13 HELP
『早速で悪いんだけど、あんたにお願いがあるの』
そんな文面を見たとき、俺は動揺した。
なんだろうな。お礼参りでもされるんだろうか。
そう思いながら少しビクついて向かったのは、近所の公園だった。
「いたたっ!」
クルミはまた横に倒れる。
「お前、本当に自転車乗れないのか」
本当に運動できないんだな。
こいつの運動のできなさは可哀想を通り越してちょっと憐れだ。
「うるさいわね!だからそう言ってるでしょ!?」
クルミからのメールで、俺が付き添いで自転車の練習をすることになった。
正直言って、なんでクルミと、と思うところがないわけじゃない。
でも、確かに征の言う通り、最近のクルミは少し明るく、とっつきやすくなった。
努力なら、見てやろうという気にもなる。
しょうがない。腐れ縁もあるし、多少時間を使ってやるくらいはな。
そんなこんなでやってきたのは近くの団地の公園。
「お前、そんな自転車も乗れないような頭脳でよくうちの高校に受かったな」
「轢き殺すわよ。そんなの関係ないでしょ。努力すればなんだってできるようになるの」
前にすら進めないくせに。
「でもなんで今更、自転車を?」
「……別にいいじゃない、そんなこと」
時刻は正午頃。
太陽は天高く昇り、クルミはハンドルを握る手に僅かに汗を滲ませていた。
「なんで、こんなことしてるんだろうなぁ」
「申し訳ないと思ってるわ。でも、他に頼れないの。悪いけど、ちょっと肩、支えてくれない?」
そばに行って肩を押さえてやる。
思っていたより小さいな。
……俺は、こいつに怯えていたのにな。
「離さないでよ」
クルミの肩は震えている。
せっかくそばにいるんだから、アドバイスらしいことをしてやるか。
「もうちょっと肩の力抜いた方がいいと思うぞ」
「う、うん……」
クルミは静かに呼吸をする。
「よし、進むわ」
そう宣言すると、前に漕ぎ出す。
ぎこちない動きでペダルを踏んで、前に進んだり後ろへ戻ってきたりを繰り返す。
「倒れてない、いい調子だな」
「そう?」
何だか自分が初めて自転車に乗った日を思い出し、少し懐かしいような気もする。
あの時も近所の公園で、補助輪をつけながら父さんと練習したんだっけ。
しかしそう思ったのも束の間。
クルミはバランスが取れなくなり、横に転倒し、自転車から放り出された。
「く……っ」
恐るべき運動神経。
何となくわかっていたが、俺よりも格下がいるとは思わなかったぞ。
「何その顔」
転んだクルミはクルミは不快そうに俺を見上げる。
「何だかわからないけど、馬鹿にされてる気がする」
ははは、気味がいいってのはこういうことを言うんだな。
「いやいや、決して馬鹿になんてしてないよ!頑張ろうな、クルミくん!」
「張り付いた笑顔が気持ち悪い自覚ある?」
言葉とは裏腹に少しだけ嬉しそうな顔をするクルミ。
……何だろうか。
いじめてやろうと思ったのに、あんまり言葉が出てこなかった。
「ってかさ」
クルミは腰についた土を払う。
「本当にこれ、乗れるの?」
とうとうそんな常識まで疑い出したようだ。
クルミは俺にママチャリを押し付けてくる。
「ちょっと乗ってみてよ」
俺はママチャリを跨ぐ。
「まあ、見とけよ」
あまりにクルミが興味津々な様子で見つめるので、なんだか少し恥ずかしい。
「ほらよ」
俺はペダルに足をおく。
ちょっとサドル低いが少し漕いで前に進んでみせる。
梅雨の風が頬を撫でて、少しだけこそばゆい。
雨上がりの公園の独特な土の匂いだ。
公園なんていつぶりだろうか。
俺はママチャリのブレーキを踏む。
甲高い音がして、自転車がゆっくり止まった。
「……今朝川のくせに」
クルミは小悪党みたいなセリフを吐いた。どういう感情だよ、それ。
でも、俺だってこれ以上できるわけじゃない。
そのままチャリを降りる。
「なあ、カゴになんかついてるぞ」
「ああそれ、私がつけたの。かわいいでしょ」
それはクマだかうさぎだかわからない、ツギハギの小さなぬいぐるみだった。
正直なところあまりかわいくない。
「くるみ割らない人形なの」
意味がわからない人形だな。
「まあ、いんじゃねーの」
「あんたみたいな中途半端なヤツを呪い殺すぬいぐるみよ」
特級呪物だった。
ていうか。
「お前が作ったのか。意外と器用なんだな」
意外と繊細なところもあるし、この少女のキャラクターというものがいまいち掴めないでいる。
中学校の時はどう接していたんだっけ。あんまり記憶がないのは、なんでだろうか。
「よかったらあんたにも作ってあげる」
いるか?これ?
まあ、見てたらかわいく見えてこないことも……。
……どうだろ、これ。
「そうじゃなかった、自転車、自転車」
クルミもう一度跨る。
「肩掴んでて」
自転車に乗るクルミ。
俺は肩を掴んでやる。
「感覚、掴めてきたかも」
言いながらクルミは前に進んだ。
おお。やるじゃん。
クルミに視線を合わせた、その時だった。
視界の端に、公園の隅の方にひとりでしゃがみ込んでいる男の子を見つけた。
……なんだろうか。
一人でいるようだ。
ちょっとおかしいよな?
「ちょっと、離さないでよ」
横に倒れそうになったクルミが足をついて言う。
「……ちょっと待ってろ」
「え?あもう、ちょっと!」
走り寄り、声をかける。
「君、大丈夫?」
男の子は泣きそうな顔でなにも言わずに俺を見る。
何か教えて欲しいんだけどな。
「近くにお母さんがいるのか?」
男の子は首を振る。
「交番に行こうか」
俺が手を触ると、男の子は手を振り解いた。
……難しいな、この年頃の子は。
男の子はイヤイヤをするように頭を振る。
にしても、困ったな。
「ほら、くーちゃんですよぉ〜」
気がつくとクルミが例のくるみ割らない人形を持って現れた。
「ぼくー。どしたのー。ねえ、お話ししようよ」
無理無理。俺ですら話せなかったんだから、そんな意味のわからない人形で話せるわけ……
「……かわいいねこちゃん」
ぽっと出の人形に負けた自分が情けなくなってきた。
猫なの?それ?
「うりうりうりー」
お前……。
俺はクルミを違和感しかないという表情で見つめる。
「なによ」
クルミの声のトーンが不意に素に戻る。
「いや、猫なで声、出せたんだなと思って」
でも、感心する。
クルミ、意外といいヤツだよな。
「シャーッ」
威嚇されてしまった。俺の出る幕はないようだ。
「それで、おうちのひとはどこに行ったのかな?」
「いないよ、ぼく、ひとりできたの」
「ひとりで!?すごいね」
「でも、かえれなくなっちゃった」
どうやらそれがことの顛末らしい。
「わかるよ、一人はこわいよね」
「……じゃあ、安心できる大人の人のところ、いこーか」
「……うん」
男の子はクルミの言うことには素直に従うらしい。
なんだか不公平だ。俺の心が汚れてるみたいな気がする。
クルミと一緒に、男の子を交番へ送った。
「本当にありがとうございます」
交番では、親御さんがちょうど相談しているところだった。
「俺はなんもしてないですけど……」
俺は男の子とまだ話し続けているクルミを横目で見る。
「お姉ちゃん、この子、もらっていいの?」
「うん。あげる〜」
なんだかその姿が、少しだけ誇らしい。
……中学でもあれだったら、もっと別の道があったかもしれないのに。
「ありがとう、大切にするね!」
男の子は元気にそう言っていた。
夕方。
傾いた陽が、道路を歩く俺と自転車を押すクルミの背中を照らしていた。
遠くでカラスが鳴いている。
俺たちは自転車練習の帰り道、駄菓子屋へ寄って、俺は、注射器に入った水あめつきのせんべいを、クルミはフエラムネを買って帰る。
帰り道。
どこか満足そうなクルミが自転車を押しながらフエラムネで口笛を吹いて遊んでいる。
「あれ、猫のぬいぐるみなのか?」
「……ネズミだけど」
ネズミだったんだ。
どこか満足げなその横顔を見ていると。
どうしても聞きたくなって、俺は尋ねた。
「なあ、あの時、どうして俺のことをいじめたんだ?」
口笛が止む。
クルミはフエラムネを吹くのをやめて、噛み砕いてから足を止める。
「……私があなたの、満足する答えを持っていると思う?」
彼女は自由奔放というキャラではない。そう見えても、本当は繊細なことを、俺はなんとなく知った。
そんな人間が、平気で他人をいじめられるだろうか。
しかし、クルミは嘲るように言う。
「自分が他人より優位に立てれば安心できたから。そんな答えだったら、あなたは救われる?」
俺には本心とは思えないけど、クルミは何かに縛られている。
呪いのようなものだ。人の心は、取り戻せないものを抱えてしまう。
それがどんな形をしていて、どんな風に今のクルミに影響しているのか、俺にはわからないけど。
「私が今なんて言ったって、言い訳でしかないでしょ。そんなの、お互いにとって虚しいだけじゃない」
クルミは逃げなかった。それでも。
「俺は、納得したいんだ」
自分が納得したかったのもあったけど。
俺は、クルミに逃げて欲しかったのかもしれない。
「お前が、あんなことするやつに、ちょっとだけ思えなくなってきてさ」
俺は手を伸ばしたい。少しだけそう思えた。
「何それ」
クルミはずっと嘲るような調子で笑った。
まるで、何か大切なものを過去に捨ててきた人間のような軽薄な調子で自分を否定する。
後悔だけではない、何かがクルミを押しつぶそうとしているんじゃないか、そんな不安に駆られる。
「私の口から真実じゃない言葉が出てきたら、どうするの?」
臆病な彼女は、俺の救いの手を受け取るのを躊躇っている。
自ら許されに行くことを躊躇っている。
「それでも信じるよ。お前はいいやつそうだからさ」
今日、少しはクルミを許せただろうか。
そんな俺の考えさえ、彼女は知らないようだった。
「私は……」
少し躊躇ったあと、クルミは言う。
「どうであれ、あなたを傷つけたことに変わりはない。だから、もう、許さないでいいの」
二つの影が、夕暮れ時の道に長く伸びている。
どこまでもまっすぐなそれは、決して交わることはなかった。




