17 誰よりも特別な
次の日。
「おはよー」
クラスメイトと挨拶をする鶴瀬さんは、いつもと全く変わらない。
いつもと変わらない声。いつもと変わらない笑顔。
昨日俺が見たものは全くの夢だったんじゃないかと思うくらいに。
何もかもが完璧に同じ。
だけど。
「ズイちゃん、ポスター剥がしたの?全部剥がれているけど。あと、放課後に選挙演説の練習をしましょうか?」
姫橋さんが言う。
姫橋さんは鶴瀬さんとクラスで一番仲が良さそうな女子だ。
「……うん、新しくしようと思ってさ。演説もお願い」
そう言った鶴瀬さんは、意識して見ていればかろうじてわかるくらいに、少しだけ視線が揺らいでいた。
だがそれも一瞬だった。
「あ、そうだ、姫橋さんは進路希望調査票、もう出したの?」
次の瞬間には、完全にいつもの鶴瀬さんになる。
「ええ。でも難しい時期よねぇ、成績的にも……」
鶴瀬さんは姫橋さんと話を続けている。
この青春には、俺の出る幕はなさそうだった。
あるいは、最初からどうしようもないのかもしれない。
平凡な俺が、特別を装う彼女に何かできると考えることが、最大の勘違いか。
視界の端で、二人が話している。
「あ、ズイちゃん、襟のところ、裏返ってるわよ」
「ごめんー」
気にしていない、わけ、ないよな。
俺はポケットのコインを握りしめる。
これでコイントスをすれば、分かるだろう。
自分がすべきことは全部。
でも、それでいいのか?
「ほら、これでいいかしら?」
「ありがとう」
……俺は、そんな柄じゃない。
そんなことは分かっていた。
この人に今話しかけても嫌われるだけかもしれない。
……でも。
「あのさ」
気づけば、俺は口に出していた。
★ ★ ★
俺と鶴瀬さんは廊下でポスターを貼っていた。
姫橋さんは別の場所に貼ると言っていた。
「今朝川くん、ありがとうね」
「こんなこと気にしなくていいよ」
鶴瀬さんは微笑む。
『……』
姫橋さんには訝しむような目線で見られたが、鶴瀬さんは違った。
『え!いいの?じゃあ、お願いしちゃおうかな』
鶴瀬さんの身長では届かない場所にポスターを貼っていく。
「僕のこと、興味ないかと思ってたよ」
興味なかったのは確かだ。
でも、あれを見てそのままでいられるほど心が強くないというか。
俺は何とも言えなかったので苦々しく笑った。
「せっかく隣なんだから、仲良くしたいって、前から思ってたし。確かバスも一緒だよね」
え?
あの鶴瀬さんに認知されてたのか。
「あ、僕のこと知らないかな?いつも同じバスだよね?」
「知ってるよ。いつも勉強してるよな。何勉強してるんだ?」
俺がそう聞いた瞬間、鶴瀬さんの手が止まる。
次の瞬間、目の奥が輝いた気がした。
「国際政策が好きなんだ」
……うん?
「国際政策って国家間の利害調整なんて生ぬるい言い方じゃ全然足りないんだ。まず、パワーポリティクスとレジーム理論が前提にあって、そこに地政学的コンテキストとナショナル・インタレストが複層的に絡み合う。で、FTAやEPAみたいな通商枠組み一つでも、タリフ・ラインの調整からサプライチェーン再編、TPP11のルール形成権とかまで全部含めて、実はルールを握った国が勝つっていう超メタゲームだよ。しかも国家だけじゃなくて、グローバル企業やNGO、さらにトランスナショナルなアクターまで参入して、実質マルチレベル・ガバナンスの混戦状態で。だから、国際政策ってデータも史料も一次情報も全部追わなきゃ話にならないんだけど。僕、ああいう泥臭い知的戦争の中で最大多数の最大幸福というか功利主義というかみたいな理想を考えるのが好きなんだ」
……意外だな。
勉強が好きなのは知ってたけど、オタクみたいな尖り方をしている鶴瀬さんだ。
俺は笑う。
「あはは」
「あ……」
鶴瀬さんは口もとに手を当てる。
こんなこと、あまり他の人には話さないのだろう。
「ごめん、意味わかんないよね、き、気持ち悪いかな」
「いや、わかるよ、わかんないけど」
授業で習った単語もいくつかある。
そんなに難しいことは言ってくれてはいないのだろうとは思う。
でも意外だな、彼女にこんな側面があったなんて。
でも、そう言って申し訳なさそうにする鶴瀬さんだけど。
鶴瀬さんは少しだけ近寄ってくれる。
「もうちょっと右に詰めて貼って、右に」
照れ隠しだろうか。
そう言う彼女の指摘を受けて、俺は掲示板に画鋲を差し込む。
……そういえば。
『ズイちゃん、ポスター剥がしたの?全部剥がれているけど』
やっぱり、鶴瀬さんはあのことを姫橋さんには伝えていないのだろうか。
そんなことを考えながら、ポスターを丁寧に掲示していく。
「どうかな。これで」
「うん、完璧だよ!」
親指を立てて小さく飛び上がる鶴瀬さん。
何だか胸の奥が温かくなる。
大丈夫かな、俺は。
間違って叶わない恋に踏み出しそうな、そんな不安が頭の中を過ぎる。
人気者の女の子の、ちょっと深い部分を知っただけでそうなるなら、俺は愚かな生き物だ。
「次は、保健室前だね」
鶴瀬さんは新しいポスターを俺に手渡す。
「なあ」
俺はそんな鶴瀬さんに、聞いてみる。
「不安じゃないのか?」
「なにが?」
「……生徒会選挙に出て、みんなの矢面に立って。それで、こないだみたいにヤジられて。辛い思いをすることもあるだろ?なのに、何でまたこんなことを……」
言っていて、言葉を止める。
「悪い、何言ってんだろうな、俺は」
貶したと思われたかもしれない。
ちょっと馴れ馴れしすぎるな、俺は。
「僕はね、きっと、そんなに強くないんだ」
鶴瀬さんと並んで歩きながら歩幅を合わせる。
少しだけ埃っぽい風が、廊下の窓際から吹き抜ける。
換気中かな、なんてことを考えていたら、彼女の服の芳香剤のいい匂いがした。
太陽のような甘くて優しい香りの。
「……なんでだろうね。僕にもよく、分からないや」
鶴瀬さんにも、分からないことってあるんだな。
答えたくないだけっていう可能性もあるけど、多分違う気がするんだ。
「ただ、僕は幸せになりたいだけだよ。そのためだったら、少しくらい、覚悟だってする」
少しくらいか。
俺にはとてもそうは思えないけど。
「夢、叶うといいな」
陳腐だ。
俺には、曖昧で無責任なことしか言えない。
でも、鶴瀬さんはそんなことわかっているだろう。
「うん」
鶴瀬さんは頷く。
「……君は知らないだろうけど、僕は君と話せて、本当に嬉しいんだ」
どういう意味なんだろう。
聞きたかったけど、もう聞かないことにした。
野暮というものだ。
「今度こそ、本当の友達になれるかもしれないからさ」
ポスターを貼っていく時間はあっという間に過ぎ去った。
全部で12枚くらい貼って、その日はおしまいになった。
★ ★ ★
教室で。
とうとう迎える選挙当日。
「選挙、緊張するね」
「大丈夫よ、ズイちゃんなら」
「そうかな……」
鶴瀬さんは机の中に手を入れる。
「大丈夫だよね、だって、今日のために原稿も作ってきたし」
そう言って、そのままフリーズした。
「あ、あれ……?」
鶴瀬さんは慌てた様子で机の中を手で探し回っているが。
「ない、ない、なんでだろ、おかしいな、あれ……?」
「ズイちゃん?」
「机の中に入れておいたはずの原稿がないんだよ」
「カバンの中は?」
「ない……」
大丈夫じゃなさそうな気配がする。
「違うんだ。昨日、間違いなく机の中に入れて帰ったんだよ。ねえ、今朝川くん、何か見てない?僕の発表の原稿がどっかにいっちゃって」
「ごめん、俺も何も見てない」
「私のも、おとといなくしちゃって、なんだか不吉ね」
「紙ベースで作ってたから印刷とかできないし、どうしようか」
教室で言葉を交わす二人を横目で見ながら、みんな体育館へ移動し始める。
俺も移動する。
★ ★ ★
次は、鶴瀬さんの発表演説だ。
俺は固唾を飲んで見守る。
あんなことがあった以上、俺はもう鶴瀬さんに入れることを決めてしまったが、それでもここにいるほとんどの人は、これで誰に入れるかを決めるのだろう。
「ええっと……」
鶴瀬さんの手元には紙がチラッと見えるが、よく見ると折り目も何もない。
ただのA4の白紙だった。
覚悟を決めたように彼女は話し始めた。
エピソードの部分は暗記していたのか、言葉に詰まることなく澱みなく話していたが、掴みの部分で少し止まってしまう。
沈黙。
それでも、彼女は口を開いた。
「皆さんは、生徒会という組織をどう思いますか」
おそらく、ここで生徒会選挙を行っているほとんどの生徒にとって、それはただの茶番でしかないのかもしれない。
「毎日登校の時に皆さんに声かけをしています。うるさいですよね」
「毎日お昼の放送の時、候補者のスピーチが流れてきて、綺麗事ばかりで鬱陶しいですよね」
「このように、皆さんにとっては生徒会は百害あって一利ない組織だと思われているかもしれません」
鶴瀬さんはふと悲しそうな顔をする。
それは彼女の悩んできたことだろう。
「あるいは、私がふさわしくないと思う方もいるでしょう」
俺には、その全てがわかるわけじゃない。
「ですが、生徒会には、みなさんの力が必要です」
鶴瀬さんは力強くそう言う。
「私は、ここにいる全員の名前と顔を覚えています」
……本当に。
「私が皆さんに声をかけるのは、もっと皆さんと仲良くなりたいからです」
「私がスピーチをするのは、もっと皆さんに私を知ってもらうためです」
「私は、大好きなこの学校を、みなさんと一緒により良くしていきたいです」
呆れるほど、彼女はまっすぐであり続けるんだな。
「綺麗事でも構わない、私は、後悔をしたくない。そのために、この学校でできるすべてのことをやります」
なんで、こんなに前を向いていられるのだろう。
「よければ、皆さんの一票を、私にください」
気づけば。
拍手が起こっていた。
大きなその音の中で、俺は思う。
この人は、俺の物差しを壊してしまった。
鶴瀬さんは。
何もない俺の世界に初めて色をつけてくれた、光そのものだった。
まだ青い春の気配に、俺は惹きつけられた。
あまりに鮮烈なその彩りに、戸惑ってしまうくらいに。
心が震える。
たとえそれが、彼女が必死で作り出したものでも構わない。
そう思えるくらい、この人は本当に特別だった。




