1話 ある寒い日に
日雇いバイトの帰り、重い足を引きずって俺は家に辿り着いた。
毎日毎日冷えた玄関に足を擦り付け、真っ暗の中、場所を覚えてしまったスイッチを弾いて光を戻す。カバンを投げ捨ててソファに倒れ込むと、自分が自分として生き返り、寒気のする家に温もりが戻る。そんな錯覚もいつか感じなくなるのだろうか。
――午後10時の冬風は身体に優しくない。
俺は帰りにコンビニで買った夕食を解凍すると、使うことの減った食器に乱雑に乗せる。
いつから毎日はこんなに味気なくなったのだろう。
耳を通り抜けるテレビを消し、思い立った俺は水曜日の疲労の残る身体でお湯を沸かした。
段ボールから古びた湯たんぽを取り出してフタを開け、水道の水で何度か流して半年ぶりの手入れを行う。
小さい頃から、俺は湯たんぽの暖かさが好きだった。
冬になると母親が布団にそっといれておいてくれたその温もりを思い出すと、少しだけほっとする。
お湯を注いで、半年ぶりに生き返ったような湯たんぽを布団に入れ、自分も寝床に潜り込むと、すぐに温もりの中に寝入ってしまった。
けたたましい電子音が頭を揺さぶり、いつも通りの朝を迎えた。……が、何か違和感がある。足先に有るのは湯たんぽ。それは覚えている。昨日から使い始めた暖房器具。冬の風物詩。しかし、
――こんなに、柔らかみがあったか?
足先で弄ってみても、明らかに違和感がある。
柔らかいし、そもそもカタチが違う。俺の知ってる湯たんぽじゃない……!
そうこうしていると、んん……などと言う声が布団から聞こえてきて、覚醒しつつ有る脳が近年稀に見るスピードで回転し、俺は咄嗟に布団から飛び出していた。
外から観察した布団の中の『それ』は、どうみても見慣れた湯たんぽの形をしていなかった。俺は一瞬の逡巡の末、掛け布団を全力で跳ね上がると。
――そこには、1人の少女がいた。
黒髪が無造作に散らばり眠っているその美少女は、まだ幼い。橙色のジャージを着た彼女は、不意に寝返りをうち、閉じられた瞼が動く。ゆっくりと上体を起こし、髪が重力に従い伸びた。そして次の瞬間、少女はその目を開き、驚きの隠せない俺と視線を交わし、言った。
「んん……おはようございます。……あれ?」
あれ?あれ?とどうにも可愛らしい仕草で動揺しているらしい少女に、俺は倒錯した頭で、『あさまし』という古語と、恩師の禿頭を思い出していた。
俺は今確実に錯乱している。
紛れも無い俺が言うのだから間違いない。
そもそもこんな状況がいったいどこにあるというのか、いやない。
「と言うわけで私、人型になれましたので。よろしくお願いします」
……よろしくもクソもないぞ。
そもそも湯たんぽって喋るっけ。
そしてかわいい女の子だったっけ。
まぁ落ち着け。そんな湯たんぽが人になるなんてのはファンタジーに分類される筈だ。
つまり、この少女は湯たんぽじゃない。当たり前だ。
――じゃあ、誰だよ。
「……簡潔に聞こう、君だれ?」
「湯たんぽですよ?」
さも当たり前のように言うんじゃない。
「少なくとも俺の知ってる湯たんぽではないが」
「形に囚われるのは人の哀しい運命ですね」
「ポエム詠めなんて言ってないぞ」
飽くまでこいつは自分が湯たんぽであることに固執するみたいだな。よろしい、ならば戦争だ。
「いいか、湯たんぽは喋らないし、人型にはならん」
至極尤もな意見を俺は言って聞かせた。
「湯たんぽってのは暖房器具なんだ、それに会話性能や萌えを求める奴はいない……多分ね」
「つまりお前は湯たんぽじゃない、唯の人間なんだよ」
俺が1人で納得していると、あろうことか、この自称湯たんぽは頭を垂れてうつらうつらとしているではないか。
ふざけんな。
「起きろ! まず正体を明かせ。話はそれから聞いてやる」
「あ、おはようございます」
マイペースにも程がある。美少女じゃなければ絞め殺していたかもしれん。
「えーっと、信じてもらえないのは分かりますけど、私は湯たんぽですよ?」
どう信じろと言うのか。
「世の中にはいろいろなことがあるんですよ。貴方の元へ来てから10年近くになって、ようやく人型になれました」
「どういう原理で人型になったんだよ」
「完全変形です」
「最近のガン◯ラはすごいな」
そんなことはどうでもいい。しかも湯たんぽのガ◯プラってなんだよ。そもそも◯ンダムか湯たんぽかどっちだよ。
「その理論だとな、長年使った物はなんでも人型になることになるんだが」
「そこんとこは分かんないですね」
ばっさり切られた。
「ただ1つ言えるのは、私はお兄ちゃんの湯たんぽだってことです。間違いありません」
「誰だよお兄ちゃんって」
「……お兄ちゃん以外にいませんよ?」
だからそのお兄ちゃんが誰かと聞いている。
「あなたですよ?」
当然のような顔をするんじゃない、畜生かわいい。だがしかし。
嘘だ、俺に妹なんていない。
絶対にいない。
「お兄ちゃんは知らないと思いますけど、私ずーっと自我は持ってたんですよ?」
最近の湯たんぽって怖いや。
「多分ごく稀に自我を持った湯たんぽができて、私はその中でもたまたま人型になれたんですよ」
確率の壁が崩壊したと言うのか。どう考えても0にしか思えない確率が。どうにも信じられん、当たり前だが。
「じゃ、じゃあ……」
頭が混乱の中にあると、不意に自称湯たんぽが口を開いた、やけに顔が赤い。
「……私が、湯たんぽだって証明しますから、お湯を沸かしてくれますか…?」
何をする気だ、まあ良い、やってみようじゃないか。あと動揺してる美少女ってかわいいな。
古びたやかんに水をいれて、火にかける。沸騰までの間、自称湯たんぽは何故か真っ赤な顔でぎゅっと唇を噤んでいたが――。
「ほれ、沸いたぞ」
「分かりました……やかんを置いて、少しの間向こうを向いてて下さい」
後ろからぶっかける気じゃないだろうな。
不審な目で見ていると、今にも泣き出しそうな表情になったので俺は慌てて、つい後ろを向いてしまった。
女児を泣かせたりしたら、後ろに手が回る。今の状況でも十分事案になりそうなのに。
「……振り返ったら、本当にお湯かけますよ。あと耳も塞いどいてください」
「わかった、わかったから」そう言いつつ俺は左耳に被せた手を少し緩め、音を聞こうと耳を澄ませた。
チャックを降ろす音が聞こえる。例の橙ジャージを脱いだのだろうか。何を考えているのか。すると。
「……ふぇっ、んっ、あっ」
ん、何か聞こえたような。
「あっついの……いっぱい、入っていって……る」
あれ、これダメじゃね?めちゃくちゃえろい。完全に[禁則事項です]。
いや待て、湯たんぽがお湯を入れているだけだ。何もいやらしいことなどない。
「んっ……これくらいで、いいかな…」
ああ、何もやましいことなどないな。終わったみたいだし。
「どうだ? まだか?」
「まだです! 振り向いたら怒りますよ!」
やかんを置いて、チャックを引き上げる音がすると、後ろからつんつんされた。一々かわいいのが癪にさわるが、良い声を聞かせてもらったので良しとしよう。
もういいのか?と尋ねるとコクリとうなづき、
――抱きついてきた。
「どうですか……あったかいの、分かりますか」
一瞬めんくらったが、確かにこの温もりは湯たんぽである。
しかしこの柔らかさは湯たんぽではない。が、かといって何が悪いことがあろうか。
「分かった……お前は紛れもなく湯たんぽだ」
そういうと、湯たんぽは満足したように離れて布団に座った。
「分かって頂けて、良かったです。お兄ちゃん」
「それにしてもお兄ちゃんはおかしいだろ」
「じゃあ、周りにどう説明します?」
……どうってその。いや……うん。
「私が血縁のない少女だとしたら、お兄ちゃんにとっても色々まずいんじゃないですか?」
「待て、お前ここに住む気か」
「あたりまえじゃないですか、私、お兄ちゃんの湯たんぽですよ?」
妹なのか湯たんぽなのか。究極の選択。
「追い出したりしても、お兄ちゃんの立場が悪くなるだけだと思いますよ」
間違いない。面識のない少女が家にいる時点で相当やばいのにいきなり追い出したりして、あらぬ誤解を産めば――間違いなく産むだろうが――俺は社会的に死ぬ。
『YOU DIED』見慣れた文字だ、嫌になるほど。
「つまり、お兄ちゃんにもう道はないんですよ」
『YOU HAVE NO WAY』
追い出しても逮捕、家においても危険度MAX。確かに、『妹』という形を取ればすぐにどうこうとはならない。
『妹ならばどうということはない』
そんなことを考えながら、湯たんぽ兼妹の美少女に純真無垢な瞳で見られていると、もうどうにもならないような気がしてきた。
というか、これはもしかして勝ち組になれるチャンス?
いくら元湯たんぽとは言え、間違いなく美少女。と同居。勝った、コレ勝ったわ。クソみたいなフリーターでも生きてきてよかった。
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ、私湯たんぽですし」
ああ、最高だ。ビバ湯たんぽ。
もうこいつが妹だろうと湯たんぽだろうと完全変形しようとどうでもよい。
俺は遂に念願の美少女とのハッピーライフを手に入れた。完全勝利。もうなにも怖くない!
「あ、私トーストには何も乗せないでお願いします」
ああ分かった、腹減ったんだな。俺もだ。
しかし俺が作るの前提なのか。分かったよ作ればいいんだろ。
「すみません……湯たんぽしかやったことないんです」
だろうな。今人間やってるだけでも中々すごい。ただ家事は覚えてもらいたい。お世話されたい。妹だし合法だよね!
「湯たんぽって、トースト食うのか?」
「一回食べて見たかったんですよ」
食えなかったらどうする気だ。てか消化器官とかあるのか。
「体のことはよくわかんないですけど、多分大丈夫ですよ。お兄ちゃんの手作りですし」
こっちとしてはかわいい妹に手作りのご飯食べさせてもらいたかったよ。トーストが手作りに分類されるかは別として。
「……そんで、本当にお前は、あの湯たんぽなのか?」
そっと聞いて見たが、返事はない、振り返ると湯たんぽは、布団の上で寝息を立てていた。
「まいったな……こりゃ」
適当に毛布をかけながら寝顔を見ると、どことなく使い慣れた湯たんぽに見えてくるのが、我ながらおかしかった。




