第二十八話 パンデミック・オレンジ
パンデミックは遂に始まった。
CDCが作り上げた対ウィルス用のワクチンは一部の人間の元にしか行き渡らず、ベイズアザディによって齎された感染遺体によって世界中で感染者が確認され始めていた。
一度感染が広まれば後はねずみ講のようなものだ。
感染者の遺体から更にウィルスは拡散していく。
特に土葬を主な埋葬法とする地域は、感染拡大の速度が異常に早かった。
それを隔離室から傍観するしかできない三上は今日も高見博士とゼルゲ教授の元に呼ばれる。
迎えに来た名前も知らない研究員に連れられて暗い廊下を歩いていく。
三上の心には虚ろな感情が付きまとっていた。
終わりの無い抑圧感に締め付けられ夜も眠れない。
高見博士達の居る研究室に辿り着いた。
三上は操作パネルに解除キーを入力し扉を開ける。
「おはよう三上さん、今日も一日よろしく」
三上は高見博士の挨拶を無視し試験台に横たわる。
ゼルゲ教授が近づいてきた。
「三上君、英語はわかるんだろう? 挨拶くらいは返せなきゃ一人前の大人とは言えない」
三上はそれも無視して試験台の上で瞼を閉じた。
ゼルゲ博士の研究室では、三上が体内に保有するウィルスの最新データを採取する作業が進められていた。
現状、三上に直接肌を触れられるか、彼の周囲に防護マスク無しで近づくと即感染する。
今やそのウィルスは被感染者を死に至らせるまで実に数十秒という早さであった。
それはこのウィルスを開発したSWARPAが想定していたスペックを遥かに凌駕するものであった。
三上は生体兵器として完成した存在になっていた。
今、ゼルゲ教授と高見博士が調べているのはその変異の周期パターンに関してだった。
ウィルスが大きく変異するタイミングやそのきっかけとなるものがあるのか、それを人が操る事は出来るのかを調べていた。
ゼルゲ教授は淡々と手を進めていく。
三上には、突然連れてこられた研究所の所長であるこの男が何者なのか検討もつかなかった。
少なくともゼルゲ教授は、高見博士が何をしたのか知らないようだった。
裏がある事には気づいているものの、それを詮索しようとは考えていないらしい。
三上は高見博士の本性、真の目的をゼルゲ教授に伝えようとも考えた。
だが大町を人質にされている上、そもそも彼はまだ状況を伝えられるほどの英語力を身に着けていなかった。
三上は研究所に連れられて程なくして大町と再開していた。
彼女は昏睡状態だった。
救助隊にはベイズアザディの人間が紛れ込んでいた。
彼女ともう一人の生存者である梅宮に仮死剤か何かを与え、意識を奪ったようだ。
ベッドの上で静かに眠る彼女の姿を見た三上は、高見博士への全面協力を約束した。
三上はこれ以上自分の友人や知り合いが死ぬ姿を見たくなかった。
それはつまり、大町の命を救う為に世界中の人間の命を奪う事を選択したも同然だった。
故に三上は自らの意思で研究室に赴き、抵抗もせずに実験に協力していた。
研究室では、暇を潰すように高見博士が一方的に三上に話しかけていた。
「そう言えば、三上さんの体内に何故合衆国で厳重に保管されていたウィルス兵器が入り込んだのか、そのヒントが見つかったかもしれないよ」
三上は少し高見博士の話に興味を持った。
言葉は返さなかったが、視線を高見博士に向けた。
高見博士は三上がリアクションを見せた事に対して少し嬉しそうだった。
三上はその姿を見て、彼に対する憎悪だけを膨らませていた。
「SWARPAに三上さんが連れて行かれた時、君は彼らに企業リストを渡していたよね、君の会社の取引先の外国企業とか、関係者のリストを。リストはSWARPAに潜入していた内通者が入手してくれてたんだけど、最近それ確認してて、気になるところがあったんだ」
三上はその話の内容はもう頭に入ってこなかった。
働いていた時の事を思い出していた。
三上は社内には友人と呼べる存在は居なかった。
最初は10人居た同期達は、皆一年ほどで姿を消した。
そんな中で三上が唯一仲の良かった人間が一人だけいた。
外国企業との取引を行う時にのみ現れる通訳者の清水だった。
この清水という男はフリーランスとして通訳業を営んでいた。
三上は彼の性格や生き方にどこか憧れていた。
当時三上が最も恐れを抱いていた存在である部長に対しても、清水は物怖じせず意見をぶつけた。
商談の席では単に通訳をするのでは無く、相手の裏の意図や文化的な口上の解説までしていた。
そして仕事が終わればすぐさま帰宅する。
三上はいつからか、清水とよく飲みに行く程の仲になっていた。
彼も死んだのかもしれない、三上の頭にふとそんな事が過ぎった。
考えたくなくとも嫌でも彼の脳内には死が纏わりついてしまっていた。
清水は仕事柄、度々外国に訪れていた。
しかし今や地球全体が被感染地域である。
どこにいようが清水もきっともう生きてはいない、と三上は考えてしまい直ぐに気持ちが落ち込んだ。
三上はそれ以上思い出す事も考える事も止めて、怠惰な時間が過ぎるのを待つ事だけに専念した。
高見博士の話し声がそれを煩わせる。
「……と言うことでさ。多分それはクロだと思うんだ。CDCともSWARPAとも取引の形跡があるんだから。まぁ、僕としては結果オーライというかありがとうって感じだけど」
高見博士は日本語で三上に話しかけていた。
ゼルゲ教授に自分が何者か悟られないようにしているのだろう。
しかしこれは失敗だった。
ゼルゲ教授はかつて高見博士が少年だった頃、日本で彼の検査を行ったグループの一人だ。
その時の経験から、ゼルゲ教授は日本語を僅かながら理解する事が出来ていた。
そして、高見博士が検査の度に三上に話しかけていた内容から高見博士の裏の顔を知り始めていた。
※2017/01/15
表現の一部と誤字脱字の修正をしました。
高見博士のセリフの一部が頭おかしかったので加筆修正しました。