第七話 知らなければよかった事
一ヶ月半経った。
それは何でもない平日の日だった。
午前六時五十分起床。
制服に着替えて顔を洗って髪の毛をちょこちょこ整える、所要時間十分…男の朝の準備なんてこんなもんだ。
「おはよう、リュウちゃん」
リビングに行くと母さんが笑顔で向かえてくれる、この心からの笑顔を向けられるだけで一日頑張れる気がする…というより、この笑顔を見ないと一日が始まった気がしない。
八神に会う前はもう三十分くらい寝ていたので最初はキツかったけど、最近はすっかり慣れてきてしまった。
覚醒しきらないまま食卓に座って、母さんの作ってくれたトーストにかぶりつく。河本家の朝食はパン党。
朝食と準備を済ませると、さっさと家を出る事にする。
「兄ちゃん、今日も早いなぁ…毎日毎日よく続くね」
起きてきた竜仁に声を掛けられる。
中三のくせに髪の毛は濁りまくったグレー?竜仁曰く『そりっどあっしゅ』というものらしい…俺にはよく解らないが顔がほとんど同じの弟とモテるモテないの差が出るのは、どうやらそういう事らしい…
「もう完全にハマっちゃってるね」
にやにやと皮肉めいた事を言う竜仁、くそ生意気だが、何も言い返せない。兄として朝からやるせなくなる。
午前七時五十分。
清海電鉄清海線、久住ヶ丘駅。自転車を走らせその北口に到着。
見るからにショボい駅前はロータリーすら無い。バス停に横たわるだけの駅前、その駅前を囲む様にいくつかの飲食店が軒をつらねている。
飲食店の一画にある『居酒屋はつみ』。俺の目的地はここ。
「あら河本さん、おはようございます」
今日二度目…いや二人目の心からの笑顔…
八神初美さん…八神のお母さんだ。
俺の母さんと同じ位の年齢だとは思うが、どう見ても二十代にしか見えない…いつも和服を着ていて如何にも日本美人といった感じだろうか…
八神と知り合って一ヶ月…最近では母さんと同じくこの笑顔を見ないと一日が始まった気がしない。
「なっちゃん起きてるから呼んできますね」
そう言うと、せかせか呼びに行ってくれるお母さん…最近は俺への挨拶とこの役目の為にいつも店の前で待っていてくれている。
思えばこの人の為に八神に踏み込んだのが始まりだった…
俺の母さんと同列かそれ以上の過保護の代表の様な八神のお母さん…
あの時に俺が八神の友達を拒否していたと思うとゾッとする…この人の悲しい顔は母さんの悲しい顔と同じ位に見たくない。
「……ねみ…」
しばらく待っていると、物凄い眠そうな八神が降りて来た。
俺はとりあえず挨拶してやる。
「…ん…ああ…」
軽く一瞥しただけで、のそのそ俺の自転車の後ろに座る。
何とも味気ない…しかしだ…よく考えてみると最初の頃は反応すら攻撃的だった八神が相槌を打つだけでも多大な進歩とは言えまいか…ポジティブだ、ポジティブで行こうじゃないか。
八神のお母さんに送り出された俺達は学校に向かう。
俺の自転車でだ。もちろん運転は俺、後ろの荷台には八神。
八神は眠いのか、完全に俺の背中に身を預けている。一応手を回して俺にしがみついてはいるみたいだが、後ろからはおもいっきり寝息が聞こえてくる。
はっきり言って危ない。まぁかなりのんびり走っても間に合う時間なので俺が気を付ければ大丈夫だろう………というより、この完全密着体制を早々に逃してしまうのは実にもったいないのが……いや、何でも無い…聞かなかった事にしてほしい……すいませんした。
午前八時十五分…学校到着。
徒歩の生徒達をすり抜けて駐輪場に向かう。
ちなみにこの時、俺は自転車を降りている、朝一から二人乗りで校内に突入したら風紀委員がすっとんで来る。
という訳で俺は自転車を押している訳だが、八神は荷台に乗ったまま…
器用に寝たままでバランスを取っている…仕方ないので駐輪場にご招待する事にした。
しかししかし…
最近は毎日だが、学校に入るとどうも気分が落ちる…
周りからの視線…俺に向けられてるのか八神に向けられてる解らないが、どの視線もいい視線では無い…
良い悪いのでいえば間違いなく悪い視線…奇異の視線…非難の視線…軽蔑の視線…同情の視線…嘲笑の視線…
たまったもんじゃない…
駐輪場に到着。さっさと八神を起こして教室に向かわないと遅刻になってしまう。
揺さぶって起こしてみる。
「……んああ!うっざい!うっざいわ!たわし亀の子が!」
たわし亀の子?
亀の子たわし?
ぺって手を叩かれて睨まれる。俺は何とも言えない脱力感に襲われる…まぁ毎日の事だけど。
気にしたら負けだ…気にしたら負けだ…
「あに、ぶつぶつ言ってんやん、行くぞ?下僕」
非難めいた顔しながらすたすた先に行ってしまうご主人…慌てて着いて行く俺。
嗚呼…身も心も染まってきた気がする。
午前八時二十五分…予鈴。
クラスの違う八神と別れ、自分のクラスに入る。
俺が教室に入ると、みんなの雑談が止まる。誰もが空気を変えた俺と目を合わせようとしない。
疎外感……
今までなら誰かしらが挨拶をしてくれたのに…
最初の頃は俺をかばう様にしてくれていたクラスメイト達…今では俺も八神と同じく疎外する様になっていた。
「よぉ、おはよう」
でもケンジだけは違った。いつも通りに挨拶をしてくれる。
元々特に仲のよかったのはケンジだけ。クラスの連中とは挨拶を交す程度だった。
でも不意に襲った疎外感は堪えがたい苦痛だった。
八神がいつも一人で受けてきたものだ。八神の為を思うと八神から離れるのは絶対に嫌だとは思う…でもケンジが居なければ俺はくじけていたかもしれない。
ケンジは要領が良いので疎まれてる俺と仲良くしていても周りからのやっかみを上手くかわしているみたいだ。とてもじゃないが俺には真似出来ない。まぁ俺のせいで…っていう不安は無くて助かるけど。
「何だよ…元気無いな?八神と喧嘩したのか?」
少しふてり気味に俺が挨拶を返すと、ケンジはにやにやと俺をからかおうとする。本当に今まで通り…クラス全員に疎まれたとしても心が暖かくなれた。
気持ちを切り替えて俺もいつも通りにおどける。
周りの視線は気になったが、そんなのはどうでもよくなった。
午後十二時二十分、昼休み。
俺は授業終了と同時に購買に駆け込み、カフェオレとレモンティーを購入。急いで中庭に向かう。
もちろん八神と昼食を摂る為だ。
「何やん、ハァハァしてキモいな」
急いで来たお陰で息を切らしている俺に本気で嫌そうな顔で言う八神。遅いと怒るくせに…と心の中でだけ反抗して隣に座る。
買ってきたカフェオレを渡してやると嬉しそうに飲み始める八神…米メインの弁当にはまず合わないと思うのだが、八神の飲み物は絶対カフェオレだった。機嫌が悪い時も買ってやるとすぐに機嫌を直してくれる。よっぽど好きらしい…
一二年校舎、三年校舎、特別棟、部室棟に囲まれた中庭。その中庭の中にある植え込みに囲まれた芝生…そこが俺達の指定席になっていた。
噂が広まったのか誰も近付かない…完全に腫れ物扱いだ。
…別に構わない…
っていうか邪魔すんなって感じだ。
午後三時三十分…学校終了。
ケンジに挨拶をして急いで教室を出た俺は二年J組、そのプレートの教室の前で待機する。八神を待つ為である。
わらわらとJ組から出てくる八神のクラスメイト。部活に行くヤツ帰るヤツ…みんな俺を一瞥していく…みんな朝と同じ様な視線だった。
しばらく待ってみるが八神が出て来ない…
気になって覗いてみると八神は一人で掃除をしていた。
「ああ、下僕かい…今日あたし掃除当番なんやん…ちっと待っとけや」
そういつも通りの口調で言う八神だが、どことなく寂しそうだった。
大体おかしい…
通常なら掃除当番は4〜5人でやる筈だ、決して一人でやるものでは無い。
「…知らんわ…帰ったんやん?」
訊いてみると、興味無さそうにぼやく。
どうやら八神が受ける疎外は俺の比では無いようである。
「…ほう、いいやんいいやん。じゃあ頼むわ!」
俺が手伝いを申し出るとにやりと顔を緩ませる八神…そのまま『じゃっ!よろしく!』って感じで教室を出て行こうとする。
「ぷっ…ふははは!冗談やん、ごめんごめん」
俺が慌てて追いすがると、おどけてからかう八神。
……ああ…
ずるい…その笑顔はずるい…かわいすぎる!
そうだ、俺は八神が一緒に居てくれればいい。
それだけでいい。
午後四時二十分、再び駅前の八神宅到着。
「…おい、ちっと寄ってけや」
ん?
「茶くらい出してやっから寄ってけや」
驚いた。八神のお母さんを介してお邪魔した事は多いが、八神本人から誘われるのはかなり珍しかった。
「…おめぇ勘違いすんなよ…ちっとした礼やん…ほら、掃除の礼やん」
お礼ときた。あの天上天下唯我独尊八神棗がお礼ときた。
いやはや、俺の日頃の努力の成果だろうか…最近の八神は和らいできた節がある。いや言葉遣いやジャイ〇ン振りは相変わらずなのだが、俺に対しての扱いが向上したというか人間扱いしてくれるというか…
「あにぶつぶつ言ってんだ?用事あんのか?」
近かった。非常に近かった。いつかの嫌そうな顔ではなく、本当に俺を気遣っての表情だった。その八神の顔が非常に近かった。
俺は超高速で飛び退いて高速で首を横に振る。もちろん予定なんか無いからだ、あったとしてもそんなもん全快でキャンセルしてやる。
午後四時三十五分…棗の部屋。
入るのは二回目…でも前回に入った時とは違う。
前回はお母さんに無理矢理連れて来られたが、今回は部屋の主に連れて来られた。
この違いは凄まじい。
やはり日頃の成果は実を結びつつあるのだろうか。
「ほれ、おめぇは紅茶でよかったか?」
お茶を入れてきてくれた八神…待っていた俺を気遣ってくれた。
…おお…これは何のイベントだ?いつフラグが立ったんだ?
「お母さんには来ない様に言ってあっからから気ぃ遣うなや」
―――!!?
何て事だ!やはり何らかのイベントらしい…
ドキドキしてきた。ヤバい!ヤバいぞ!
「それ飲み終わったら、これ頼むわ」
ドスッとテーブルの上に何かの束が置かれた。
「たまった課題」
さも当然の横に言う八神…
課題?
「あたしは店の手伝いしてくっから頼んだ」
意味が解らなくてぼお〜っとしているとあっさり部屋を出て行ってしまった…掃除の時の様に冗談だと思っていたら今度はマジらしい。
やたらとファンシーな部屋に取り残される俺。目の前には積まれた課題…紅茶のカップと同じ位の高さだ。
大したイベントだった。
午後七時。
俺はぐったりしていた。
何とか消化してはいるが、課題はまだ半分も減ってない。
げんなりしながらもやってしまうのは下僕だから?八神の頼みだから?
……まぁ後者だろう。
下からはお客の笑い声がたびたび聞こえてくる。やるせなくはなるが苦痛ではなかった。
精神的には苦痛ではなかったが長い時間座りっぱなしだったから肉体的にしんどくなってきた。
休憩も兼ねて少し体を動かす事にした。立ち上がり見回してみる。
……何とも落ち着かなかった。
廊下に出る事にした。
ぐいぐい体をほぐしていると、廊下の奥に目が行った。
八神の部屋の隣…
何故だか嫌に気になった。
お母さんの部屋では無いと思う…八神の部屋とお揃いのプレートが掛っていたからだ。
八神の部屋には『棗』と…
隣の部屋には『菖』……
「……あやめ?」
静かな廊下に俺の呟きが響く。
姉妹?まず浮かんだのはその言葉だった。
しかし一ヶ月以上八神と過ごしているが、その様な存在の影は無かった。解らない…本当に気になった訳では無い。
でも俺は自然と扉を開いていた。