった。
「…………っ!」
違和感に気づいた心乃香は、左手を頭の後ろに持っていきかけて……やめた。
――もう、分かっているはず。
私の記憶は昨日眠りについた時点で終わっている。眠っている間のことは何も覚えていない。つまり、それが真実。
「また……」
忘れてしまった。
心乃香は一昨日と同じように窓に向かって歩いて、今度はカーテンを思いっきり開いた。心乃香の目に飛び込んできたのはやっぱり青空で、でも、それはあの時みたいに雲一つない嘘っぽい青空とは違って、ちぎれた入道雲の一片が蒼い空に漂っていた。
同じ空でも、今日の青空はなんだか爽やかで眺めているのも悪くない、そんな気がする。
今は、記憶は無くしてしまっても、穏やかな気持ちでいられる。
それが、嬉しくて。
心乃香は頬を緩ませながら朝の支度に取りかかった。
準備を終えた心乃香はいつも通りに家を出る。
いつも通りの時間、いつも通りの通学路。そして、そこにはいつも通り、さくらが待っていた。
「おはよう!」
一昨日と同じ曲がり角にいるさくらに、今度は心乃香から声をかける。
さくらはビクリと体を震わせてこちらに振り向いた。
「うん、おはよう、心乃香。なんか……やたらと元気?」
「そ、そうかな?」
「絶対そうだよ。ねえ、何があったの?」
「いや、何も」
本当に何もなかった。心乃香の身に起こったことは一昨日と何も変わらない。
もし、何か変わったとすれば、それは心乃香自身の変化に他ならない。
「もしかして……突然何かに目覚めたとか!?」
さくらは何やら一人で慌てはじめる。
「なに勝手な妄想広げてるんですか!」
――まったくもう。こういうそそっかしいところだけはなんとかしてほしいと思う。本当に。
ブツブツと何かを呟いて心ここに在らずな様子のさくら。その後ろには斜面に広がる住宅地があって、さらにその後ろに青空があって、そこに白い雲が重なっている。
「……いや、でもこのかがそっちの趣味に目覚めたとしてもそれはそれで……」
――私は一つだけ聞きたかったことを、さくらに、私の親友に問いかける。
「ねえ、さくら」
「ん? 何、心乃香?」
「昨日の……向こうにいるときの私、――楽しそうだった?」
心乃香の言葉に、さっきとは比べ物にならないくらい驚くさくら。
心乃香の親友は、一秒にも満たない一瞬の沈黙の後で、
「――もちろん!!」
と、そう満面の笑みで答えてくれた。
◆◇◆
前話と今話は大変短くなっていますので、今日中にもう一話投稿予定です。