21 through-the-rain
あれから、脳裏に何度もクルミの顔が蘇る。
冷たい表情。
あんなクルミを見たのは初めてだった。
それはまるで何かの片鱗のようで。
何だか、嫌な予感がした。
クルミがもし、それを選ぶとしたらどこだろう。
その答えを俺は知っていた。
そこは、前にクルミが身投げをしようとしたビルの屋上。
それは、29日の夜。
俺は鍵のかかっていない扉を開ける。
夜の少しだけ湿った風が吹き抜けるそこは、今の俺にはまるで闇に飲まれた都会の冷たい処刑場のように思えた。
「……なんで、あんたが?」
理解できないというような声色で、クルミが俺に尋ねる。
そういう彼女は屋上の鉄柵に寄りかかっているところだった。
「お前、最近変だよな。なんか、急に優しくなったし」
クルミは俺を見ている。ただ、この状況に戸惑っているわけじゃない。
きっと、俺の目の前だとしても、自分を許せなくなればその身を投じるだろう。
彼女の覚悟は、今までの道のりは、そう生半可なものではないと知っているから。
そうなったらもう間に合わない。
「自分の人生が嫌か?」
クルミに問いかけるが、彼女は肯定も否定もしなかった。
だけど、彼女は複雑な顔をしていた。
嫌ということすら烏滸がましいとでも言わんとしているように、俺には映った。
「俺のせいで、お前が……」
「違う!」
クルミはいきなり大声で否定した。
「そうじゃない。全部、自分のせいってことくらい、私にも分かってるから……!」
クルミは肩を震わせる。
その感情が怒りなのか、悲しみなのかはわからない。
「安っぽい同情なんて要らないから。お願いだから、帰ってよ、今朝川……」
帰るわけにはいかない。
俺が帰ったら、お前はいなくなるんだろ。
でも、俺の言葉なんて、届かないけど。
「俺は……」
言葉にためらっていると、クルミは鉄柵に体を預ける。
「これ以上居座るなら、嫌なものを見ることになるわよ。だから、早く帰って」
その言葉は決して脅しではないのだろう。
震える手が全てを物語っていた。
「これは、私のためじゃない。あなたを思って言っているのよ」
「そうか。お前は優しいんだな」
「優しいから、ずっと苦しんできたんだろ」
「私のしたことといえば、他人を裏切って、誰かを傷つけて、自分の首を絞めただけ。私はバカなことをやっただけよ」
少しだけクルミに近づこうとしてみるけど。
そうすればそうするほど、彼女は後ろ側へ身を乗り出す。
「バカなことなんかじゃない」
俺は言う。
「バカなことなんかじゃない。誰かのためを思って、自分の罪を背負って、一人でも生きていこうとすることは、決してバカなことじゃない」
クルミは少しだけ躊躇っているようだった。
「私は……」
何かを口にしかけてやめて、そのあと、彼女は代わりにこう口にする。
「ありがとね」
クルミは清々しいほどの笑顔になる。
それは本心だろうか。
でも、その笑顔は、触れれば壊れてしまいそうなくらいに危うく見えた。
「でも、私にもう、これしか道はないから」
俺はなにか嫌なものを感じて、咄嗟にクルミに近づく。
落ちそうになったクルミの手首を掴んで引きずり上げ、無我夢中で組み伏せる。
「離して……離して……!」
クルミは目を腕で隠す。
だが、その前に目を見て、気づいた。
彼女の心の中の澱は俺が思っているより深いのだと。
くだらない、取るにも足りないと思っていた俺の日常とは違う、彼女の世界は、すでに、俺が救えるとか、そういうレベルじゃなかった。
手を伸ばしても届かない。
だって、俺はクルミの何でもないんだから。
「……ッ」
クルミの胸が上下する。
言葉にならない感情を吐き出しているようだった。
クルミは何も言わない。
ただ、呼吸の音だけが静かな夜の中に響いている。
「道がないとか、後悔してるとかじゃなくてさ」
怒りでも、哀れみでもない。
なんだろうか。
俺は、自分からこぼれ出る感情にどんな名前をつけていいのかわからない。
「悔しいんだったら、本当に失敗したと思うんだったら、正面から向かってこいよ」
俺にとって、クルミって、何なんだろう。
そう考えた時に、思った。
腐れ縁。
それでもいいだろうか。
「弱くなった時は受け止めてやるよ」
クルミは目元から腕を外して、俺の胸元に視線を移しながら言う。
「もう、戻れないのよ……」
クルミは目から涙を流す。
「私には何もないの!家族も、居場所も、本当の友達も、中身も全部!こんな人間が生きてていいわけないから……!」
彼女の心には、大きなトゲが刺さっているみたいだった。
それを外そうとずっともがいているのに、もがけばもがくほど強く食い込んでいく。
そのトゲは、許すことでは決して外れない。
「あの日には、戻れないから」
クルミはそう言って目を閉じた。
「なあ、クルミ」
俺は、今すぐにクルミのことが許せるようになれるほど、立派じゃない。
時間が解決してくれることを祈るしかなくて。
きっとどこにも救いはない。
「それは、俺にもお前にもどうしようもないんだ」
俺にできることは、ほとんどなかった。
だから、みじめでも、俺は。
「頼むよ。お願いだから、今日だけは生きてくれないか」
クルミは視線を合わせて、ただ呟いた。
「なんで」
少しの沈黙のあと、クルミは堰を切ったように言う。
「何であんたがそんなことするの、私のことが憎いなら、憎いって言えよ!じゃないと、私は、私は、自分が自分でなくなりそうなのよ!」
そう言ってまた泣く。
俺にはわからない。なんで彼女がこんなふうに泣くのか。
「……私のこと、もう助けないでよ」
クルミは本当にそう思っているんだろう。
今の彼女には、その優しさの全部が裏目に出るだけだ。
「それでも、頼むよ」
俺は、醜くしがみつくことしかできないでいる。
夜の透き通った空気が肺に染み渡っていく。
「だから、あんたが泣くなって言ってんのに……!」
いつの間にかもらい泣きしてしまったみたいで、視界が霞む。
涙がクルミの服の上に散る。
「分かった、分かったから……!」
根負けしたようにクルミは繰り返す。
「あんたがそこを退かないと何もできないから、どいてよ」
俺を騙そうとしているのかはわからない。
だが、今さらできることはない。
退かなきゃいけない。
そう思って、気づいた。
体が動かない。
「ごめん、ちょっと攣った。動けない」
「ハァ!?」
そう言うなりクルミは俺を突き飛ばした。
「なんだ、簡単じゃない」
クルミはあっけらかんとそう言って、また端の方へ歩き出す。
「ま、待て!」
クルミは俺の言葉など聞こえないみたいに、振り返らない。
「じゃあね、今朝川。けっこう、楽しかったよ」
俺ができることってなんだ?
俺がクルミを振り向かせられることってなんだ。
何も、何もない?
「ちょっと待て!あと少しだけ、俺の話を聞いてくれ!」
慌てて言葉を出す。
「約束するよ!そこで足を止めれば、なんでもする!お前の人生、俺が最高に楽しくしてやるよ!」
不意に口をついて出たそれは、今までで一番無責任な言葉。
なんの意味もないだろう。
終わった。
そう思った。
だが。
俺の予想とは少しだけ異なり、足音が止まる。
「ねえ」
クルミは、俺の思ってもなかったことを口にする。
「あんたは、なんで私に生きていてほしいの?」
なんで。
「……だって」
「今はダメでも、未来はどうなるかわからないだろ」
クルミはため息をついた。
「そんな簡単に希望が降って湧いたら、みんな幸せよ」
「俺だぞ!?知りたいこと、なんでも知れる!いいのかよ、こんなチャンスもう2度と来ないぞ!」
「……」
クルミは顎に指を当てて考える。
そうして、俺を見る。
頭の先から靴まで、隅々を。
なんだよ。どういう意味だよ。
「……そうね」
「私って、バカだけど、あんたに弱いみたい」
クルミは何かを小さく言う。
よく聞こえない。
「……やっぱ、やめた」
どっちだろうか。
困ったように目を白黒させてしまう俺に、クルミは言った。
「ほら、私を楽しませるんでしょ?早く立って。帰るわよ」
クルミの笑顔は、まだ悲しそうだった。
でも、キレイすぎるよりは、少しだけマシに見えた。




