幕間/Primrose
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「6/18 火曜日」
あたしはそう書き入れられた日記のページを閉じる。一緒に芯をしまったペンもその傍らに置く。
あたしが日記をつけるのはこの一週間で二回目だ。
珍しい。とっても珍しい。ほとんど快挙といってもいい。ちなみに前につけたのは三ヶ月近く前だ。
日記なんて今のあたしのガラじゃないのはわかってる。心乃香だったら毎日きっちりつけたりできるのかもしれないけど、あたしには無理。
それでも、書かずにはいられない日がある。もう死んでしまったはずのあたしのどこかが静かに訴えてくる日がある。
そんな日、あたしは決まってあの日のことを思い出す。
あの日のあたしの恐怖と無力と後悔を。
あの日――五年前より以前からあたしとこのかは親友だった。でも、その関係性は今とは少し違っていた。
『こっちこっち! さくちゃん!』
『まってよ~このちゃん~』
あたしの前を歩くこのかとグイグイと引っ張られるようにその後ろをついていくあたし。明るくて、運動神経抜群で、でもちょっと勉強は苦手で。内気だったあたしはそんなこのかが大好きで、憧れていた。
毎日が楽しかった。その時のあたしはそんなこと考えたこともなかったけれど、確かに楽しい日々だったと思う。
でも、あの日を境に、全てが変わってしまった。
それは夏の日のことだった。
二人の共通の習い事だった護身術からの帰り道、もうすっかり日も落ちてまばらな街灯の明かりだけが薄暗い夜道を照らしていた。
あたしとこのかは暴漢たちに襲われたのだ。
内気なあたしは一人の男の右手に光る刃物を前に全身がすくんで、逃げることもできずに捕まった。
このか一人だったら、きっと逃げられた。
でも、このかは逃げられなかった。あたしがいたから逃げられなかった。
このかは捕まっているあたしの方に向かって突っ込んできて、近くにいた暴漢の一人に殴りかかった。
そこからは大騒ぎになった。正直ここからはよく覚えていない。あたしは気づいたら病室の中にいた。
あたしの傷はすぐに癒えた。
でも、このかはそうじゃなかった。
面会謝絶の日々が続いて、お見舞いに行っても受付のお姉さんは中には入れてくれなかった。
ただ、会って謝りたかった。
あたしのせいなのに、このかはまだ退院どころか面会さえ許されてなくて、あたしは元気になって病院を追い出された。
そんなのはおかしい。間違ってる。
あたしはやりきれないモヤモヤとした気持ちを募らせていった。
あたしがこのかに会えたのはあの日から数週間が経ってからのことだった。
学校が終わって家に帰ると、そこには口を一文字に結んだこのかが待っていた。
久しぶりに会ったこのかの顔には見慣れた笑みは浮かんでいなかったけれど、とても面会謝絶をしなければいけないほどひどいケガを負っているようにも見えなかった。
あたしは嬉しくて急いでこのかの元に駆け寄った。
「心配かけちゃったね」そんな風にあたしの大好きな笑顔で笑いかけて欲しかった。そうしたら精一杯謝って、また一緒に遊びたかった。無邪気にそんな未来を夢想した。
……今思えば、あの時のあたしはバカだったと思う。本当にどうしようもないくらいバカだった。
体に大したケガもないのに、面会謝絶。
つまり、体以外に到底会わせられないような理由があったんだ。
『ごめんなさい』
このかは駆け寄るあたしへ口を開いた。
最初の言葉は謝罪だった。
あたしはそれに胸を突かれるような痛みを覚えた。……あたしに謝られる資格なんてない。本当はあたしの方が謝らなくちゃいけないのに。顔を上げると、このかの顔にも隠しきれない後悔と苦しみが滲んでいた。
あたしがいくらその謝罪を断っても、このかは聞き入れてはくれなかった。「わたしが悪いの」と、辛そうな顔で言われたらあたしは黙るしかなかった。
コノカは何かにせかされるように語りだした。
今の双葉心乃香という人間の現状を。
双葉心乃香の中にいる人格は一人じゃないこと。不定期に人格が入れ代ってしまうこと。ここで話している自分は本当の双葉心乃香の偽物で本物ではないこと。そして、そのもう一人の自分は、あの日のことを含む多くの記憶を失ってしまっていることを。
とても信じられるような話ではなかったと思う。
でも、あたしは心のどこかでわかっていた。目の前にいるこのかがあたしの知っている“このちゃん”ではないことを。
それは難しい専門用語を使った説明よりもよほど私の心をうった。
このかが変わってしまったという現実の後付けの理由として、あたしはそれに納得するしかなかった。
そしてこのかの話が終わった後、あたしたち二人は一つの約束をした。
――ここで話したことは全部、本当の双葉心乃香には言わない。
それは、あたしの目の前にいた親友がたった一つだけ口にしたお願いだった。あたしはそれを聞いたとき、思わずこのかの顔を見上げた。
自らを偽物と称した親友の瞳には強い意志の光が宿っていた。その目は、あの日あたしを助けるために拳を握った時の目にそっくりだった。
……きっと今もこのかは戦っているんだ。今度はもう一人の自分自身を守るために。
このかはあたしのうちから去っていく。あたしは家のドアの外まで付いて出て、このかの後ろ姿を見送った。
暑い、暑い夏の日だった。
前へと歩いていく親友の後ろにはずっと孤独な影が寄り添っていた。
あたしの中には静かな衝動が渦巻いていた。
今なら、その感情に名前をつけることができる。
それは暗い憧れだった。あの日、自分を傷つけながらもあたしを助けてくれた一人の親友への憧憬。
あたしには行き先を失ったその憧れをぶつける場所が必要だった。
あたしが「Another dream」と出会ったのはそれから少し後のことだった。
そこであたしはあたしの戦場を見つけた。そこは楽しみで満ちていた。そして何より、そこにはあたしの求める身のすくむような「リアル」があった。
あたしはただがむしゃらに駆け抜けた。思う存分自分の感情をぶつけた。恐怖を、無力を、後悔を、怒りを、喜びを、そして、憧れを。
そのうち、そこにはもう一人のあたしが生まれていた。内気なあたしとは違うもう一人のあたしが。
あたしはすぐにその世界を好きになった。いつの間にか、そこはあたしにとってもうひとつのリアルになっていた。
それから何年もの月日が流れた。
いろんなものが変わっていった。
このかもあの日から間もないうちはよく発作を起こしていたけれど、それも中学生になってからはほとんど無くなった。
明らかにふさぎこんでいた精神の方も、少しは昔の明るさを取り戻してきたように見える。
それは喜ばしいことだ。
……でも、あたしの心の中にはしこりが残っている。
発作がなくなって、入れ代わりも起こらなくなる。それは、もう一人のこのかが表に出てこなくなること意味していた。
多分、もう一人のこのかはわかってたんだ。自分がいつか消えてしまうことを知っていてあの約束をしたんだ。
あたしがそれに気づいたときは愕然とした。だって、あたしの憧れていた、あの日あたしを助けてくれたこのちゃんはもうひとりの方のこのかだから。
あたしはこのかの「先生」に詰め寄った。
「それがあの子の意志でしたから」
先生はあたしの目を見てそう言った。決して強い口調ではなかったけれど、その言葉はあたしに重くのしかかった。
結局、あたしにはどうすることもできなかった。
そんな時だった。あたしの中にある考えが浮かんできたのは。
「このかにあの世界を見せてあげたい」
その思いはあたしの中のいろいろな思いを吸収して大きくなっていった。
それは本来ありえないことのはずだった。
でも、奇跡は現実になった。
そして、今。
心乃香は今も「Another dream」を続けている。心乃香が、自分の意志で選んだんだ。
あたしは心乃香のことを見くびっていたのかもしれない。心乃香はあたしが思っているよりずっと、ずっと強かった。
ここからはあたしの役目だ。
いつもよりかなり早い時間だが、今日はこれでいい。電気を消して布団の中に入る。
あたしの前には夢の世界への切符と夜があった。
あたしは一度だけ時計を確認してから、静かな興奮の中で目を閉じる。
――この日をずっと、ずっと待ってたよ”コノちゃん”。
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