第十一夜/彼方からの備忘録
近くて遠い波間に揺れる水面。
記憶と想像の境界が溶けていき、夢なのか現なのかわからなくなっていく。
私は水面へと向かって浮上している。光の絶えた暗い水底から光の混ざり合う水面へと。
夜は終わり、また朝が訪れる。
ふと、その時、私の目の端を人影がかすめていったような気がした。私はもう一度目を凝らす。しかし、その時には人影らしきものはどこにも見つからなかった。
私は目を凝らすのをやめて再び満ちる水に体を任せる。
ここで何かをするのはとても疲れる。
それに、ここで見たことや感じたことはどうせ覚えてはいられない。なんとなくだけどわかるのだ。
これは私の脳が見せた幻。
ここはこっちでも向こうでもない場所。
いつの間にか水面はすぐそこまで近づいていた。柔らかな光と水が溶け合って私の体を羽のように軽くする。
私は目の前に向かって手を伸ばした。
◇
心乃香は頭に感じる硬質な感触で目を覚ます。
寝ぼけ眼のまま何かを掴むように虚空へと手を伸ばした。
窓から差し込む光の筋が伸ばした手に当たる。空気中を舞う埃の粒がキラキラと手の周りを舞う。
心乃香はゆっくりと体を起こす。
「あ、いたたた……」
不意に身に覚えのない痛みが心乃香を襲った。
全身の節々が張っているような感覚。起き上がった心乃香はそこで初めて自分の置かれた状況を認識する。
今まで自分が横たわっていたのは板張りの床。自室のフローリングの上だった。
どういうことなのかわからず、ただでさえ寝起きで回っていない頭が一時完全に停止する。
……確かに昨日はちゃんとベッドに入って寝たはず。床の上で寝るなどというエキセントリックな行動を取った覚えはない。
そのベッドの方に視線を移すと掛け布団が乱れているのが目に入る。
これは……たまたま寝相が悪くて寝ているうちにベッドの上から転がり落ちてしまった、ということなのだろうか?
心乃香はそんなに寝相が悪い方ではない。記憶の限りでは、今までベッドから落ちたこともないはずだ。
急速に覚めていく目で、差し込む朝日が床に描き出した陰影を見つめる。
朝……日……?
心乃香はバッと窓の方を振り返る。
朝日は不自然に開いたカーテンの隙間から差し込んできていた。
カーテン、そうカーテンだ。
毎日就寝前にカーテンを閉めたかも確認している。昨日もそうだった。
寝相が悪すぎて窓の下までゴロゴロと転がってカーテンをちょっと開けた……そんな訳はない。
やはり、何かが引っかかる。
どこか予感めいた何かに操られるように心乃香は部屋を見渡し、他におかしいところがないか確認する。
……見つけた。
机の上、昨日の晩に書いた日記のノート。きちっと整えて机の真ん中に置いたはずのノートが裏向きに置かれていて、机の奥にあった筆箱からは一本のシャープペンシルがはみ出している。
いつもなら、硬い床ではなくベッドで起きていたなら、閉めたはずのカーテンが開いていなかったら、気に留めるほどのことではなかっただろう。
一つ一つは取るに足らない、それこそ偶然の一言で済ませてしまいそうな出来事。
そのうちどれか一つでも欠けていたなら、きっと心乃香はそのような行動を取りはしなかったはずだ。
カーテンの隙間から差し込む光の筋をまたいでこちらからあちらへ。
心乃香は吸い寄せられるように机の前の椅子に座り、裏返しの日記へと手を伸ばした。
自分の日記。言い知れぬ予感が高まって背中を、脳を、全身を駆け回る。
ノートの中頃、僅かに折り目のついているページに指を這わせ、一気に開く。
ページの日付は6月17日(日)。昨日の日付だ。
たった八時間前に書いた日記。その最下段、最後の一行に見覚えのある字で見覚えのない一文が綴られている。
――わたしはもう二度とあのゲームはしないと決めた。
それは忘却の彼方へ消えてしまった私から私に向けた決意表明だった。
◆
もはやVD世界は現実の延長線上にあるといっても過言ではない。
だが、そこはあくまで仮想、ヴァーチャルだ。現実ではない。
現実と仮想夢の中で行動傾向に差異がみられるという報告がいくつか上がっている。
おおむね、現実にいるときに比べ積極性が向上する感じることが多いのだとか。
個人差もあり、それが単に”現実ではないから積極的になれる”ということなのか、それとも別に理由があるのかは明らかにされていない。
VD世界と現実世界で活動する際、脳の活発に活動する部位に差がみられるとする実験結果もあり、一部の間では、脳の未使用領域を刺激しているという俗説も流布している。
それもVDが脳の賦活化を促すとしてVD推進派の主張の一点となっている。
VDは本格的な普及が始まってからまだ五年しか経ってはいない。
五年、たった五年だ。
本来、慎重に研究を行い、万全に万全を重ねてしかるべき技術。
それが十分な結果が出る前に世に送り出され、今やそのネットワークは世界中を覆おうとしている。
ディスプレイに映し出されたCT/MRI画像を確認する。
あの子の脳には、少なくとも画像診断では明確な異常は認められなかった。
だが、異常が認められないということと、問題が存在しないということは同義ではない。
科学は世界のすべてを理解しているなどという傲慢を言うつもりもない。未知は常に存在し、個人が認識できる事柄には限りが存在する。
……疲労が溜まっているかもしれない。
益体の無い思考ばかりが頭をかすめる。
……未知を新しい既知として受け入れることができないから、私たちはそちらへ行けないのだろうか。
頭を振る。しかし、一度浮かんでしまった思考は、簡単には頭から出て行ってはくれなかった。
◇
心乃香が日記をつけ始めたのは小学校の四年生ぐらいの頃だった。
元々「日記を綴る」という行為自体は、自ら進んで始めたものではない。
しかし、今では誰に強いられているわけでもないのに、就寝前にはペンを手に取り、ノートの前に座っている。
きっと、自分の記憶を百パーセント信用できていないことが理由の一つなのだろう。
例えば、一般的に、中学生になる頃には、小学一年生の時の記憶なんてほとんど憶えていないという人がほとんどだろう。
忘れる。それは人間の脳に組み込まれた基本的な仕組みの一つなのだから。
『発作』。
心乃香がそう呼んでいるものは、それが少し激しくなったようなものなのだとかつて先生は言った。
いつだって発作は突然にやってきた。その時間も長いものから短いものまで様々。
ひどい時だと、下校中にした(らしい)遊びの約束を、帰宅した時にはまったく覚えていないなんてこともあった。
そうして、ところどころが欠けた記憶は積み重なっていく。
そこらじゅうに開いた穴から空気の抜け出した穴あきチーズのような形状。それが心乃香の記憶の形。
先生が心乃香に日記を書いてみたらどうかと持ちかけてきたのも、このどうしようもない空白を少しでも埋めようという意図からだったのかもしれない。
そのおかげなのかは分からないけれど、今では激しい記憶の欠落もほとんど起こらなくなった。
――起こらなくなったはずだった。
心乃香が毎日綴っている日記。そこには時折覚えのない日記が付けられているときがある。
自分の字で、自分の身に起こった出来事が書かれているのだ。
忘れてしまった記憶を補完するように残されている日記。
大切な、忘れてしまっては困ることを忘れてしまったときに、こうして一番下の段に記されている日記。
その日記もめったに発作を起こさなくなってからは見ることもなかった。
本当に久しぶりに見た日記。
でも、そこに書かれていたのは……そこに書かれていたことは、心乃香の気持ちとあまりにもかけ離れていて。
――ここに書かれていることは本当に大事なことだけ。
いつの間にか自分の中に出来上がっていた信頼。
今はその信頼が心乃香の心を惑わせる。
「わたしはもう二度とあのゲームはしないと決めた」
その一文は確かに自分のもの。心乃香の綺麗とも汚いとも言えない字がそれを雄弁に主張している。でも、今の心乃香はそんなことを全く思ってはいなかった。
このゲームは大切な親友からの贈り物。たとえ、その記憶を覚えていられないとしてもそれは変わらない。
――私はあの時やると決めた。その気持ちは今も変わらないし、ゲームの中で私が楽しんでくれているならそれでいいと思っている。それがある意味で他人事だったとしても。
それに、私は毎日のように、さくらから前の日のゲームの話を聞いている。
さくらの話す『向こう』での出来事は、聞いているだけで胸が躍るような楽しいものばかりで、話に出てくる私も楽しそうで――。
――楽しそうで?
ふと、何かひっかかるものを感じて立ち止まる。
なら、どうして?
どうしてこんなことを書いたのだろうか?
窓のそばのカーテンが音もなく揺れる。
心乃香はその疑問の答えを自分の中に持ってはいない。この日記の真意は、記憶の欠片と共に忘却の彼方へ失われてしまった。
でも……。
知らないことと、知ろうとしないことは違う。それは言い訳で、逃げだ。
立ち止まった私はこの自分の部屋の真ん中でもう一度前を向く。
棚に置いてある時計を確認。……よし、まだ間に合う。
足元の鞄を肩にかけ、胸元のリボンを少し直し、最後に机の上の茶色い箱に手を触れさせる。
無機質な夢の残骸からはかすかな熱を感じたような気がした。
心乃香は部屋から出て、一階へとつながる階段を駆け下りる。木の階段からは派手な足音が鳴り響いた。
そのままダッシュで玄関へと続く廊下を通り過ぎようとした時、横手のリビングから心乃香のお母さんが顔を出した。
それでも心乃香はただ前を見つめたまま、わずかにスピードを落としただけで玄関への道を駆け抜ける。
少し足をもつれさせながらも急いで靴を履いて、玄関のドアを開いた。
「……いってらっしゃい」
ドアの外側へ全身を出したとき、後ろからお母さんの声が聞こえて、心乃香は振り返る。
ドアの向こうから困ったように呆れたように笑うお母さん。
――しょうがないわね。
そんな声が聞こえてきそうな笑い顔。
心乃香の心が不思議と温かくなる。
目の前でドアがゆっくりと閉まっていく。心乃香はそれを見届けることなく、かすかに朝霧が薫る道を走り出した。
◇