慰安旅行に行こう(2)
慰安旅行一日目。
旅館に無事着き、癒しの時間を過ごす……はずっだったのだが。
早速のトラブルが彼ら(と言うかハル)を襲う。
穏やかな日差し。
豊かに生い茂った木々。
優しい風が、心地よく頬を撫でる。
素晴らしき癒しの空間だ。
……普段なら。
「ここはどこだぁぁぁぁぁ」
ハルの絶叫は、虚しく緑の中へと消えていく。
つまりは、迷子だった。
今後の予定を話し合い、のんびり散歩をすることに決まった。
フロントでお薦め散策ルートを聞き、出発。
普段では味わえない自然を堪能していたのだが、事件は起こった。
木の根に足を取られたハルがバランスを崩し、
奈美に覆い被さるような形で倒れ込んでしまったのだ。
「あらハル君。昼間から大胆ですね」
「夜の予行練習かしらぁ」
この発言に取り乱した奈美の、
「いやぁぁぁぁぁぁぁ」
渾身の拳を腹に受け、ハルは漫画のように吹き飛ばされた。
そして、今に至る。
「はぁ、生きてるだけで儲けものだけどな」
諦めたようにハルは呟く。
豊かな木々がクッションになってくれたお陰で、奇跡的に軽傷で済んだ。
腹はかなり痛むが、動けないほどではない。
「とにかく、何とか旅館に戻らないと」
気を取り直し、周囲を確認。
木、木、木、見渡す限り木。
一切のヒントが無かった。
「……結構やばい?」
嫌な汗が一筋。
土地勘のない人間が、未開の森の中に一人。
食料無し、水無し、薄着の軽装。
「だ、大丈夫。まだ昼間だし、天気もこんなに……」
見上げた空には、いつの間にかどんよりと黒い雲が広がる。
湿度が急に上がり、雨を予感させる。
いくら何でも不条理だ。
「だ、大丈夫だ。雨が降っても命に直接の危機は……」
ふと、出発前に女将が言った言葉を思い出す。
「実はこの辺りには、熊が出没するんですよ。
と言っても山奥に入らなければ安全ですので、どうぞご安心を」
軽く目眩がし、近くの木に寄りかかる。
「ん、変な感覚が……」
体を離し、木を眺める。
木の表面には大きな爪痕が刻み込まれていた。
縦にハルの身長の程の、爪痕。
「あ~昔聞いたことあるな。確か熊はこういう習性があるって」
嫌な汗は止めどなく流れる。
確かこれは、縄張りのマーキングの意味があったはず……。
辺りの木を見ると、幾つか同様の爪痕があった。
「だ、大丈夫なはず。熊は臆病だからそうそう人前には……」
フラグは成立した。
どうやら今日のハルは、相当神様に嫌われているらしい。
ズシ、ズシ、ズシ
重厚な足音がゆっくりと近づいてくる。
その正体は……もう分かっていた。
「は、ははは。……俺死んだかも」
黒の毛皮に覆われた、四足歩行の獣。
紛れもなく、熊ご本人(?)だった。
「死んだふりとか……駄目だよな」
あたりまえだ。
そんなことをすれば、美味しく頂かれてしまう。
「こうなりゃ道はただ一つ、逃げるのみ」
熊に背を向けて、全力で逃げ出す。
因みに、これは熊に出会ったときのタブーだ。
熊は自分より弱いものに襲いかかる。
当然そんなことをすれば、
「ひぃぃぃ。追いかけてきた~」
となる。
「しかも意外と早い~」
泣きそうになりながらハルは走るのだが、ぐんぐん距離は縮まる。
実は熊は足が速い。
人間では到底逃げ切れない。
「やばいやばい。こうなったら」
一か八かの賭で、ハルは逃げ道にある手頃な木に飛び移る。
そのまま上へとよじ登っていく。
「こ、ここなら大丈夫……じゃな~い」
よじ登った木から下を見たハルは、悲鳴を上げる。
熊がハルの上った木に取り付くと、身軽に登り始めたのだ。
木登りも、熊から逃げる時のタブーだ。
熊は木登りの名人(?)。逃げ切れるはずもない。
「ちくしょぉぉ。とぉぉう」
迫る熊から逃れるように、ハルは木からジャンプ。
足がじ~ん、と痺れるが気にしてられない。
鬼ごっこの再開だ。
まあ、そんな無謀な逃走劇が長く続くはずもなく。
「むぎゅぅ」
ハルはあっさりと熊に捕まってしまった。
仰向けに倒れ込むハルに、熊が覆い被さる。
身長はハルとさほど変わらないが、力と体重が違いすぎる。
ハルは動きを封じ込まれた。
じっとハルを眺めた熊は、大きな口をゆっくり近づけていく。
「誰か、助けてくれぇぇぇぇぇ」
ハルの叫びも、虚しく響くだけ。
絶体絶命と思われたときだった。
「あれ、お兄さん?」
救い声は、予想外の人物から掛けられた。
青みがかったセミロングヘアーに、
美少女と言って差し支えない整った顔立ち。
浴衣姿と場違いな格好をしているが、紛れもなく、
「葵!」
休暇中のジャスティス職員、早瀬葵その人だった。
「お兄さんも温泉に来てたんですね」
「のんきに話してる場合か!この状況を見ろ」
ん~、と口元に指をあて考え込む葵。
「……熊と戯れている?」
「そんな微笑ましい状況あるか~!」
葵は本気で言ってるのだろうか。
それなら眼科と脳外科を紹介しよう。
「冗談ですよ、冗談。軽いジョークじゃないですか」
「流石に笑う余裕はないぞ」
葵の登場に警戒したのか、熊は動きを止めている。
この機を逃す手はない。
「とにかく、助けて欲しいんだけど」
「そうですね。これ以上からかっても仕方ないですし」
助かったら絶対仕返ししてやる。
ハルは固く心に誓った。
「じゃあまず、そこからどかしましょうか……てりゃぁ」
葵の回し蹴りが、ハルに覆い被さっていた熊の顔面に直撃。
重量感たっぷりの熊が、軽く吹き飛ばされる。
葵も常人離れしてるな~、とハルは改めて実感する。
しかし流石は熊。数m離れた場所で着地。直ぐこちらに身構える。
「滅茶苦茶殺る気満々って感じだな。何か手はあるか?」
「得物があれば瞬殺できますが、今は丸腰ですからね~」
呑気に笑う葵。
「ここは向こうに逃げて貰いましょう」
「どうやって? 火でもおこすのか」
「いいえ。こうします…………!!!」
葵は熊の正面に立ち、思いっきり睨み付けた。
ゾクッとハルの背筋が凍り付き、全身が硬直する。
直接視線を向けられた熊は、ハルの比ではないようだ。
怯えたように体を震わせると、一目散に木々の向こうへと逃げ去った。
「……ふぅ、終わりましたね。お兄さん大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫……じゃなかった」
極度の緊張から解き放たれたハルは、腰が抜けてしまった。
「それにしても……くすくす。お兄さんもだらしないですね」
「むぅ~、普通の奴が、殺気なんてもの受けたらこうなるだろうよ」
からかう葵に頬を膨らませるハル。
「お兄さんに向けた訳じゃないんですけどね。まあ、とばっちりです」
「結局助けて貰ったわけだし、文句は言わないけどな」
「素直なのは良いことです。
それに私も責任を感じて、ちゃんと旅館まで運んでる訳ですし」
「人としての尊厳も守って欲しかったよ……」
ハルは疲れた顔で呟いた。
腰の抜けたハルは今、葵に連れられて旅館へと向かっていた。
お姫様抱っこをされたまま。
「我が儘言わないで下さい。自分より背が高い人をおんぶするのは大変なんです」
「はぁ~。ローズは仕方ないとしても、まさか葵にされるとは……」
筋骨隆々の大男にされるより、自分より小さな女の子にされる方が辛い。
情けなさと恥ずかしさが半々の気持ちだ。
「もうすぐ旅館に着きますから、辛抱して下さい」
「そうだな」
何にせよ、迷子から助けて貰った事は大感謝だ。
「ところでお兄さん、どうして温泉にいるんですか?」
「それは、かくかくしかじか、で」
「なるほど。会社の慰安旅行でしたか」
伝わってしまった。
言ってみるものだとハルは感心する。
「じゃあ葵はどうして温泉に?」
「私は、まるまるうまうま、です」
「そうだったのか。良い上司だな」
いや~伝わるものだね。
長~い説明を省けるのは助かる。
これを考えた先人は本当に偉大だと改めて思う。
「……会社の慰安旅行なら、私は関わらない方が良さそうですね」
「ん、どうしてだ? 葵は奈美の妹だから別に構わないんじゃ」
「正義の味方が一緒じゃ、気が休まらないと思いまして」
葵の言葉に、ハルは沈黙する。
色々深読みできてしまう発言だった。
「……どういう事かな?」
「お兄さんの考えている通りだと思いますよ」
嫌な沈黙が訪れる。
葵がハル達の正体を知っているのか、否か。
メイド喫茶の時と違い、ボロを出すことは許されない。
ハルはじっくりと思考を巡らせた。
「葵は……警官みたいなもんだしな。一緒にいると羽目が外せないか」
未成年の飲酒とかな、とハルは少しおどけて言う。
「そうですね。立場上それは見逃せませんし」
ハルにあわせるように笑う葵。
それ以降会話が途切れ、二人はしばし無言で旅館へと向かう。
「お兄さん、一つ聞いてもいいですか?」
「ん、いいけど」
旅館まで後少し、というところで葵が不意に尋ねる。
「お兄さんと姉さんは、何処までいったんですか?」
「…………はい?」
予想外の問いかけに、ハルは間の抜けた声を返す。
「姉さんと同じ布団で、一夜を共にしたんですよね」
「な、なななな。何でそれを」
ハルは思いきり動揺する。
あの事はハピネスの幹部しか知らないはず。
まさか監視されていたのだろうか。
「姉さんから聞きました」
「あの馬鹿……」
ハルは頭を抱える。
情報提供者は、まさかのご本人だった。
「突然電話が掛かってきまして。それはもう、盛大にノロケられました」
「……大変だったな」
「本当ですよ。携帯の電池が切れるまで数時間、エンドレスでしたから」
それを思い出したのか、葵は大きなため息をつく。
「それで、お兄さん。どうだったんですか」
「どうって……。奈美から話を聞いたんだろ」
しかし葵は悲しそうに首を横に振る。
「一緒に寝た、一緒に街に繰り出した。それだけを延々と……」
「何て言うか……本当にごめんなさい」
「いいんですよ、もう」
疲れた顔の葵に、ハルは本心から同情した。
「なるほど……そう言う事だったんですか」
ハルが簡単に説明すると、葵は納得したように頷く。
説明には五分と掛からない。
どうやったら数時間もしゃべり続けられるのだろうか。
「姉さんとお兄さんは、恋人になった訳じゃないんですね」
「奈美とは職場の同僚で、そうだな……悪友みたいな感じかな」
「じゃあ、お兄さんって今フリーですか?」
「まあそうだな」
ハルの答えに葵はニコニコしながら頷く。
そんな話をしている間に、二人は旅館へと到着した。
「ハルちゃぁぁん。無事だったのねぇぇぇ」
「無事で何よりです」
「雨が振りそうだから心配したぞ」
「怪我とかしてませんか?」
旅館に着いたハルを出迎えるハピネスの面々。
無事な様子に安堵する一同の中、
「……どうして葵と一緒にいるの」
もの凄く不満げな顔をする奈美。
「あのな、お前が……」
「姉さんが吹き飛ばしたお兄さんを、私がお救いしたんですよ」
ハルの言葉を遮って、葵が挑発的に言う。
「そ、それは色々と事情があったのよ。
それより、なんで葵がこの温泉にいるのよ。仕事はどうしたの」
「かくかくしかじか、です」
葵はさっきと同じ台詞を繰り返す。
「あらそうなのぉ。優しい上司がいるのねぇ」
「美園もなかなか気が利きますね」
「上に立つものとして、見習わなくては」
「そう言う事情だったんですか」
伝わった面々と、
「???????」
何故か駄目だった奈美。
個人差があるのだろうか……。
そんな奈美に、葵は呆れたように、
「私は上司の指示で、ここに休暇に来てるんですよ」
ため息混じりに簡潔な説明をした。
「散歩をしていたら、お兄さんが熊に襲われてたので」
「葵に助けて貰ったんだ。道も分からないから、連れてきて貰った」
なるほど、と頷く一同。
「事情は分かったけど、どうしてお姫様抱っこなのよ」
もっともな疑問だ。
だが正直に話すのは何とも情けない。
「あ~それはな~、熊に襲われたとき、ちょっと歩けなくなってな」
「ハルさん。怪我をされたんですか」
心配そうな柚子。
「いや、怪我はしてないんだけど……」
「お兄さんはね、ビックリして腰が抜けちゃったんですよ」
葵は悪戯っ子の様な笑顔で告げた。
気まずい沈黙。
そして、
「「特訓だ!」」
全員(柚子除く)の声が重なった。
「熊くらい自力で倒してくれないと困ります」
無茶な事を仰る千景。
「腰は色々と大事なのよぉ。しっかり鍛えてあげるわぁ」
恐ろしいことを言うローズ。
「全く情けない。ハピー降格も考えなければ……」
久しぶりに恐怖の黒タイツを思い出させる紫音。
「帰ったら私が徹底的に鍛え直すから、覚悟しなさいよ」
どこか少し嬉しそうな奈美。
「じゃあ私は、熊に会ったときの正しい対処法を教えますね」
周りに感化されたのか、何故かやる気の柚子。
ハルは心底思う。帰りたくないと。
「じゃあお兄さん。私はそろそろ失礼しますね」
葵はハルをロビーの椅子に座らせると、素早く離脱する。
「無事に生き残ったら、今度は私とデートしましょうね~」
ウインクを一つ、葵は足早に部屋の方へと戻っていく。
大きな爆弾を残して。
「ハル……葵の言葉は、どういう事かしら?」
「ハルさん。私も是非聞きたいです」
拳を握る奈美と、笑顔の柚子。
爆弾の処理には、大分時間がかかりそうだ。
妙に女の子に人気のハルに、少しだけ意地悪です。
まあ痛い目にもあっているのですが……。
葵がハピネスの事に気づいているのかは、ご想像にお任せと言うことで。
熊に関しては、結構いい加減なことを書いてます。
正しい知識が欲しい方は、是非お調べ下さい。
次回も慰安旅行の続きです。
一話につき一人にスポットを当てて書けたらな、と思っております。
次回もまたお付き合い頂ければ、幸いです。