悪の組織へようこそ(2)
「はい、到着よぉ」
男の足が止まったのは、ぼろいアパートの前だった。
「ここ、私の家なのぉ」
うふふ、と微笑む男に、ハルは突っ込む気力すら無かった。
お姫様だっこから解放されて男に横に立つと、男のでかさが改めて分かる。
大人と子供。ヘビー級とミニマム級。トムとジェリー。
まあ、最後のは違うとしても、それほどの差がハルと男にはあった。
「さぁいらっしゃい。私の部屋はこっちよぉ」
男に導かれるままに、ハルはアパートへと入っていく。
木造3階建て。大分年季の入った建物だった。一歩進むたび、床がギシギシと耳障りな音を立て、壁にはひび割れが目立つ。
キシ、キシ、キシ
メキィ、メキィ、メキィ
ハルの足音をかき消すように、男が一歩踏み出すたび、床板が悲鳴をあげる。
抜けたりしないだろうか……。いや、床が抜けて男がはまってくれないだろうか……。
「はぁい、ここよぉ」
ハルが希望した出来事は残念ながら起こらず、男の部屋に到着してしまった。
もう諦めた。
無駄な抵抗は一切やめて、治療を受けてとっとと帰ろう。
もうハルは悟りの境地へと至っていた。
人によっては諦めの境地とも言うが……。
「いらっしゃ〜い」
男に導かれて、部屋の中へと入り、そして、
「……………………」
一瞬、ハルの意識は一面お花畑の世界へと飛んでいた。
見ることを、入ることを、そして説明することを拒否する部屋の中。
ただ一つ伝えられるのは、ピンクだった、と言うことだ。
「あらぁやだぁ。乙女の部屋をキョロキョロ見ちゃダメよぉ」
呆然と立ちつくすハルを、どう勘違いしたのか男は頬を赤らめる。
「さぁ、手を出して」
男は部屋の真ん中に座る。脇には救急箱が置かれている。
ハルは無言で左手を差し出す。
意外なことに、男の治療は的確で手際が良かった。
ぬるま湯につけた布巾で傷口の汚れを拭き、消毒。バンドエイドを張って治療は完了。
「はい、これで終わりよぉ。他に痛むところは無いかしらぁ」
「ええ。……ありがとう」
「いやだわぁ。お礼なんていいのよぉ。元々悪いのは私なんだしぃ」
おばさんのように手を振る男。
「それに、女の子なんだし、跡が残ったら大変でしょ?」
ああ、そういえば大事なことを思い出した。
誤解は解いておかなくてはならない。
「おじさん、その事だけど……」
「ローズ」
「へっ?」
「私のことは、ローズって呼んでぇ。お・ね・が・い」
人差し指を左右に振り、ウインク一つ。
見た目三十過ぎの男が何を言うのだろうか。
ハルは、何だかもうどうでも良くなってきた。
「はぁ、まあいいですが……。それじゃあ、ローズさん」
「何かしらぁ」
「俺は男だ」
ようやく言えた。達成感がハルを包む。
だが、
「いやだわぁ。冗談ばっかりぃ」
信じてはもらえなかった。
「いやいや、冗談じゃないって。ほら、髪だって」
帽子を取って見せた。
「あらベリーショートなのねぇ。うん、とっても似合ってるわぁ」
「あ〜〜も〜。こうなったら」
ハルは最後の手段に出る。
シャツのボタンをはずし、上半身をさらけ出した。
「ほら、胸もないだろ! これで分かっただろ。俺は男だ」
これ以上にない証拠。だがしかし、
「あなたも苦労してきたのねぇ。でも平気よぉ。女の価値は胸じゃ決まらないわぁ」
男は涙目になりながらハルの頭をなでる。
どうやら、胸がないから男の振りをしている女の子、とでも思われたらしい。
「……こうなったら、最後の手段」
ハルはベルトに手をかけ、禁じ手を発動しようとして、考える。
確かに、これをやれば絶対に男だと証明できる。
男にしかないものを見せてやれば良いのだから。
だが、冷静になれ。
この男は、多分、いや絶対にその筋の人だ。
そんな人の前であれをさらしても平気だろうが。
否。断じて否。
それこそ男としての一大事では無いか。
過去に味わったことのない貞操の危機。回避は難しい。
ならば――。
「それでは帰ります。どうも、お世話になりました」
ハルの決断は即時撤退だった。
「あらぁ急ねぇ。お茶でも飲んでいかない?」
「いえ、これから用事もあるので……」
これ以上この場に留まるのは危険すぎる。
「そう、残念だけど仕方ないわねぇ」
男は本当に残念そうな顔をする。
そう、この人はいい人なのだ。
出会い方さえ、性別さえ違っていれば、よい友達になれただろう。
ハルがそんな事を考えていると、
「おーい、剛彦。いるかー」
部屋の外から聞こえてくる声と共に、部屋のドアが開かれた。
開かれたドアの向こうには、ハルに見覚えのある少女が立っていた。
青いウエーブのかかった髪、ふりふりのワンピース。
喫茶店で会ったあの少女だ。
少女は驚いた表情で部屋の中を見る。
ピンクの部屋。
その筋の男。
上半身のシャツをはだけた、女顔の華奢な男。
部屋の中央で向かい合っている二人。
非常にまずい状況だった。
少女の顔が見る見る赤くなり、
「ご、ごゆっくり」
ぱたん、と遠慮がちにドアは閉められた。
「ち、違ーーーーーう!」
ハルの涙混じりの叫び声が、アパート中に響き渡った。