第十三夜/星見の水晶洞
コノカが目を覚ましたのはパステルピンクのベッドの上だった。
窓の外からは赤みを帯びた光が差し込んでいる。
まだ寝ぼけているのか少し頭が重い。えっと……昨日、わたしは……。考えながら上体を起こそうとした次の瞬間――わたしの鼻と喉を強烈な酸味が灼いた。
「ごほっげほっ」
まさかの激臭にそれまで考えていたことも全部吹き飛んで、思わずむせ返る。コノカは口と鼻を手で押さえて一回へと続く階段を駆け下りた。
階下では、激臭を催す蒸気を上げながら、タオルで顔の下半分を覆った女性ががおたまで鍋をかき回していた。
「お目覚めになりましたか。どうもおはようございます。コノ様」
タオルで遮られくぐもった声と一層密度を増した匂いがコノカを出迎える。
「……テレットさん。これってもしかして」
「ええ、もしかしなくてもマスターの指示ですよ」
テレットはそう言うと現在進行形でかき混ぜている深い鍋を指差す。
「具体的に申しますと『自分がいない間“仕込み”やっといて! 材料は置いとくから!』だそうです。私はその申し付けに従ってこうして“仕込み”を。……正直かなり臭いますがご容赦ください」
テレットは目尻を下げてニッコリと笑う。
どこかの受付の人のポンコツ風味な営業スマイルとは違って、柔らかいもののどこか威圧感を感じる笑顔だ。
心乃香は鼻をより強く押さえ、鍋を覗き込む。そこには半透明な黒い液体が煮えていた。
やれやれと首を振る。
……いや、まあそんなことだろうとは思ったけど。
呆れながらも納得したコノカは鍋の上から首を引く。
何を隠そう、あの激臭の源は『ポン酢』だ。
カオリは猛烈なポン酢好き。その趣味が高じすぎて、こちらには存在していないポン酢を手作りで作ろうとしている。しかも目標がとんでもなく高く、『目指すのはただ一つ! 究極のポン酢だけや!!』とまで宣言している。
……本業の鍛冶屋ではなくポン酢づくりの方をテレットに頼んでいるあたり、マイスターとしての自覚を疑わざるを得ない。
ジトっとした目で湯気を吐き出し続ける鍋を見つめる。
と、その時、テレットは何かを思い出したようにコノカの方へと振り返った。
「あ、コノ様。そういえばコノ様宛に、先ほどこちらに来られたプリム様からお手紙をお預かりしておりました。こちらになります」
テレットの懐から一枚の手紙が差し出される。
「え、あ、ありがとうございます?」
戸惑いながらもテレットから白い手紙を受け取る。
表側には短く宛名だけが書かれていた。
『コノちゃんへ』
住所も宛名も何も書かれていない手紙。手渡しなのだから必要ないというのはわかるけれど、広い余白の中、ぽつんと一人で佇んでいる宛名は少しだけ物寂しく感じる。
コノカは首を振って感傷を振り払い、受け取った手紙を裏返す。
目に飛び込んできたのは、表面と同じように短い一文だった。
「今晩の十一時に『星見の水晶洞』に一人で来てね。あたしは先に行って待ってるから」
……え?これだけ?ホントに?
コノカは目を皿のようにして手紙を読み返す。しかし他には何も書かれてはいなかった。あまりにも短く簡潔な手紙だった。
……というかこんなに短いならそれこそ後で直接言った方が早かったんじゃ?
コノカの脳裡に浮かんだ疑問も当然のものだ。
付け加えるなら、この『星見の水晶洞』とやらにも聞き覚えはない。
「テレットさん。なんとかの水晶洞ってどこらへんにあるのかわかります?」
「水晶洞です、それはもしかしてその手紙に?」
「ええ、まあ」
「その手紙、見せていただいてもかまいませんか?」
「は、はい、どうぞ」
「ではでは」
テレットは手紙を受け取り、さっと目を通す。
「わかりました。『星見の水晶洞』ですね。でしたら南門から街を出ましてそのまま道なりに草原を進んでもらって、しばらく行くと道が二つに分かれているところがありますよね?」
コノカは頭の中でテレットに言われた場所を思い浮かべる。
南門、南門……。あ、南門の先の草原といえば、わたしが初めてこっちに来た時リンちゃんと一緒に兎に襲われたあたりだ。そういえば一箇所だけ道が二つに分かれているところもあったた。
「あ~はい。思い出しました」
「その分かれ道なんですが、街の方から歩いていくと真っ直ぐと右斜め前に道が伸びているように見えるんですね~。で、ここからが重要なんですが~」
重要? 迷いやすいポイントということだろうか?
コノカはその重要な所を聞き逃さないように、集中力を高めて耳を傾ける。
「……そこから、道が無い左斜め前方に真っ直ぐ進むと『星見の水晶洞』があるんですよ」
「……はい?」
「ですから、道が無い左斜め前方に『星見の水晶洞』があるんですよ」
「……え、道、無いんですか?」
「無いんですよ」
「……それって迷いません?」
「大丈夫だと思いますよ。その分かれ道に立って左斜め前を見ていただけば、洞窟っぽいものが見えるはずですから……多分」
「多分!?」
恐ろしくアバウトな道案内だった。
「あんまり行く人がいないので道ができてないんですよね」
「そうなんですか!? 普通に書いてあるからてっきり有名な場所なのかと……ていうか、よくそんな道もないような秘境じみた場所のこと知ってましたね」
「野暮用があって一度行ったことがあるんですよ。……あの時も当然のように迷いましたけれど」
なるほど、経験者なら道案内も安心だ。と、胸をなでおろす。
「この手紙によると、集合は十一時なんですよね? でしたらそろそろ準備始めたほうがよろしいと思いますよ」
「え、もうそんな時間ですか?」
慌てて時間を確認する。時刻表示は九時半。まだ一時間半の猶予がある。
「はい、そんな時間だと思いますよ」
「でも、まだ九時半ですよ?」
「九時半だからですよ」
コノカは首をひねる。
「ここから『星見の水晶洞』までは一時間くらいかかりますから」
「ホントですか!?」
初日に目が覚めたところからこの街に来るまでも、そんなにかからなかったような気もするが……。いや、しかしあの時は時間を見る方法も知らなかったし、もしかしたら……。
「それに、『星見の水晶洞』内のモンスターはそこそこ強いですから、今のコノ様の装備では少々大変かもしれません。消耗品やいざという時のためのマジックアイテムも用意していかれた方がよろしいかと」
その言葉にわたしは今度こそ固まった。
消耗品。読んで字のごとく消耗する物。消耗する、使うということは無くなるということ。そして、その調達には……当然、お金がいる。
所持品のリストを呼び出す。そこに表示されていたのは、心もとない数のアイテムと548FLと書かれた無慈悲な所持金残高。
有り体に言って、コノカは金欠だった。
装備は用意してもらっているとはいえ、消耗品は各自で用意が暗黙のルール。
まして、本格的な金策も行っていないとなれば、こうなるのも道理であった。
どうやら、あの短い手紙に書かれていた内容はそんなに簡単なモノではなかったようだ。いや、なんだか本来つまづくべきではないポイントでつまづいてる感はあるが。
コノカは肩を落としてため息をつく。
と、その様子を見ていたテレットが口を開く。
「ん~そうですね。……ちょっと待ってていただけますか、コノ様」
「は、はい。構いませんが……」
テレットは鍋の火を止め、奥の部屋へと消えていく。
それから少々、テレットは大きな箱を抱えて戻ってくる。
「よいしょっと、はい」
掛け声とともに床に置かれた大きな箱。その中には小瓶に詰められた回復薬や各種魔道具、さらに装備品の数々が入っていた。
「どうぞ」
「いやいやいや、どうぞじゃないですよ! どうしたんですかこれ!!」
「奥の部屋から持ってきたアイテムですよ?」
「それはわかってますけど、わたしが聞きたいのはそこじゃなくて!」
なんだか、リンちゃんといいカオリといいテレットさんといい、最近会話が噛み合わないことが多過ぎる気がする! 全く言葉のキャッチボールが成立してない!
これってわたしが捕球下手なだけなの!? わたし側に問題があるの!?
「どうぞって言われてももらえないですよ!明らかにわたしの全財産超えてるじゃないですか!!」
「大丈夫ですよ~。……全部マスターの私物ですから」
「いや、だから……」
「大丈夫ですよ。全部マスターのし・ぶ・つですから」
一部が不自然に強調された言葉を繰り返すテレット。
コノカは箱から顔をあげてテレットの顔を見た。
その笑顔から感じる威圧感は明らかに増していた。まったく目が笑っていない。
「……はい」
わたしは無言のプレッシャーに負けて声を震わせながら頷いた。
それからは、テレットが監視……見守る中、消耗品やマジックアイテムを自分の持ち物に放り込み、装備を身につけていく。
装備は全てがコノカの体にジャストフィットしていた。
その様子を見てテレットはうんうんと頷く。
「一昨日、マスターが『できたぁー!!』と大声で叫んでいましたからね。コノ様専用の装備のはずですが、いかがでしょう?」
「すごい……これ、すごいですよテレットさん!」
防具の方は、動きやすさを重視したつなぎのような衣に、所々、固い金属のアーマーが施されている。可動域を最大限確保したうえで、いざというときは当て身にも使えるような設計。
武器は半ば防具と一体化した手甲と足甲のセットだ。
どちらもヒーラーのイメージからは程遠いものの、コノカのスタイルを最大限尊重していることは明らかだ。
「はい、喜んでいただけたようで何よりです」
箱の中身がほぼ全て無くなる頃には空もすっかり暗くなり、出発するのにちょうどいい時間になっていた。
「私はまだ仕込み(・・・)がありますので。気をつけていってらっしゃいませ~」
やはり笑顔が怖いテレットが見送る中、コノカは店をあとにする。
……これからはテレットさんを怒らせないようにしよう。
完全に尻に敷かれている店主の顔を思い出しながら、コノカは心に固く誓ったのだった。
◇
夜空の下、時折襲いかかってくる兎で新しい装備の使い心地を確かめながら、真っ直ぐに伸びている道を歩いていく。
既に出発してから三十分近くが経過していた。
歩きながら、わたしはこの呼び出しの張本人であるさくらのことを考えていた。
わたしが久しぶりに会ったさくらは昔と大分印象が変わっていた。
発作がほとんどなくなり、わたしが表に出ることもなくなってから結構な時間が過ぎた。わたしの記憶の中のさくらはどちらかというと大人しい女の子で、今のこの世界にいるプリムとは正反対に近いくらいに違う。
たった五年、しかしされど五年だ。
その時間は人が変わってゆくのに十分な時間だったのだろう。
……ずっと同じではいられない。なぜだかそれがほんの少し寂しい。
色々なものが変わっていく中で、わたしはまるで童話の浦島太郎のように一人だけ取り残されていたみたいだった。
今日わたしがここで目覚めたのも『さくらにちゃんとお別れを言え』と、神様に言われたからかもしれない。
……これまでこれっぽっちも神様なんて信じたことのない自分がそう思うのも、なんだかおかしいけれど。
考え事をしながら歩く足取りは速い。コノカはいつの間にかテレットから助言を受けた分かれ道にたどり着いていた。そこは確かに真っ直ぐに伸びる道と右へと曲がる道の二つに分かれている。
「確か……道のない左前方で良かったよね?」
左側前方を向くと、これまで歩いてきた道の周りと変わらないだだっ広い草原とまばらな木立が広がっていた。
そして、その向こう側に小さく黒い穴のようなものがかすかに見える……ような気がする。正直なところ、暗くてよくわからない。
おそらく合っているのだろうが、到底確信に至るほどには足りない。これはテレットが迷ったというのも頷ける。それぐらいのわかりづらさだった。
コノカはふと思い出して、持ち物から『夜鷹の硝子』なる魔道具を取り出す。
心の中でカオリに謝りながら、その眼鏡状の魔道具を掛けてみる。すると、なんとか穴のような何かを見失わずに済みそうな程度にまでは見えるようになった。
正直なところ、もっと劇的な効果を期待してしまった分、微妙に残念な気持ちになってしまう。でも、この方がらしいのかもしれない。
気を取り直し、迷わないように眼鏡をかけたまま、コノカは道なき道を歩き出した。
「なんだろう。すごく詐欺にあったような気がする……!」
コノカはそう叫びたかった。。
ここは目的地と思われるあの穴の前。そう、コノカは迷うことなく『星見の水晶洞』にたどり着くことに成功していた。
ただ……。
コノカはメニューを呼び出し、左上の表示をもう一度確認する。
『22:35』
その数字が示していたのは、さっきの分かれ道から十五分ほどしか経ってはいないという事実だった。
コノカが分かれ道から確認した時には、そこそこな時間が――少なくとも十分や二十分ではきかない時間がかかりそうに見えた『星見の水晶洞』。
しかし、実際にかかった時間は十五分――いや、十分くらいだったのだ。
点在していた木立が距離感を狂わせていたというのもあるのかもしれない。
しかし、一番の理由は、その『星見の水晶洞』とやらの入口のあまりの狭さだった。
「なんで、この穴こんなにちっちゃいのよっ!」
その穴はちょっと頭がつっかえそうとかいうレベルでさえなく、明らかに立ってる状態では入れないほどに小さかったのだ。
……初めは、自分が場所を間違えたのかとも思った。しかし近くにそれらしい洞窟は一つもなく、認めざるを得ない。
「完全に騙されてた……。てっきり遠近法的なアレで小さく見えてるんだと思ってた……!」
コノカは一人ごちる。
どうしよう、まだ待ち合わせの十一時までには時間があるし……。
その時だった。
……ガサリ……ガサリ、という音がコノカの耳に入ってくる。その音は余計なノイズのない静かな夜の中でとてもクリアに聞こえた。
コノカは慌てて音の聞こえた方向、洞窟の反対側に振り向く。
すると、やや離れたところに音の発生源と思われる二つの人影が見えた。その人影たちは明らかにこちらに向かって近づいてきている。
どうやら『夜鷹の硝子』のおかげなのか、向こうは気づいておらず、コノカが一方的に見えているという状況のようだ。
コノカはとっさに一番近くにあった木の陰に身を隠す。
夜の暗さだけを頼りにした隠れ身だ。いつ見つかっても不思議はない。
コノカは心臓の表面に冷や汗を垂らしながら木の陰で必死に息を潜める。
徐々に近づいてくる地面の草を踏み鳴らす二つの音。
その音が目と鼻の先にまで近づいて来たとき、暗がりの中でコノカはその二人組の顔を目撃した。
コノカはその顔に見覚えがあった。
――あれは……あの時の……!
二人組のうちの一人は、初日に教会で窓口の人に襲いかかろうとしていた人物だった。
二人組は洞窟の前まで来ると、その前でなにかを話し出す。
「……本当にここか? あまりにも入口が狭いが」
「ここで間違いないぜ。……が教えてくれた通りだ」
そこで、急に大きい方の男が周囲を見回した。コノカは慌てて出していた首を引っ込める。
――バレた!?
心の声が思わず口から出そうになり、口元を両手で覆う。体がこわばった。今までとは段違いの緊張感がコノカを襲う。
長い一瞬が過ぎる。その後、男は声を潜めて再び話し始めた。
コノカはホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直して、今度は顔を出さないように木の幹越しでかすかな声に耳を澄ませる。
「……の他に……もいない」
「……俺たちもやっと……の仲間入りさ」
「……しまえば……あの鬼を叩きのめす……もない」
耳に届いてくる断片的な声。
コノカの中に嫌な予感が広がっていく。
「……泣いて謝まらせ……」
「……俺たち……可能性を……」
突然、辺りに二人分の笑い声が響いた。
笑い声が聞こえなくなると、今度は地面を擦るような音が聞こえてくる。
木の陰からチラリと横目で様子を確認する。大きい方の男が穴の方を向いて地面に這いつくばっていた。……どうやらあの穴をくぐろうとしているらしい。
まもなく二人ともが『星見の水晶洞』の中へと入り、その姿は見えなくなる。
コノカはやっと緊張を解き、木立の影から月明かりの下へと出た。
しかし、それでもコノカの中の嫌な予感は収まる気配を見せない。むしろ膨らんでいく一方だった。
コノカは街道からここまでの道なき道を思い起こす。
……ろくに整備されないくらいに人気も人気もない場所。
……あいつらは突然襲い掛かってくるようなならず者で、明らかにここに何か目的がある様子だった。
……さっきの不穏当な会話。
……何かを隠しているかのように、短い、手紙。
「……さくら?」
コノカがそう呟いた時、夜空の下を生ぬるい風が吹き抜けていった。
今は……22:50。まださくらが来る気配は、ない。
もしかして……もしかしてだけど……さくらはもう来てるんじゃないか?
手紙には「『星見の水晶洞』に一人で来てね」としか書かれていなかった。それは『星見の水晶洞』の中で待っているって意味だったんじゃないか?
そして……あの二人組はどこかからそれを知ってプリムを……さくらを襲いに来たんじゃないのか?
あの日、教会であいつらをボコボコにしたのはわたしだ。そのわたしはさくらと行動を共にすることも多かった。どこかで見られていても不思議は、無い。
――わたしのせいでさくらが襲われる?