第二夜/夢見る箱
短いようで長かった昼休みと、睡魔に敗北したクラスメイトの屍が大量に発生する5時間目が終わり、今は再び休み時間。
残り一時間で放課後ということもあって、先の授業で机に倒れ伏していた人たちの間にもにわかに活気が戻ってきているように見えた。
一方、心乃香はというと、授業の復習もそこそこに通学用の鞄に荷物を詰めていた。
やっかみ半分、冗談半分でからかってくるクラスメイトに苦笑を返しながら、心乃香は荷物をまとめて自分の席を立った。
「あ、心乃香ちゃん」
そしていつも通りに一人教室の入口に歩きだそうと足を一歩踏み出した時、四人で窓際の机を囲んで話していたクラスメイトのうちの一人が駆け寄って声をかけてきた。
「今度の日曜日の晩にね、流星群が見えるらしいの。だからね、みんなで星を見に行こうって話してたんだけど……心乃香ちゃんもどうかな?」
そのクラスメイトの女の子は伏し目がちに心乃香の反応をうかがっている。
……夜、か。
「……ごめんなさい。『暗くなったら家を出るな!』ってお父さんが厳しくて。本当にすいません……せっかく誘ってもらったのに」
「う、ううん! いいよいいよ。こっちこそ無理言っちゃってごめんね」
女の子はそう言って窓際の机の方へ戻っていく。
……嘘ついてごめんなさい。
心乃香は心の中で去りゆく背中にもう一度謝りながら2-9のプレートがかかった教室を後にする。
今日は6月の第二木曜日。月に一度の、先生のところに行くことになっている日だった。
午前中降っていたはずの雨も止み、見送りも、隣を歩く友人もなく、独りで通学路を歩く。すれ違うのも買い物帰りのおばさんとランドセルを背負った小学生だけ。
心乃香は朝通った時とは別の道を通り、少しだけ学校から離れたバス停からバスに乗る。
バスの中はがらんとしていて、乗っているのは心乃香の他には年配の方が幾人かだけ。
心乃香は二人掛けの座席、その窓際寄りに座った。
窓の外には気だるげなまどろみに包まれた街の景色が流れていく。
「今日は早退する日でしょ? VDの話、一応先生にもしてみたらいいんじゃない?」
「えっ?」
「……このかがまだ不安なんだったら、ね。それじゃ、また明日!」
昼休みの終わり、予鈴が鳴って自分の教室に戻る間際にさくらが言い残した言葉が頭の中を巡る。
……やっぱり、かなわないな。
その言葉を思い出して、心乃香はそうひとりごちた。
親友からの贈り物。それを受け取ることができたからといって、彼女の中からわだかまりが全て消えたわけではない。
未だに頭の中には迷いがもやのようにかかり、鞄に眠る夢への切符はずっしりとした重みを返してくる。
……先生に相談する。
心乃香が『先生』と慕う人物。
担当の医師として真摯に向き合い、発作を止め、病状を回復させてくれた人。
でも、心乃香がVDに背を向ける原因になったのも、また、先生だったのも事実。
やはり、どうしても心のどこかがモヤモヤをしてしまう。
が、その選択肢はきっと妥当なんだとも思える。
「次~鷲尾医院前。鷲尾医院前~」
考え事をしている間に、いつの間にか目的地に着いていたらしい。
急いで窓枠に取り付けられているボタンに指を掛け、停車したバスから降車する。
向かいから歩いてきた眠たげな男性が横を通り過ぎていく。 このバス停から目的地までは本当に目と鼻の先。 心乃香はすぐに目的地の白い建物の元へとたどり着いた。
入口横の看板には「鷲尾医院」の文字とともに受付の電話番号、住所と各曜日別の診療受付時間が書かれている。
その看板の診療時間欄、水曜日午後の欄に大きく斜線が引かれている。
しかし、この水曜午後休診の表示が事実ではないことを心乃香は知っていた。
入り口の扉を叩き、中へと入る。鍵はかかっていない。片付けをしていた看護婦さんと一言挨拶を交わし、そのまま奥へと進んだ。
再び扉が現れる。仄かに温かみを感じるクリーム色の扉。バリアフリー精神溢れるその扉は安心感さえ感じる見た目に反して、とても軽い。
……うん。やっぱり先生に相談するのが一番良い……よね。
彼女はこの期に及んで迷っていた。
本来、力などまるで不要なはずの扉は、彼女自身の悩みの分だけ重みを増していた。
「どうぞ」
不意に中から声が聞こえる。
あんまりにも驚いて、気づけば驚いた拍子に扉が少し横にずれていた。
それがきっかけとなったのだろう。心乃香は息を深く吸い込み、診察室へと入っていった。
「こんにちは。心乃香さん」
これまでに何度も聞いた柔らかい声が心乃香の鼓膜を揺らす。
「先生、こんにちは」
「元気でしたか? この時期は体を壊しやすいですから気を付けてくださいね」
「大丈夫です。とっても元気な友達から、毎日ちょっとずつ元気を分けてもらってますから。……いや、もしかしたら押し付けられてるのかも」
「ははは、さくらさんは元気ですからね。それで大丈夫でしたか? 発作の方は」
「はい、そっちも大丈夫です。ちゃんと毎日日記もつけてます。でも、気づいてないだけで本当は少しくらいあるのかも」
「いえいえ、大丈夫ですよ。自信を持ってください。人間は忘れる生き物なんですから。一日の出来事をすべて覚えておくなんてことは誰にもできません。それが『正常』ですよ」
診察はきっかり一時間。それが自然と決まっていたルールだった。
名目上はカウセンリングということになっているものの、彼女がほとんど発作を起こさなくなってからは簡単な問診と世間話がほとんどとなっている。他には常備薬の更新時期に薬をもらったりする程度で、やはり代わり映えはしない。
「……一つ、相談があるんですが」
「はい? なんでしょう?」
「その……さくらから誕生日プレゼントだ、ってVDゲーム機をもらったんです」
「……はい」
「昔、言ってましたよね。『私にVD機を使わせてはいけない』って」
「………………はい、そうですね。お母さんに言ったことがあったと思います」
「だから、一度先生に相談したいと思って……」
そこまで言うと、心乃香は目は伏せる。
「そうですね……。心乃香さんはどうしたいんですか?」
「私……ですか?」
「ええ、心乃香さんです。心乃香さんはプレゼントをもらってどう思ったんですか?」
「嬉しかった……そりゃ嬉しかったですよ。でも……」
「……確かに、VD技術には未だに不明瞭な点も多くあります」
「やっぱり……」
「ただ、勘違いはしないでほしい。確かにリスクはありますが、それは心乃香さんでなくとも同じです」
「……ぇ?」
「前にも何度か言ったことがあると思いますが、心乃香さんの病は原因の特定が難しい。感染するようなものでもなければ、原因を取り除けば完治する類のものでもありません。私たちが心乃香さんにつけた病名は、あくまで『症状』に便宜上名前を付けただけのものにすぎません。つまり、心乃香さんの病は現時点で治っています」
「治ってる……私が……?」
そんなこと、考えたこともなかった。
「言ったでしょう。『心乃香さんはどうしたいんですか?』と。これはもう心乃香さん自身の気持ちの問題で、医者として私が出る幕はありません。
もちろん、一人の大人として相談相手くらいにはなりますけどね」
「……」
「……少し、長くなってしまいましたね」
はっと気が付いた時には、机上の時計は予定の時刻を過ぎていた。
「別にこの場で決める必要はありません。ゆっくりと考えてみてください」
そう言うと先生は軽く微笑んだ。
「今日はありがとうございました」
「ええ、また来月もお待ちしています」
挨拶を返し、心乃香は丁寧に頭を下げて診察室を後にする。
「……いい夢を、心乃香さん」
◇
「ご飯できたわよ~」
「はーい」
二階にある自室に母の声が届き、心乃香は一言返事をして今日の宿題を一時中断し、階段を降りていく。
一階のリビングでは、湯気をたてる丼ぶりと花柄のエプロンを着けたたままの母が心乃香を待っていた。
「あれ? お父さんはまだ帰ってきてないの?」
「そうなのよね~。まあでも、遅くなるって話も聞いてないし、すぐに帰ってくると思うわ。ささ、冷めないうちに食べ始めちゃいましょ」
「はーい」
「それじゃあ」
『いただきます』
「ただいま」
心乃香が丼ぶりの中身を三分の一ほど空にした頃、玄関の方から声が聞こえた。
双葉家は現在三人暮らし。つまり、聞こえてきた声の主の候補は一人しかいない。
「心乃香はそのまま食べてて」「おかえり~」
そう言い残して心乃香の母は席を立ち、父を迎えに行く。
「おかえり~」
「ただいま。今日は親子丼かぁ、香奈の親子丼は美味しいからな」
「もう……上手なんだから……」
甘い……。
その甘さは、おそらく親子丼の味付けのせいだけではなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま、心乃香」
心乃香の父が荷物を置いて食卓につく頃には、心乃香の丼ぶりはもう半分以下しか残っていなかった。
「おっ、やっぱり美味しそうだな。……ではさっそくいただきます」
父親が手を合わせると、それに合わせて一度箸を置いていた母も食事を再開。いつも通り三人一家団欒のあたたかい夕飯の時間が過ぎていく。
「……明日は午前中だけで仕事も終わりだから、家の掃除は明日やっておくわね」
「おっ、ありがたいね。でも、僕の部屋の本は捨てないでくれよ」
「私も! 勝手に捨てたら怒るからね」
「本当に心乃香まで本好きになっちゃって、誰に似たのかしら……。そうね、善処するわ」
心乃香は一足先に夕飯を食べ終え、ちょっと過剰なほどに仲の良さげな両親をよそに、急須で入れた煎茶で和んでいた。
二人とも丼ぶりに残されている親子丼もあとわずか。もう少しで食べ終わりそうな様子だ。
……言い出すならこのタイミングしかないのではないだろうか。
今日のお昼にさくらからもらったVDゲーム機。
それ自体、中学生がポンと出せるような金額のものではないということもある。
また、信頼する先生から事実上のお墨付きをもらったとはいえ、彼女の不安が完全に払拭されたわけでもなかった。
家族が全員集まるこの時間に相談しよう、と彼女は心に決めていた。
「……」
それなのに。
なぜだろうか。ただ一言「ゲームをもらった」と、そう言うだけなのに、うまく言葉にならない。
『???』
心乃香の挙動不審な様子に気付いたのだろうか。父と母は揃って不思議そうな表情を浮かべている。
彼女は一度何かを振り払うように頭を振って、言葉を発した。
「……お父さん、お母さん。今日ね……さくらからVDゲーム機をね、もらったの」
『……』
心乃香の目の前で顔を見合わせる、二人。
『……それで?』
「……それで、って?」
「それで、心乃香はどうしたいんだい?」
――『心乃香さんはどうしたいんですか?』
それは奇しくも数時間前に先生から告げられた言葉と同じ。
「心乃香がそれをやりたいと言うのなら、さくらちゃんにお礼を言いに行くし、心乃香に協力もする。
もし心の中でやりたくないって思ってるのなら、その時は、一緒にさくらちゃんに謝りに行きましょう」
「でも、どちらにしても、やりたいのかやりたくないのか、やるのかやらないのかは、心乃香が自分で決めることだ」
「……まぁ、そうはいっても、心乃香の中ではもう決まってるみたいだけど」
「どうして……」
「そんなのわかるに決まってるでしょ。何年心乃香の親やってると思ってるのよ」
俯いていた顔を上げた私の前には、笑顔で、頼もしい、お父さんとお母さんがいて。
その時、私はふと気づいた。
――きっと、私は背中を押してほしかったのだ。
それに気づくのにずいぶんと時間がかかってしまったけれど。
◇
日はすでに落ち、もうすっかり夜。海から低い汽笛の音が風にのって丘の上まで運ばれてくる。
心乃香は自室のベッドの上に座っている。
彼女の目前に鎮座しているのは、未だ梱包が解かれずにいる箱。
勉強、明日の準備、そして日課の日記、今、彼女はすべての用事を終わらせて、箱の前に座っていた。
もう、彼女の心は決まっていた。
茶色い箱に向かって手を伸ばす。その手に震えはない。
大きく息を吸い、深呼吸。
中に入っていたのは、機械の内蔵されたヘッドバンドが一つと、腕時計状の小さいバンドが一つ。あとは説明書やコード類だけ。
下調べをしていなければ驚いてしまいそうな簡素さだ。
説明書もスルーして、少ない機器を手早くセッティング。
二つのバンドを装着して、有線で接続。その次は……。
直前までにオンラインのマニュアルを読み込んできたこともあって、その手つきに迷いはない。
最後に、箱の裏側から小さなカートリッジを取り出す。その表面には薄く「Another dream」との文字。これがVD機のゲームソフトなのだそうだ。
さくら曰くおすすめの一本らしい、この「Another dream」というゲームタイトル。これも調べてみたところ、いわゆる正統派ファンタジーのオンラインゲームということらしい。
それもVDの黎明期からずっと稼働を続けている王道のタイトルらしく、今なお最新鋭ソフトとのシェア争いを続けている息の長いゲームとのこと。
……しかし、それにしてはネット上にある有志の攻略情報がいまいち多くなかったような気もする。
少々疑問に思うところもあったがそれはそれ。やってみなければ分からないこともあるだろうと、彼女は腹をくくる。
始めるにあたっては腕時計型の機械に搭載されている非実体型ディスプレイで、あらかじめゲーム内アカウントを作成しておく仕組みらしい。
いざ彼女が設定画面を呼び出してみると、そこにはただ一言「プレイヤーネーム」と記されたテキストボックスだけが表示されている。
ここに入力さえしてしまえば、あとは初回起動時のテストスキャンの際に、脳波から深層心理で真に望む容姿および適する職業を読み込み、自動でセットアップしてくれる。ということらしい。
もっとも、ネット上には容姿設定や職業設定に不満があるという層も一定数存在しているようなので、「大変よく当たる性格診断」ぐらいの気持ちでいた方がいいのかもしれない。
……それはともかく、名前か……。うん、ここは単純に「コノ」でいいんじゃないだろうか。ありふれた名前だし、特に問題はない……はず。名前かぶりも大丈夫だと書いてあったし。
と、多少の逡巡の末「コノ」と打ち込み、数分ほどのテストも済ませ準備は完了。
……深層心理で望む見た目と職業……どんなものだろうか。全く想像できない。あ、でも職業の方は、少なくとも戦闘がメインのものにはならないような気がする。私、怖がりだし、痛いのも嫌だから。……いや、でもどうせファンタジーの世界に入れるなら冒険をしてみたい気も……。
これまで怖がっていたり、ためらっていたり、迷っていたり。
そんなことが嘘だったかのように心乃香は浮かれていた。果たして本当にこれから眠れるのかというくらいに。
これでもう本当に、あとはベットに入って眠るだけ。それだけで私は……。
少しの緊張と、それに倍する興奮を抱きながら、私は夢の世界へと旅立っていった。