第三夜/忘却
6月13日(木)
ふわりとした浮遊感が体を包む。
いつもの覚醒の感覚と共に、心乃香は夢うつつのまどろみから目を覚ます。
枕元の時計を確認すると時刻は六時前。まだ起きるには少し早い。
ふと、頭に違和感を覚え、心乃香は半ば無意識に後頭部を触る。
指先からは髪でも皮膚でもない硬質な感触が返ってきた。
心乃香はその硬質な何かを頭からひっぺがし、自身の目の前に持ってくる。
目に入る「VDコネクト」と「Another dream」の文字。
――そうだ。私は昨日の夜、生まれて初めてのVDゲームをすごく楽しみにしてて……いくら私が忘れっぽいからってそんな大事なことを……忘れる……なんて……。
…………。
心乃香はもう一度手に握っているものを確認した。
そこにあるのはまごうことなき昨日のVD機。これはきちんと覚えている。何もおかしな点はない。
……それなのに。
――それなのに、どうして私は昨夜の『夢』を全く覚えていない?
VDは夢を操る技術。
そこには仮想夢の記憶の保持も含まれている。当然だ。プレイ中の記憶を忘れてしまうゲームにお金など払えない。
今起こっていることは、決してあってはならないことのはず。少なくとも、普通ではない。
途端に恐怖が心乃香を支配した。
ピンクの掛け布団を引っ掴み、額のところまでかぶってベッドに丸まる。
暗い布団の中に引きこもっても、嫌な想像は心乃香の頭から出ていってはくれなかった。
突然記憶が途切れて、気付いた時にはその間にあったことを全て忘れている。
心乃香の『発作』の症状。
それはあまりにも今の状況そのままで。
『ですから、心乃香ちゃんにVD機を使わせてはいけない』
先生にかけられた言葉が脳内を巡った。
……中学生になってからは発作なんてほとんど無かったのに。
なのに、どうして、よりにもよって今なのか。
心乃香は手足を縮めた亀のように布団から頭を出した。
彼女の目に映るのは、毎日目にしている天井の木目。顔を左側に倒せばピンクのシロクマのぬいぐるみが置かれた木製の机、その奥にはクリーム色のカーテンのかかった窓。
全ていつもと何一つ変わらない心乃香の部屋。
まるで心乃香一人だけがどこかに取り残されてしまったかのような、孤独。
心乃香はベッドから立ち上がってこの部屋唯一の窓に歩み寄り、かかっていたカーテンを半分だけ開け放った。
途端に、朝の光が彼女の部屋の半分を明るく染めあげた。
目に飛び込んできた空には、昨日の雨が嘘だったかのように雲一つない。
歌う小鳥の幻聴さえ聞こえてきそうなほどの、平穏な朝。
それが心乃香にはなぜだかひどく空々しくて、寒々しくて。
ふらつきそうになる足元をなんとかこらえて、心乃香はその場に立ち尽くした。
今の彼女には、高く、高く澄んだ青空をただ見つめることしかできなかった。
◇
「おはよう。あら、どうしたの心乃香? なんだか元気がないわよ?」
心乃香が一階に降りてすぐ、台所で朝ご飯とお弁当の準備をしていた母親から声をかけられた。
「……何でもないよ」
彼女の心臓の外側を冷や汗が伝う。
普段はあまり読まない新聞を手に取り、自身の顔を覆い隠すように広げる。当然、内容なんてこれっぽっちも頭に入ってはこない。
「ふうん……」
新聞の向こうから母親が訝しむようなつぶやきを漏らす。
「……まあいいわ。でも、何か辛いことがあったらすぐに言うのよ?」
なんとか誤魔化せたことに心の内で安堵のため息を漏らすと同時に、優しい言葉に胸の奥がチクリと痛む。
――でも、今はこうするしか……。
今の心乃香は嘘をつき、騙していないとここに立つことさえも出来なかったのだ。周囲にも、自分自身に対しても。
ほどなくして、母が二人分のお皿を持って食卓につく。
「……いただきます」
心乃香はできるだけ母と目を合わせないように朝食に手をつけた。
今日のメニューは、ちくわとさやえんどうの炒め物と焼いた厚揚げ、それと白いご飯に牛乳。
和風の朝食に牛乳があるのは、母親のこだわりだった。
心乃香も不思議と嫌いではなく、毎日の習慣となっていた。
「……ごちそうさま」
会話もないままただ黙々と朝食を食べ続ける。
食べ終わりも心乃香の方が早く、母にまた何か言われる前に足早にリビングから立ち去った。
朝ごはんの後も心乃香は急いで身支度を済ませていった。
多少身支度には時間がかかるとは言っても、全力で急げば、それも二十分少々で終わる。
彼女には出発を急ぐ理由があった。
最後に忘れ物が残っていないか確認しようと、入り口から自分の部屋を見回す。
雑然とした様子もなく、歳の割にこざっぱりとした部屋。
だからこそ余計に目につく。
机の端、ちょうど日の当たらない影に置いてある茶色い箱。
あの中に入っているのはVD機。昨日取り出した中身も全て詰め直してある。
箱から落ちる濃い影が立ち上がり自分に襲い掛かってくる。そんな妄想が頭をよぎった。
心乃香は暗い影の中に佇む夢の残骸を直視できずに目を逸らし、扉を閉めた。
「あら、もう出るの? いつもより早いじゃない。何か用事?」
部屋を後にした心乃香は、階段で洗濯物を抱えた母親とすれ違う。
「いや、そういうわけじゃないけど……今日はちょっとそういう気分なの」
その言葉を聞いて、明らかに不審そうな表情を浮かべるお母さん。
「……待って、心乃香!」
「そういうわけで行ってきますっ」
心乃香は階段を駆け下りてそのままダッシュで正面の玄関へと向かい、逃げるように家を後にする。
いつもの登校時間より三十分近くも早い出発。
母親と顔を合わせたくないというのもあったが、それ以上に、毎朝先に待っているさくらを避けるためというところが大きかった。
示し合わせているわけでもないのに毎朝通学路で顔を合わせるということは、さくらがいつもの心乃香の登校時間にあわせて家を出ているということ。逆に言うと、心乃香が家を出る時間をずらせば、朝にさくらと会う可能性はほとんどない。
無論、いつもならそんなことをする必要は全くないし、する気もなかった。
だが、今日は別。今日はさくらに合わせる顔がない。
せっかくの誕生日プレゼントだったのに……。さくらになんて言ったら……。
心乃香は他の人に嘘をつくのも、外面を取り繕うのも得意ではなかった。
もし、嘘をついてこの場を切り抜けられたとしても、さくら自身がオススメと言っていた以上、このゲームをプレイしていることは想像に難くない。そう遠くないうちにバレてしまうだろう。
「心の問題の八割は時間が解決してくれる」彼女がこれまでの短い人生で学んだことの一つだ。
とにかく、今は時間が欲しかった。
自分の頭の中を整理して鎮めて……そして忘れるための時間が。
「やっほー、このか。……待ちくたびれちゃったよ」
学校へと向かう最初の三叉路。
頭を空っぽにして歩いていたせいか、心乃香は角に潜む人影に気付けなかった。
完全な背後からの不意討ち。
突然背後から聞こえた声に振り向いた心乃香の前には、青い空と白い塀に背中を預けて微笑むさくらの姿があった。
「何で……」
今、最も会いたくなかった人物との遭遇に、今度こそ心乃香の思考は完全にフリーズする。
驚愕で体までもが硬直し、どうにか紡げた言葉も短い短いたった3つの音だけ。
「あたしも偶然通りかかっただけ。ってのはダメかな?」
――嘘だ。
ほとんど頭が働いていない心乃香でもそれはわかった。
もしかすると、はなから隠す気などなかったのかもしれない。
――人を死ぬほど驚かせておいて、笑えないジョークを吐くなんて……。
心乃香はジトっとした目でさくらを見つめ返す。
しかし、そのよくわからないジョークのおかげで、彼女の頭にも少しだけ思考力も戻ってきた。
「そんな顔しないでよ~。そうね、なんだか今日は心乃香も早くに出てきそうな気がしたの」
「……どういうことですか?」
「よーするに勘よ、勘。そんな気がしたってだけ」
――怪しい。
塀に背中を預けていたということは、すなわち心乃香が来るまで待っていたということに他ならない。
ただの勘でこんなに早くから待ち伏せしているというのは流石に不自然。このはぐらかし方といい、何か他に理由があるのだろうか。
さくらは依然として曖昧な笑みを浮かべていた。
しかし、どうやら教えてくれる気は無いらしいことは明らかだ。
「そんなことより、昨日の晩使ってくれた? あたしの誕生日プレゼント」
「……っ!!」
唐突に発せられたさくらの問い。鋭い言葉が心乃香の胸のちょうど真ん中に突き刺さる。
衝撃に足元はふらつき、視界が揺れます。
不安定な視界の向こうで、不敵に、無邪気に、それでいて――試すように、さくらが笑っている。
「……まあ、その答えは聞かなくても知ってるんだけどね」
答えに窮する心乃香の代わりに、さくら自身が言葉を続ける。
心乃香の心臓は痛いほどに冷たく高鳴り、今にも破裂してしまいそうで。体からは、まるでその話を聞くことを拒んでいるかのようにどっと冷や汗が吹き出してくる。
それでも、時間は待ってはくれなくて。
長くて短い一瞬の後に、言葉の続きがさくらの口から紡がれます。
「だってあたし、見たんだもん。このかを。――夢の中で、ね」
◇