第十夜/もう一つの選択
◇
この世界にもやがて夜が訪れる。
今日の冒険も終えて、既に他のみんなもこの世界から去ったあと。わたしが初めてこの世界で目を覚ました場所、その草原でわたしは一人立っていた。
今はわたしがこの世界に来てから五日目の夜。その五日の間に現実の時間では六日が過ぎていた。
このゲームをプレイしている人は、現実で一日を過ごし、眠っている間にその約三分の一をこちらで過ごす。そのサイクルは現実の生活を圧迫することもない、リンちゃんいわく「夢を借りているだけ」の状態。わたしのような例外を除いて安全性も十分に保証されている。そんなこともあってプレイする人はほぼ毎日プレイしているらしい。
だが、実際にはそこには一日の誤差が生じている。
五日と六日、その差は一日分。その空いている一日、初めてこの世界に来た翌日に、わたしはこの世界で目覚めることはなかった。
言い換えると、その日、もうひとりの私はこのゲームをプレイすることを拒んだ。
理由は明らかだ。
わたしが表に出ている間、もう一人の私の記憶は途切れぽっかりと穴が開いてしまう。
朝、向こうで目覚めた私は夢の世界での出来事を何一つ覚えていないのだ。
……向こうの私も気づいたはずだ。これは『発作』だと。
『発作』。今のわたしと向こうの私、二人の間でその言葉の意味合いは少し違う。
わたしにとっての『発作』は人格の交代。特にわたしが私の代わりに表に出ている状態のことを指す。
向こうの私にとっての『発作』はそれによって発生する、連続していた記憶が途切れる現象だと認識されている……はずだ。
そこにある認識の齟齬。それはわたしが望んだことでもある。
まだあの日から何年も経っていない頃、私の精神が不安定だった頃には、結構な回数の『発作』が起こっていた。ストレスに反応して起こる突然の『発作』と入れ代わり。その時も、できる限り私の病状が他の人はもちろん自分にもばれないように、そして私の日常生活に異常をきたさないように行動した。
もう一人の私、本物の双葉心乃香にはちょっと物忘れが激しいだけの、普通の女の子として生きて欲しかったのだ。
月の光だけが辺りを照らしている。
人工の光が消えた夜は暗く、美しい。
わたしもあまりはっきりと覚えているわけではないけれど、向こうの月はこれほどはっきりとは見えていなかったと思う。
……それなのに、この夜を嘘っぽく感じてしまうのはわたしの心がひねくれているからなのかもしれない。
この世界の夜は、向こうの夜の闇を完全に表現するには至っていない。
わたしが感じたあの日の闇はもっと濃かった。
暗さがということだけじゃない。それは多分もっと本質的なこと。
それは恐怖だ。
本能的な恐怖をかきたてられるような闇がここにはない。ここにあるのはあくまでまがい物の夜。日が落ちて、月が出て、辺りが暗くなる。それ以上のものが含まれていない。
……もしかしたら、この言い方も間違っているかもしれない。
つまるところ、わたしが、感じ取ることができないんだ。
夜に潜む闇の恐怖を。
あの日以来、わたしは夜が嫌いだった。怖かったのだ。今や、わたし自身が夜であり影そのものなのに。
でも、この世界の夜はそんなに恐ろしく感じない。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。
わたしの願いが通じたのかどうかはわからないけれど、時が過ぎて私が中学生になる頃にはほとんど『発作』もなくなっていて、私は普通の生活を手に入れて――代わりにわたしが表に出ることもなくなっていた。
そのままわたしは深い闇色の海の底で忘れ去られていくのだと思っていた。
しかし、何の因果か、今、こうしてわたしは立っている。
ここにわたしがいることが既に奇跡なんだ。起こってはいけない奇跡だった。
理由はわからない。でも、現にわたしたちは入れ代ってしまっている。『発作』は起こっている。もう精神も安定してきていて治まったはずの『発作』が。そしてもう一人の私はそれに気付いた。
この世界は美しくて楽しい。景色もそうだし人もそうだ。今日の冒険も楽しかった。リンちゃんとカオリと、プリムことさくら。三人との冒険は心躍る驚きに満ち溢れていた。
わたしはたった五日間過ごしただけだったけど、それはよくわかる。
でも、この美しさも、楽しさも、わたしじゃなくてもう一人の私が感じるはずのものだったんだ。
わたしはそれを横取りしただけだ。
横取りしたものは返さなきゃいけない。
わたしは半透明のディスプレイを呼び出し、左上に二段で表示されている数字を確認する。上の段に書かれている数字は05:21。これは向こうでの現在時刻だ。下の段の表示は+0:11、こっちはわたしが今日この世界にいられる残り時間を表している。
残り11分、その数字を確認したわたしは月明かりの草原に横たわった。
わたしは大の字になって全身でこの世界を感じる。この世界の記憶を焼き付けるように。少しばかり忘れっぽいわたしの脳みそでも覚えていられるように。
しばらくしてそうしていてから、わたしは胸の上で両手を重ねて、ゆっくりと目を閉じる。
「ごめん、さくら。……約束守れなかった」
瞼が落ちきる前の一瞬、細長くなったわたしの視界の中を一筋の星が流れていったのが見えた気がした。
◆
スレッド名:≪ネバーランド≫
NL:真のプレイヤー諸君。
今日、私が話すのは他でもない。
来たるべき日が来たのだ。計画を実行の第一段階に移す。
すでに一部の者には手筈を整えてもらっている。その結果はすぐに諸君ら全員の知るところとなるだろう。
今、このAnother Dreamの世界はシステムによって支配されている。
NPCは我々に守護を恃みながら、十分な見返りを以て報いるどころか、むしろ多くの制限を掛けてきた。
教会という権力機構によって、ボスには封印指定がかけられ近寄ることさえできない。
強大な敵、強力な武器が手に届くところに存在するにもかかわらず、手を出すことができない。もどかしい思いをした者も多いだろう。
確かに、ここはゲームの中だ。
システムは絶対。創造神に抗うことはできない。
しかし、だからこそだ。
我々にどこまでできるのか。今こそそれを試す時なのだ。
NPCどもに、蒙昧なプレイヤーたちに、この世界を作った神に、見せつけてやろうではないか。
我々、真のプレイヤーの持つ可能性を。
◆
「うぅ……」
わたしは仰向けの姿勢のまま身じろぎをして、少しづつ目を開ける。
わたしが目を覚ましたのは草の匂いが香る緑の丘でも喧騒に包まれた街中でもなかった。
ぼやけた視界の先には茶色い木目が写っていた。わたしは鈍い思考で自分の目的が果たせたことを確信する。
貧血にでもなったみたいに頭がガンガンと鳴っている。まさに最悪の寝覚め。
でも、わたしはわたしのままで起きられた。
今はそれだけで十分だ。
わたしはベッドから上半身を起こす。それだけの動作で鋭く頭が痛む。頭を抑えながら足をベッドの淵から床に下ろす。
足に力を入れてベッドから体を離す。やっぱり頭が痛んだけど無理して立ち上がる。多少の無理は承知の上だ。そもそもここにわたしがわたしのままでいること自体が無理なんだから。
その無理のせいだろう、意識が揺さぶられて、足元がふらつく。
おぼつかない足取りでわたしは机へと向かう。
机にもたれるように手をついて、なんとか椅子に座った。
目の前に置かれているのは一冊のノート。見覚えのある日記帳だ。
頼りない手つきで、しかしためらいなくノートを開く。白紙の続く末尾からページをめくっていく。
ひたすらにページを繰り続ける。真っ白な紙面の海を前へ前へと進んでいく。
相変わらず頭は痛むし、視界は不規則に拡散と収縮を繰り返す。いつまでわたしの意識が持つのかわからない。
本当に間に合うのか? 自分への焦りが募っていく。
そして、全体の三分の二ほどをめくった頃、わたしはやっと黒い字が書かれたページにたどり着いた。
6月17日(日)。冒頭にそう書かれた一ページに記されていたのは、いつもの、双葉心乃香という一人の少女の普通の日常だった。
そこにあの世界のことは記されていない。
不意に、他のここ数日のページをめくって読んでみたいという衝動に駆られる。
わたしと私は感情を共有していない。私が何を思い何を考えていたのか、それをわたしは知らない。
わたしはわたしの中に巻き起こったその衝動のままにページをもう一つめくりかけて、止めた。
わたしには時間がない。突発的な衝動に身を任せて、本来の目的を果たせなかったなんてことはあってはならない。僅かな理性の鳴らした警鐘のおかげで、わたしはなんとか思いとどまることができた。
今、大事なことは目的を果たすこと。
机の上を見渡す。右奥にダンボールの箱と目当ての物を見つけた。目当ての物、筆記用具一式が入った筆箱の中からシャーペンを手に取る。
わたしは震える指で17日の日記の一番下にペンを走らせる。短く、一文。
書き終わったわたしはシャーペンを元の場所に戻しノートを閉じる。
やることはやった。わたしは机に手をついて立ち上がろうとした。
……もしかすると、目的を達成して気が抜けていたのかもしれない。
机から手を離した瞬間、強烈な立ちくらみがわたしを襲った。
激しく揺れる視界。わたしは立っていられずにとっさに手が触れた布をつかみ、床にかがみこんだ。
次に感じたのは体のどこかを硬いものに打ち付けた感触だった。
打ち付けたのがどこだったのかも覚えていない。
しかし、その衝撃は残ったわたしの意識を刈り取るのには十分だった。
わたしは瞼の裏に押し寄せる黒い波を幻視する。わたしの意識は黒い波に飲まれるように暗い海の底へと沈んでいった。
◇◆◇