可愛い保険医探します(4)前編
保険医探しの完結編です。
長くなったので、前後編でお送りします。
結局、保険医捜索は振り出しに戻った。
葵と話をしている間に、随分と歩いてしまったようだ。
気づけばハルは、人気のない町外れにまで来ていた。
「取り敢えず、一旦基地に戻るか……」
有効な手段が無い今、これ以上の探索は効率が悪すぎた。
それならば一度みんなで集まって、情報交換をしようとハルは考えた。
「それじゃあみんなに連絡を取って……」
「あの、すみません」
声は、ハルの背後から聞こえた。
取り出そうとしていた携帯をしまい、ハルは振り返る。
誰もいない。
気のせいか、と再び前を向き、
「あの、すみません」
またも声が聞こえる。
再び振り返るが、やはり誰もいない。
気のせいか、と再び前を向こうとして、ふと気づいた。
視線を下にスライドさせる。
そこには、小さな女の子が立っていた。
「あの、すみません」
少女は三度同じ言葉を口にした。
年は紫音と同じか、少し上くらいだろうか。
灰色がかった黒のお下げ髪、栗色のクリッとした瞳。
ハルの腹くらいまでしか背の無い、小さな少女は、何かを訴えるような目でハルを見ていた。
「何か用かい?」
ハルの問いかけに、少女は、
「あの……た、助けて下さい」
泣きそうな顔でハルに告げた。
「落ち着いて。何があったんだい?」
出来る限り少女を落ち着かせようと、ハルは優しく聞く。
しゃがんで目線の高さを合わせることも忘れない。
「変な人に……追われてるんです」
「変な人?」
「はい……Tシャツをきて、ジーパンをはいていて、ポスターがはみでたリュックを背負っていて、太ったメガネの男の人です」
そいつは一大事。
ある意味では少女の天敵だろう。
「なるほど。そいつは大変だ……。で、そいつは何処にいるか分かるかい?」
「……あそこです」
少女が震える指先で指し示す。
人通りのほとんど無い街道。
その建物の影から、一人の男がじっとこちらを見ていた。
血走った目、荒い鼻息。
いろんな意味で怖かった。
「変な奴は……あいつ一人?」
ハルの問いかけに、少女は頷く。
正直、喧嘩は得意ではない。
体格的な面からも、男はハルの倍以上の体重があり、上に乗られたら終わりだ。
だが、このまま少女を見捨てることは出来ない。
ハルは心の中でため息をつきながら、男へと近づいていく。
「おい、あんた」
「な、何なんだよ」
ハルの問いかけに、明らかに動揺した態度をとる男。
見るからに怪しかった。
「あの子を追いかけ回してるんだってな」
「ち、違うぞ。ただ、僕の行き先に彼女がいるだけなんだな」
屁理屈をこねる。
ブクブクと太った肥満体の男。
たるんだ顔は、絶えず流れる脂汗で常にしめっていた。
「じゃあ、あの子は暫くここにいるから、あんたは自分の行き先に行けよ」
「ぼ、僕も暫くここにいるつもりだったんだな」
段々とむかついてきた。
ハルはイライラを何とか抑え、冷静に話を進める。
「そんじゃ、俺はあの子と行くから、あんたはここに居ればいいさ」
「なっ……ず、ずるいんだな」
言いがかりも良いとこだ。
ハルはふぅー、と大きく息を吸うと、
「あんた、いい加減にしろよ。これ以上訳分からないこと言ってると……」
「うるさい!お前なんか……死んじまえ!!」
ハルの言葉に、男は切れた。
全く、最近の若者は……と余裕を見せる暇はない。
男の手には、銀色に輝くナイフが握られていた。
「……刃物は反則でしょ」
正論だが、切れた男には効果は無い。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
雄叫びをあげながら、男はナイフを振り回す。
無茶苦茶な動きだから、逆に動きが読めない。
「うおっ、ほいっ、よいしょっと」
小さな切り傷を作りながら、何とかナイフを避ける。
漫画やアニメの主人公なら、あっさり撃退できるのだろうが、こちとら一般人に毛が生えた程度の素人+。ナイフなんか出されたら、命がけだ。
何とかナイフを避けていたハルだが、一瞬動きが鈍った。
その瞬間、
サシュッ
なぎ払われたナイフが、ハルの左手の二の腕をサックリと切り裂いていた。
「っっっっ」
想像を超える激痛に、ハルは声にならない悲鳴を上げる。
フィクションだと、傷を負いながらも戦いを続けるのがセオリーだが、無理だ。
この痛みには耐えきれない。
ハルは右手で傷口を押さえ、苦痛に顔を歪める。
「へへへえ、いい気味なんだな。僕の愛を邪魔するから、こうなるんだな」
動きが止まったハルを、見下すように男が言う。
言い返したいが、その余裕すらない。
情けない、とハルは思う。
仮にも悪の組織の幹部候補生が、一般人相手になんてざまだ。
思わず自虐的な笑みを浮かべる。
「ん、何なんだな、その顔。まだ余裕ってことなのかな」
その笑みを、男は違う意味で受け取ったようだ。
収まっていた殺意が、また膨らむのを感じる。
正直、やばかった。
危険な血管を傷つけたのか、血は止めどなく溢れ出る。
貧血状態で、くらくらと目眩までする。
「今、トドメをさしてあげるんだな」
男がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて接近してくる。
油断しているのか、ナイフを持った右手は、ぶらぶらとさげた状態だ。
チャンス。
「こんにゃろぉぉぉ!!」
血が流れ意識がぼやけたお陰で、痛みも感じにくくなったのはありがたかった。
右手を渾身の力を込めて、近づく男の腹へと打ち込む。
奈美がドクターへ放った掌低のモノマネだ。
だが。
ボヨヨ〜ン
男は吹き飛ばなかった。
何十にも重なった脂肪の層が、怪我で威力が半減した、モノマネの掌低を防いでしまった。
「ぐっふっふ、今何かしたのかな」
万策尽きた。
ゆっくりと振り上げられるナイフ。
そして、勢いをつけ、一気に振り下ろされた。
死を覚悟したハル。
だが、振り下ろされたナイフは、ハルの額、数センチ上で静止していた。
「危ないところでしたね、お兄さん」
一番会いたくなかった援軍が、ニッコリとハルに笑いかける。
と言うか葵さん。ナイフの刃を素手で掴んでますけど。
「な、何なんだなお前は!」
突然現れた葵に男は動揺を隠せない。
そんな男に冷たい視線を向けると、右手で掴んだナイフを男から奪い、遠くに放り投げる。
「取り敢えず、死んでください」
右手に左手を添えて、男の腹へ掌低を叩き込んだ。
ボヨヨヨ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン、メキメキメキメキ、ボキン!
男の脂肪の層を突き抜け、肋骨の折れる嫌な音が響いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ」
悲鳴を上げて、崩れ落ちる男。
暫く道路の上で悶えていたが、やがて失神したのか動かなくなった。
一撃だった。
正義の味方にスカウトされるくらいだから、ただ者ではないと思っていたが、ここまで圧倒的な力を持っているとは思わなかった。
「お兄さん、大丈夫ですか?」
そんなハルの視線に気づいたのか、葵はうずくまるハルに近づく。
葵の出現で忘れていたが、実はかなりの重傷だ。
刃渡り十センチくらいのナイフで、サックリと切り裂かれてしまったのだ。
今も止まることなく、血が流れ続けている。
「大丈夫じゃなさそうですね……。どうしましょう」
残念ながら、葵は応急処置のスキルを持っていないようだ。
「……どうやら……年貢の納め時のようだ……」
「馬鹿な事言わないでください」
「眠らせておくれ、パトラッシュ……」
「絵も見てないくせに、死なないでください」
突っ込みどころはそこですか……。
そんな馬鹿な会話をしている二人に、
「死なせはしません」
恐ろしく冷たい声がかけられた。
二人が視線を向けると、そこには先ほどまで、男に追われていた少女が立っていた。
だが、
「な、何か雰囲気が違うぞ……」
「種が割れた感じですよね。……覚醒?」
二人が動揺するほど、少女の様子は異様だった。
栗色の瞳は一切の感情が無くなったように、冷たく濁る。
さっきまでの怯えは微塵も見えず、人形のように無表情だ。
「…………」
少女はハルの傷口をちらりと眺めると、
「……まずは止血します」
持っていたポーチから糸を取り出す。
ヒュン、と糸が風を切る音が聞こえると同時に、傷口からの出血が止まった。
「……続いて縫合へと移行します」
機械的に呟き、少女は持っていたポーチから今度は針を取り出す。
糸を針に通し、傷口を凝視する少女。そして、
「縫合……開始」
まさに一瞬だった。
少女が何をしたのか、ハルには理解できなかった。
唯一分かったのは、少女の動きが止まったとき、ハルの左手の傷は完全に塞がっていたと言うことだ。
「縫合……完了」
一切の感情はなく、ただ事実のみを告げる。
少女が治療を開始してから、数分も経っていない。
まさに神業だった。
「あ、ありがとう……」
「あなた、凄いのね」
「この程度の治療は何の問題もありません」
少女の言葉は、嫌みでも自慢でもない。
ただ、事実なだけだ。
そんな少女の様子に、言葉を発せない二人。
すると、徐々に無表情だった少女に変化が見え始める。
「…………ふみゅぅ」
瞳には光が戻り、表情は固まった氷が溶けるように、柔らかさが戻った。
「戻った……」
「のかな?」
ハルと葵が恐る恐る様子をうかがう。
少女は完全に元の状態に戻ったようだ。
自分をじっと見ている二人に気づき、ハルの左手の傷に気づき、
「は、はわわ。……私またやってしまいました」
ひどく落ち込んだ。
何が何だか分からない。
三人が三人とも、混乱していた。
「取り敢えず、どこかお店にでも入りませんか」
だから、こんな葵の提案は、まさに渡りに船だった。
後編へと続きます。