第十話 下僕再出発
目覚めは快適だった。
事実はどうであれ、自分で勘繰って自分で落ち込んでいたのだから、その考えをもっと前向きに考えれば気持ちが軽くなるのも当然だった。
そうだ。
今までの俺…他人に合わせてばかりだった俺…
今日は違う。
八神に合わせてなんかやらない。
「おはよう母さん」
俺は何とも分かりやすい男だと思う。昨日は朝からうなだれていて母さんと何を話したかも覚えていない。
でも今日は母さんの笑顔が見たくて仕方なかった、母さんの声が聴きたくて仕方なかった。
マザコン上等。母親の笑顔が好きで何が悪い。
「あら、リュウちゃん。おはよう」
俺の声を聞いて、優しい笑顔で挨拶を返してくれる母さん。昨日もそうだった筈だが、気構えが違うのだろうか、その笑顔は今日一日がやる気になれそうな笑顔だった。
「なぁにリュウちゃん、何か良い事あった?」
綻んでしまっていた俺の表情から察したか、嬉しそうに訊いてくる。
「…い、いや。良い事はあったというか、これからというか…っていうか悪い事が起きるのは多分間違いないというか…」
そうだろう。今日、俺は八神に告白する。振られてしまうのを分かっていながらだ。
「???」
俺の言った事の意味が分からないのか母さんは首を傾げている。
「い、いや…違うんだ。えーと…母さんの笑顔が見れて嬉しかっただけなんだ…」
「――っえ!」
あれ?
みるみる顔を紅くする母さん。
「母さん?」
「う、うん。ありがとう…嬉しい…」
下を向き、もじもじと指を絡ませながら言う。
我が母親ながらかわいいのだが、どうしたというのだろうか……
準備が済み、しばらくして、家を出る時に起きて来た竜仁にかち合う。
「おはよ…兄ちゃん…相変わらず早いね…」
「うん、おはよう竜仁」
「あれ…兄ちゃん今日はなんか気合い入ってるね?どうしたの?」
「えっ?どうしたのって何が?」
「いや、いつもより髪の毛とかちゃんとしてるじゃん」
竜仁の言う通り、さっき洗面所でいつもの倍くらいの時間を掛けて身だしなみを整えた。
自分としては今日に限って気合いを入れるのはどうかと思う…しかし、八神に告白と考えると、あれじゃダメだこれじゃダメだって、いつもより小綺麗になってしまった。
「いや……今日、俺さ、八神に告白するから」
竜仁に言ってどうする?って感じだけど、なんとなく言ってしまった。
自分を追い詰めたかったのかもしれない。
「ふーん…そっか…はは、頑張って。振られたら兄ちゃん大変だぞ?」
思ったより淡白な反応の竜仁。
「大変って何が?」
「エミが兄ちゃんの写メを学校で見せたらさ、兄ちゃんのファンクラブが出来ちゃったんだ」
は?
「は?」
「ぷっ、ふははは!兄ちゃん、もっと自分に自信持ちなよ。兄ちゃんは俺の兄ちゃんなんだぜ?八神先輩だって大丈夫、オッケーしてくれるよ」
バシバシと背中を叩かれながら送り出されてしまった。
「……?」
家を出た時間はいつも通り。
駅前に着いた時間もいつも通り。そう、いつも八神を迎えに来ていた時間、8時だ。
八神は先に行ってしまっているだろうが、今用事があるのは八神じゃない。
…八神のお母さん、八神に告白する前にどうしてもお母さんに会っておきたかった。
昨日最低な事をしたというのもあるが、母さんと同じ様な理由…笑顔が見たかった、声が聴きたかった。
昨日と同じ様に待ってくれていたお母さん。
やはり伏し目がちに、やはり困った様な不安そうな表情。
昨日とは違い、迷わず声を掛ける。
「おはようございます!」
「あっ、河本さん。おはようございます」
俺の声に反応して優しい笑顔で挨拶を返してくれる。
「やっぱり先に行っちゃいましたよね?」
とりあえず八神の事を訊いてみる。
「はい。なっちゃんったら、困った子なんだから…」
ため息混じりに言う。
「いや、すいません…俺のせいなんです。俺が無神経だったせいで、アイツの事怒らせちゃったんです」
隠すつもりは無い。
「あら、そうだったんですか…でも何日も拗ねちゃうなんて、なっちゃんも強情ねぇ」
再びため息を吐きながら言う。
「…俺が勝手に菖さんの部屋に入ってしまったからなんです…すいません…」
俺の言葉に目を丸くする。
八神の友達として招かれていたとはいえ、八神同様お母さんにとってもあの部屋は易々と踏み行ってはいけない領域だった筈だ。
いくら知らなかったといっても、あの部屋に入ったのは間違いだった。
菖さんに申し訳ないのはもちろんだが、棗…お母さんには絶対に謝らなければいけない。
「…そう…だったんですか…いえ、良いんです…河本さんはあっちゃんの事は知っていたんですか?」
あっちゃん…菖の事だろう。
「いえ…知りません。棗と会ったのも結構最近なんです」
「……そうですか…なっちゃん…それで怒っていたんですね」
感慨に耽る様に悲しそうな表情で言う…
「すいませんでした…」
「あっ、あっ、いえ、違うんです!ごめんなさい」
おたおたと慌てて訂正してくれるお母さん。
心底申し訳なさそうである。
……本当にこの人は最高に良い人だ。
俺を本気で気遣ってくれている。
「お母さん…」
「えっ?あっ、はい」
突然、自分の子供ではない俺に呼ばれてあたふたする。
ちょっとかわいかった。
「今日、俺…棗に告白します」
「えっ?」
どうかしてると思う。これから告白する女の子の母親にわざわざ報告するなんて、かなりの割合で前代未聞な筈だ。
実際お母さんも目を丸くして驚いている。
「告白って…あの告白ですか?」
あの告白…つまりは愛の告白の事。
うわぁ、こう思うと恥ずかしい…
「は、はい。そうです。好きだって言います」
かなり恥ずかしい。
「あらあらまぁまぁ。ふふふ。羨ましいですね。なっちゃんずるいわぁ」
一気にほんわか指数が跳ね上がる。
羨ましいって…
「い、いや。多分振られちゃうと思うんですけど…」
そうだよ。まだ告白した訳じゃないし、オッケーされた訳じゃない。
半ば祝福されて、軽く舞い上がりそうだった。
「だーい丈夫ですよ。河本さんかっこいいし、優しいですから」
更にほんわか指数を上げ、ぺしぺし肩を叩きながら言う。
いやいや…フォローは終わってからでお願いしたい。
「と、とにかく、そういう事なんで」
ほんわかフォローは痛いだけなので失礼だが学校に退散する事にする。
自転車を方向転換して、漕ぎだそうとすると…
「河本さん…なっちゃんをお願いします」
「えっ?」
背中越しに掛けられた声はさっきまでの弾んだ声ではなく、少しトーンを下げた真摯な声だった。
「なっちゃん…河本さんだけしか…いえ…河本さんもごく最近…。なっちゃん…お友達…居ませんよね?」
振り向いて見たお母さん、声と同じ様に真摯な態度で…悲しそうだった。
そして、問掛けられた内容…
「…あ、えーと…その…」
お母さんの真摯な態度…誤魔化せる訳ない。
「良いんです…ただ河本さん…なっちゃんを…なっちゃんを助けてあげて下さい」
???
「助ける?」
「なっちゃん…あっちゃんの事故の事…自分のせいだって…言うんです…そんな筈ないのに…。私じゃダメなんです…私も似た様なものだから…」
今にも泣きそうなお母さん。
堪える様に言葉を紡ぐ。
……………
やっぱり八神の菖さんの事故の後の行動には理由がある。
ケンジの言っていた噂は間違ってないけど間違ってる。
理由は分からない。
でも八神…お前、馬鹿だよ…
こんな優しい母親を泣かせるなんて…
告白したら結果はどうあれ、お説教だな。
「お母さん」
「…はい?」
顔を上げたお母さん。っていうか、もう泣いてた。
「俺は菖さんの事は知りません。俺は菖さんに会った事がありませんから……だから棗に事故の事をどうこう言うつもりはありません。………でも…」
涙混じりの表情は相変わらずだが、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「アイツの友達はやめません。振られようが何だろうがやめません。俺…アイツが好きですから…」
「…………」
しーんとした。
くさい。確かに今のはくさかった。
流石のお母さんも反応する間も無く飽きれ…て……?
「えっ?」
ぽわ〜んとした様な…というか明ら様な恍惚な表情のお母さん。
俺を見つめて『はふぅ』と熱っぽいため息を吐いている。
「河本さん…やっぱりかっこいいです…そんな素敵な事まで言えてしまうなんて…」
とろ〜んと潤んだ瞳で見つめてくる。先ほどの涙のせいか凄く艶っぽくて色っぽい。
「じ、じゃあ。そういう事で!」
逃げた。
…八神宅で長居してしまったお陰で学校に着いたのは遅刻ギリギリ、滑り込みセーフでHRに間に合った。
「リュウ、今日やっぱり決行か?」
後ろの席のケンジがひそひそと話し掛けてくる。
「うん、告白するよ」
前を向いたまま、ひそひそと返す。
「えっ?」
えっ?
「えっ?」
俺の返答に答えたのはケンジではなかった。
上の『えっ?』だが、上から隣の席の女子、俺、ケンジの順番だ。
「河本君…告白って…?」
何やら泣きそうな隣の席の女の子。
HR中という事もあり、振り向いている訳ではないが後ろのケンジも驚いている様子だった。
「……うん」
とりあえず肯定。
「…そ…そう…なんだ…」
見るからに声のトーンを落とし、うつ向いてしまう。
「……?」
どうしたのだろうか?
隣の席だがほとんど話した事は無いけど、告白する俺を気遣ってくれてるのかな?
ま、とにかく、決行は昼休み。
まずはJ組に行って連れ出さなければいけない。
そして告白する場所は決まっている。
中庭のあの場所…
毎日の昼食場所としてお世話になったあの中庭…
八神と過ごした時間は少ないけど、俺にとって八神との思い出が一番詰まっている大切な所…
八神の笑顔を一番見れた場所だから…
昼休み。
遂に来てしまったとは思わなかった。待ち侘びていたという感じだ。緊張も一切無かった。
八神の都合も知らん。どうせ一人きりで昼食を摂るに決まってる、問答無用で連れ出してやる。
今日の俺は自分でも驚く位に自己中だ。
百パー八神の影響だ。
ずかずかとJ組に突入していく。
最早J組でも有名人の俺は注目の的だ。
今までの俺なら尻込みしている状況だが、今日の俺は自己中だぜ。かかってこいって感じだ。
「あれ…?」
勢い付いて来たのはよかったが肝心の八神が居なかった。
参った。しおしおとやる気がしぼんでいく。
何処に行ったんだ?
恐らくJ組の連中は知らないだろう…八神が行き先を告げる筈無いし、行きそうな所を知っているとも思えなかった。
かく言う俺も八神の行きそうな所の見当はつかない…
………………
…と、思っていたが八神はあっさり見付かった。
ふぅと安堵のため息。顔も綻ぶ。
遠目から八神を確認した俺は周りを見渡す…
中庭…
計らずとも八神はここに居てくれていた。
抜ける様な秋晴れ。
最近すっかり寒くなってきたお陰か、辺りにはちらほらと落ち葉が広がっている。
そういえば、衣替えしてからずいぶん経ってしまった。
ゆっくり近付いて行く。
空気は冷たいけどぽかぽかと八神を照らす太陽は暖かかった。
少しだけ冷たい風が八神の髪を揺らしている。
綺麗に敷き詰められた芝生は八神一人では広すぎる気がする。
聞こえてくるのは喧騒。昼休み真っ最中、みんな楽しそうだ。でも、その楽しそうな喧騒は目の前の女の子を余計に寂しいものにしている。
更に近付いて行く。あと少し。
寂しそうな八神。
一人きりの八神。
一二年校舎、三年校舎、特別棟、部室棟に囲まれた中庭。その中庭にある植え込みに囲まれた芝生…
俺達の指定席…
小さな八神…そこで一人、膝を抱えて小さく座っていた…