第十二夜/目覚めのアラート
朝の街はこの時間特有の静けさに包まれていた。辺りに満ちる静けさは、普段聞こえないような雑音までも耳に届けてくる。
心乃香は白い塀に背を預け、とくんとくんと早まる心音を聞いていた。
緊張と高揚が入り混じった不思議な気持ち。
起き抜けの出来事は心乃香の心に小さくない波紋を広げたはずだった。でも、心の水面はこの街のように静かに凪いでいる。
――もしかしたら五日前のさくらも同じような気持ちだったのかも。
心乃香はただ静かに待ち人の訪れを待った。
……どれくらい待っただろうか。一時間だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
静止した街に佇む心乃香にアスファルトの地面を叩く軽い靴音が近づいてくる。
待ち人が足を止めるのと時を同じくして、心乃香は白塗りの壁から背中を離し、今度は青空を背に彼女の目の前に立つ。
「……おはよう、さくら。待ちくたびれちゃいましたよ」
先に声をかけたのは心乃香の方。あの日のさくらのように微笑みながら。
さくらはハッと何かに気づいたように驚いてから、ニヤリと口の端を歪める。
「偶然通りかかったってわけじゃないみたいだね。どれくらい待ってたの?」
「忘れました。なんせ私は忘れっぽいですから」
「そっか、……そうだね。じゃ、さっさと本題に入ろっか。あるんでしょ……話したいこと。いや聞きたいことかな?」
探るような見透かすような視線。おちゃらけているようで賢しい親友の問いかけ。
心乃香は真っ直ぐ目をそらさずに答える。
「昨日のゲームの中の私はどうでした。楽しそうにしてましたか?」
――自分の中に答えが無いのなら、外に求めればいい。信頼する親友に、本当にあの日記の言葉に嘘がないのかを聞けばいい。
気づいてみればそれはとても簡単なことで、どうしてこんな簡単なことにすぐ気がつかなかったのか不思議なくらいだった。
「……え? 聞きたいことってそれだけ? うん、楽しそうだったよ、いつもみたいに」
「……本当に?」
だから、認めなくちゃいけない。
「本当に、向こうでの私は楽しそうだった?」
だって私は、自分のことなのに、こんなにも私自身のことを知らない。
はたから見れば、どれぐらい変なことを聞いているのか。それはわかっているつもりだ。それでも、せめてこの気持ちが伝わるようにと真っ直ぐに目を見つめ続ける。
念を押すように繰り返された言葉。心乃香とさくらの間に沈黙が訪れる。
「……そう、何かあったんだね。何があったのか話してもらえる?」
心乃香の気持ちが伝わったのだろうか。さくらは何かを悟ったように呟いた後、そう問い返した。
「……うん」
それから心乃香は今朝の部屋の異変、そして自分からの日記について語り出す。
その間、さくらは視線を宙にさまよわせて何かを考えている様子を見せる。心乃香から見えた顔は真剣そのもののようにも見えた。
時折、頷くように首を動かすさくら。
そして、心乃香が話すべきことを話し終えたとき、さくらはゆっくりと虚空から視線を下ろして心乃香の目を見つめた。
「何か心当たりはありますか?」
「……少なくとも、昨日、向こうでのこのかは心から楽しんでいるように見えたよ。それは本当」
返ってきたのは昨日までと変わらない言葉。
なんだか期待が外れたような気がして、でも、そんなことを思っている私がいることがもっと嫌で、結局私は深く肩を落とす。
しかし、さくらの言葉はまだ終わってはいなかった。
「多分ね、だからこそ、耐え切れなかったんだよ」
「……?」
心乃香の戸惑い混じりの疑問符を意にも介さず言葉は続けられる。
「……自分の罪悪感にね」
呟くように吐き出された言葉には、かすかに自嘲の響きが滲んでいた。
「それってどういう……?」
「悪いけど、ここから先は言えない」
さくらの顔には覆しようのない決意が僅かな苦味とともに浮かんでいる。
「それは、このかが、あたしの目の前にいる双葉心乃香が自分で決めなくちゃいけないことだと思うから」
――今、目の前の親友は何かとても大事なことを言ってくれている。そんな予感が私の中にあった。
だから、理解はできなくとも、私はその一言一句を聞き逃さないように耳をすませる。
声が伝う朝の空気からは余計なものが削ぎ落とされて、声に宿る感情さえも伝えてくれそうなほどにクリアな振動として私を揺さぶっていく。
その言葉は奇しくも、私がゲームを始めたあの時のお母さんとお父さんの言葉にそっくりだった。
「あたしはいつだってこのかの味方だから。だから……」
さくらはそこまで言って言葉を飲み込む。言葉にできないもどかしさが虚空に爪を立てて心を軋ませ、冷たい空気に乗って私にまで伝わってくる。
目の前の親友がどうして苦しそうな、泣きそうな顔をしているのか私にはわからない。彼女が本当は何を伝えたかったのかもわからない。
わからない私は彼女にかける言葉も持ってはいないかった。
だから、黙って手を握る。――いつか、どこかの誰かがそうしていたように。
手にさくらの温かさが伝わってくる。
その手のぬくもりで、遅まきながらも気づいた。
まだ、どうすればいいのかはわからない。
でも、自分がどうしたいのかはもうとっくに決まっていたんだ。
下を向いていたさくらが顔をふりあげて心乃香を見た。
心乃香は大切な親友に一瞬笑いかけて、前に向かって歩き出す。
私はろくに私自身のことも知らない。それでも、こんなにも私のことを思ってくれている人がいる。
それだけで、私が前を向くには十分過ぎるほどだった。
薄く私たちを覆っていた霧もいつの間にか晴れていた。隣の車道には車が列をなして信号が変わるのを待っている。
特別な朝の時間はもうそこにはない。心乃香とさくらは手をつないだまま学校への道を歩いていく。
◇
休み時間、定期テストが近づいてきて慌ただしくなりつつある教室の中でも、いつも通りに変わらないものもある。それは隣の男子が一向に顔を上げないことであったり、クラスメイトたちの他愛もない雑談の喧噪であったり、とても数えきれないくらいにたくさん。
けれど、同時に変わったものもある。
心乃香にとって一番の大きな変化。
「……?」
それは、この小柄なクラスメイトが休み時間の間、心乃香の机を訪れるようになっていたこと。
小柄なクラスメイト――燐は心乃香の方を見て小首をちょこんと傾げる。
その仕草も小動物的な可愛さがあって、とても癒される。一時期流行ったマイナスイオンなんて目ではない。この癒し要素はこれまでの休み時間ライフには無かったものだった。
燐は前のグループワーク以来、こうして休み時間になると心乃香の元へと足を運んでくれている。
元々、燐に対してはあまり積極的に他人と関わろうとしない人という印象を抱いていたので、少し意外な気もしていた。
「あ~やっと終わった~」
心乃香と燐の二人で囲んでいた机にまた一人、女子がやってくる。燐の保護者にしてクラスメイトの日那美咲だ。こちらは心乃香の元に来ているというよりは、燐についてきているといった方が正しいだろう。これから仲良くなっていきたいところである。
……と、この考え方がすでに親友にカタいと言われる所以でもあったが、それはそれ、これはこれだ。
「休み時間中に授業のプリント配っとけって言われても、みんなが席に座ってないから配るのめんどくさいんだよ~。燐、ちょっとくらい手伝ってよ~~」
「……。」
「今、睨んだよね!? お疲れ中の私を睨んだよねっ!?」
「……。」
「ね、今睨んだよね!? 眠たげな蛇みたいな目で私を睨んだよね、心乃香ちゃん!?」
「ええっ、私ですか?」
「見てたでしょ、さっきの燐の目!」
「え、ええと……」
なぜか、突然心乃香は窮地に立たされていた。
その時、答えに窮して目をそらす心乃香。その前から助けの声が聞こえてくる。
「……そういえば。」
「んん?」
美咲は不服そうな声を上げて振り返る。
「何よ? 燐」
よほど精神的に大変だったのだろう。その顔は一周回って笑顔のようにも見える。そんな彼女に向かって、未だ眠たげな顔のまま燐は口を開く。
「……まだ、『モンブラン』の和三盆シフォンロール食べてない。」
………………。
全く予想だにしていなかった方面からの言葉に、いろんな意味で固まった。
「いや、あれは、冗談というか方便の一種というか……」
「……冗談、だったの?」
「うっ……!」
小柄な燐から繰り出される上目遣いの攻撃。
おそらく、というか確実に本人は意識していないと思われるが、その殺傷力は計測不能なレベルに達している。
いつの間にか攻守は逆転し、燐の一人勝ちの様相を呈してくる。
「……もう期限は過ぎてる。早く。」
「う、うう……。こ、ここは学校よ! そんなに急かされても今すぐは無理よ!」
「……それは百も承知。今すぐにとは言わない。でも……。」
「でも?」
「……既に期限は破られている。条件の上乗せを要求する。」
「これ以上何させようっていうのよー!!」
一際大きな声で美咲は叫ぶ。
気づけば、美咲が余計なことを言って燐に言葉少なになじられるといういつもの光景が出来上がっている。
心乃香は他人事に、窓の外を見ながら「……セールスマンとかしたらすごい儲けられそうだなぁ。ちょっと威厳は足りないけど」などと益体もないことを考えていた。
そのやりとりは耳には入っていたけれど、頭の中には入っていなかったのだ。
だからだろうかか。心乃香は燐の突然の行動にただ戸惑うことしかできなかった。
燐は窓の外を見ている心乃香の手を唐突に取り。美咲に向かって宣言する。
「……一緒に連れてく。」
「はぁ!?」
「……できるだけ早急に。」
「え、何? なんの話?」
当然のように心乃香は話についていけず置いてけぼりを食らっている。
「おいしいケーキを食べる。……美咲のお金で。」
「……ひい、ふう、みい…………はぁ」
「美咲さんが悲壮な表情で財布の中身を確認しているのですが……」
「……ケーキ三人分で二千円ちょっと。さようならマイフレンド、野口さんたち……」
ガクッと肩を落としてうなだれる美咲。その背中には歳に似合わぬ哀愁が漂っている。
「……あれは当然の報い。気にしなくていい。」
「……はぁ」
美咲はもう何度目かわからないため息を漏らす。その仕草は、年に似合わず大変板についていた。
……ため息が似合う女。その言葉の響きはすごくポイント高そうなのに、実際に見るとどうしてこんなにかわいそうなのだろうか。
「というかどうしてそんな話に……」
「……話は一週間前にさかのぼる。」
――いや、私が聞きたいのは原因じゃなくて、どうしてその話に私が巻き込まれているのかなんだけど……。
「……一週間前、美咲は怖い話をしてきた。」
一週間前……ああ、あの時の話。
というか、その話は(盗み聞きですが)私も聞いていたし、変に頭に引っかかっていたので内容も覚えている。
確か、寝ている間にVDゲームで遊んでた人が、翌朝目覚めたら部屋の中が荒らされたりなんかしていたって……話……。
……あれ? それって……。
……似て……いる。似てる。今朝の私に。
私の中、記憶の海の奥深くで、錆び付いた何かが軋むように動き出す。同時に、宝石同士がかすり合うノイズのような音の幻が聞こえてくる。
深海から聞こえる不協和音は、巡り、響き、木霊し、増幅されて私のちっぽけな頭の中を埋め尽くしていく。
それは、私が私でなくなってしまうような恐怖。
ノイズは私自身が発した警報音でもあった。
――それ以上考えてはいけない。
無機質なノイズがそう警告をしてくる。
それでも、それでも私は求めずにはいられなかった。
一週間前の私なら、警報音に従って耳を塞ぎ目を閉じていたのかもしれない。
しかし、変わっていたのは私の周りだけではなかった。
いつの間にか、私もまた変わっていた。
私はノイズに埋め尽くされた頭の中、わずかに残った思考力でそこにあるはずの記憶を辿る。
確か、あの時の話の最後は……。
「……自分の中に誰かがいるって話。」
小さな友人が発した言葉の続きはエコーのような残響の尾を引いて私へと届く。
それはもしかしたら、理科で習ったドップラー効果のようなものだったのかもしれない。現実から急速に私の意識が遠のいていく、その証。
薄れゆく意識の中で孤独な欠片たちが一つに繋がっていく。
どうして、起き抜けの部屋が身に覚えもなく散らかっていたのか。
どうして、もう発作も起こっていないのに毎週先生のもとへ通っていたのか。
どうして、VDゲームをするときに限って必ず発作が起こってしまうのか。
どうして――私の記憶は欠落してしまうのか。
私の至った仮説は荒唐無稽で、全くリアルじゃなくて、とても信じられるようなものではなかった。でも、その考えに至った途端、私の中にすっと落ちていくものがあったのも確かだった。
私がそれを認めたとき、頭の中の溢れんばかりのノイズは消えていった。
代わりに私の目の前に広がっていたのは辺り一面の青い海。
毎日のように通っているあの教室ではなく、ただただ青い海原の中に私はいた。でも、不思議と取り乱したりはしなかった。来るべくして来た、そんな予感があった。
私は浮かぶでも沈むでもなくただその場に漂っていた。
水面は凪いでいる。潮の流れも泳ぐ魚の姿もない。本当に静かな海。
あまりにも静かで、何もなくて。私はそれに耐えられずに目を閉じる。
非現実的な光景。ここが夢であることは簡単に理解できた。
私にはやらなければいけないこと、確かめたいことが山のようにある。
……夢なら早く覚めて欲しい。そう願って目を開る。
だが、そこにあったのは見慣れた教室でも新しい友達の顔でもなかった。
相変わらずの凪いだ海の真ん中から見えたのは、私そっくりな女の子の姿だった。ただ少しだけ違うのは、泣いてしまいそうな表情と薄く透き通った紫色の髪。
私はその髪をとても綺麗だと思った。
次にまばたきをした時には女の子の姿は消えていた。そして代わりに今度は水面から光が差し込んでくる。
私はその光に向かって手を伸ばす。その動作も静かな海の中で緩慢に感じられる。
手を伸ばした私は光に吸い込まれるように海面へと浮上していく。
……ああ、一つだけ思い出した。
さっきの私そっくりの女の子の表情は――今朝見たさくらにとてもよく似ていたんだ。