悪の組織へようこそ(3)
そして、時は流れた。
気が付けば、既に日は沈み、空には月が憎たらしく輝いていた。
「はぁ〜」
窓から見える景色を眺めながら、ハルは心底疲れたため息をついた。
そういえば、昼から何も食べていない。
さっきから空腹を訴える腹が、主を呼び続けている。
だが、その願いを叶えることは出来ない。
手を当てて慰めることも出来ない。
なぜなら、
「……動けない」
両手両足を椅子に縛り付けられていたからだ。
いわゆる一つの、監禁だった。
六畳一間の殺風景な部屋。出口はドアと窓一つ。
頑張れば逃げられる。
縛られてる縄から抜け出す特技をハルは持っている。
しかしそれを披露する機会は無かった。
何故なら、
「なあ、お前ずっとここにいるのか?」
「黙れ、変態!」
見張りの女が付きっきりで部屋の中にいるからだ。
年はハルよりも三つ四つ下だろうか。
茶色の髪はショートカット。つり目で勝ち気な表情をしている。
これが普通の女ならば、強行突破も有りだろう。
だが、ハルは身をもって知っていた。
絶対に勝てない戦いがここにはある、と。
あの後、少女を追いかけたハルは、苦労の末少女の確保に成功した。だが、いやがる少女の手を無理矢理掴む男と言う構図になったのはまずかった。少女の悲鳴を聞き、現場へ駆けつけた女が、ハルに強烈な回転回し蹴りのを叩き込んだ、と言うわけだ。
意識を失ったハルは、あのアパートの一室へと連れ込まれ、現在に至る。
攻撃を受けた側頭部は、今もかなりの痛みが残っている。もし彼女が本気で蹴っていたら、今頃はお花畑を流れる川を渡っていただろう。
今この場で逆らうのは得策ではない。
ハルはただ、救いの手が来るのを待っていた。
事情を知っていて、このアパートの住人のローズなら、きっと自分を助け出してくれると信じていた。いや、信じずにはいられなかった。
「まあ、待つしかないか」
さらなる持久戦を想定していたが、決着は意外と早く訪れた。
コン、コン
控えめなノックの音が聞こえた。
「は〜い、どうぞ」
見張りの女の言葉に、ドアがゆっくりと開く。
部屋に入ってきたのは、ハルの想像していた人物では無かった。
きれいな女の人だった。
腰まで伸びた、黒髪のストレートヘア。吸い込まれそうな漆黒の瞳。穏やかにほほえみを浮かべるその表情に、ハルは見とれていた。
「あ、千景さん」
見張りの女が声をかける。
「ご苦労でした、奈美。後は私が引き受けるので、貴方は少し休みなさい」
「えっ、いえ……全然平気ですよ。それに、こんな変態を千景さんと二人きりにさせるわけには……」
「大丈夫ですよ。さぁ、後は任せて休んでください」
穏やかな、それでいて拒否を許さない声だった。
「はい……。わかりました」
奈美、と呼ばれた女は渋々と言った顔で従う。そして部屋から出て行き際、
「おい、変態。千景さんに手を出したら、原型が無くなるくらい壊すからな」
きちんと捨てぜりふを残していった。
なかなか逞しい。
さて、それよりも問題なのはこの女性だ。
てっきりローズが来てくれるものだと思っていたハルは、期待と不安が入り交じった表情で女性を見つめた。
かなりの美人だ。
年はハルよりも上、二十代半ばだろうか。
落ち着いた雰囲気が、年齢以上の貫禄を彼女に与えている。
「紫音と剛彦、それに奈美がご迷惑をおかけしたようですね」
女性が申し訳なさそうな顔をする。
「いや、迷惑ってほどの事じゃ……」
無いとは言い切れないのが、辛いところだ。
「剛彦から事情は全て聞きました」
「……剛彦?」
思わず聞き返す。
紫音、というのはあのワンピースの少女だろう。
さっきの会話から、あの見張りの女が奈美、と言う名前なのは分かる。
だが、剛彦という名前には心あたりがなかった。
「あら、貴方をここに連れてきたのは剛彦だと伺っていますが」
女性の言葉にハルは硬直した。
自分をここに連れてきた人物は知っていた。
究極の肉体を持ち、自らをローズと名乗る、その筋の人。
「――なるほど」
そんなハルの様子で、全てを察してくれたようだ。
「まあ、彼は変わった趣味の持ち主ですから。
でも、とってもいい人ですよ」
それは百も承知である。
「とにかく、彼から事情は聞きました。貴方に非がないことも分かっています」
そんな女性の言葉に、ハルは心底安心した。
きっと直ぐに縄をほどかれて、解放されるはずだ。
そんな甘い希望は、
「でも、貴方を解放する気はありませんよ」
にっこりと笑う女性に見事に砕かれた。
「ちょ、ちょっと待ってください。今の話の流れなら、直ぐに解放されるんじゃ……」
「ええ。普通なら。でも私たちは、ちょっと普通じゃないんですよ」
とんでもないことを言い出しやがった。
「紫音から聞いてません? 私たちは、悪の組織だって」
暫く忘れていた単語が出てきた。
確かに、最初の方でそんなことを言っていたような気がするが。
「スカウトは紫音が勝手にやったことなのですが、人手が足りないのは事実でして。是非とも参加して欲しいのですが」
「……嫌だと言ったら」
「もちろん無理に、とは言いません。ただ」
女性はそこで言葉を句切り、
「首を縦に振るまでこの部屋で暮らすことになりますけれど」
恐ろしいことをさらりと言ってのけた。
「そいつは困る。明日は大学があるし、バイトだって――」
「その心配はいりませんわ。どちらも辞めておきましたから」
にっこりと微笑む。
「……な、何言ってるんだ。辞めたって、本人の許可もなく――」
「いえいえ。それが最近は委任状というものがあれば、大抵の事は出来るんですよ」
ヒラヒラと書類を見せる。
全権を委ねる、というハルの筆跡そっくりの文章に判子。
偽造したのだろう。それもかなりの精度で。
「……最悪だ」
「ああ、それとアパートの契約も解除しておきましたから」
ついに帰る家さえも失った。
家なき子……ってわけだ。
同情するならこの状況を何とかしてくれ。
「貴方に残された選択肢は、二つあります。
一つ、全てを失ったまま、この部屋で一人寂しく死ぬ。
一つ、悪の組織に参加するか。
文字通り、生死をかけた選択肢です。しっかり選んでくださいね」
女性はやはりにっこりと微笑む。そして、
「ああ、ちなみに」
さも、今思い出したと言う前振りをして、
「悪の組織といってもきちんとお給料は出ますよ。
このアパートも職員用の貸家ですから、格安で住むことができます」
恐ろしく強いカードを切ってきた。
ハルの迷いを断ち切るのに十分な条件だ。
そもそも生か死なのだから、迷うことも無いのだが。
やっぱりどこかプライドというか、変な意地を張ってしまう。
そんなハルの様子を見て、女性は最後の一押しをする。
「あまり時間もないので、後三秒以内に返事がなければ不参加、と言うことで。
三、二、一」
「参加します」
「はい、よくできました」
できの悪い生徒を褒めるように、女性は微笑む。
「それでは、今日はもう遅いですし、詳しい話はまた明日にしましょう。これを受け取って下さい」
女性から渡されたのは、二本の鍵だった。
「貴方の部屋は三階の一番奥です。
前のアパートにあった荷物は全部運び込んでありますので、安心して下さい」
「……あの、初めからこうなることが分かってたんですか?」
ハルの問いかけに、女性はやはり微笑みを浮かべて、
「ふふ、どうでしょう」
瞬間、ハルは悟った。
この人には決して逆らってはダメだと。
悪の組織における、この両名の関係が確立された瞬間であった。
こうして、ハルは悪の組織への第一歩を踏み出した。