2月 バレンタインのマクベス
バレンタイン当日の清心館女学院司書室は静かな午後の日差しに包まれていた。
いつも通りの午後、いつも通りの二人。雪乃と萌花がお茶を楽しんでいた。
その静かな空間を乱暴に破ったのは、大きな音を立てて開かれた扉だった。
女生徒が大股で踏み込んできて、一冊の本をテーブルに強く叩きつけた。
「ちょっとこれ見てよっ!」
「バレンタインの……プレゼント、ですか?」
その勢いに驚いた雪乃先輩が顔を上げながら宥めるように言った。。
「元々のバレンタインの起源では、本を贈るんでしたよね?」
わたしは誰にともなくそう呟く。
雪乃先輩は静かに本を眺めながら頷く。
「ええ、本を贈るだけでも古風なのに――」
「それが、マクベスって確かに少し謎めいて見えるかもね。誰から渡されたんですか?」
女生徒は苛立ちを隠せず声を上げる。
「知らないわよっ!胸元のリボンの色で一年ってわかったけど」
「名乗らないで逃げてったから」
「急にこれを押し付けて、『元気出してください』って走っていっちゃった」
「それで、開けたらこれだよ!」
女生徒は本の表紙を先輩の目の前に突きつけた。
それは、シェイクスピアのマクベスだった。
「私、最近フラれたばっかなのにさ。何が元気出せだよ」
「なんで失恋直後に悲劇渡されなきゃなんないの?」
彼女は本を示しながら苛立ちを隠せない様相でそう言った。
雪乃先輩は本を受け取ると、落ち着いた声で言った。
「坪内逍遥の訳なんですね。どうしてこの本が贈られたのか……」
「すぐに答えを聞きますか?」
女生徒ははっと我に返ったように言った。
「ごめん、名乗ってもなかったね」
「わたし金木美香。演劇部。美香でいいよ」
「それより贈り物の理由、わかったって本当?」
彼女は信じられないように本を眺め回した。
「雪乃さんには悪いけど、私だって演劇部」
「このまま答えだけ知るなんて悔しいよ。マクベス、血と裏切り」
「だけど夫人との悲しい魂の双生児。そんな本を渡されてどうすんの?」
「取り返しのつかない悲劇には変わりない。初めから、引き返せない物語」
「洗っても落ちない血と悪夢」
「元気出してくださいって言われて、それで渡されるのがこの本なの?」
「これ以上取り返しのつかない気持ちになんてなりたくない」
美香は本の背表紙を優しく撫でると、手を握りしめて窓際へ向かって歩いた。
わたしは、その姿に演劇部としての矜持を感じずにはいられなかった。
けれど、その背中は少し泣いているようだった。
わたしは、そんな気持ちに寄り添いたくなって、そっと口を開いた。
「……美香先輩の気持ちわかります」
「バレンタインに本ってだけでも古風で少しびっくりなのに」
「それが何十年も前の翻訳版だなんて。その子の言いたかったことなんですけど……」
「予言の魔女のセリフはどうですか?綺麗と汚いがひっくり返るって……」
「わたしなりに考えてみたんですが。どうでしょうか?」
「意味は通る気がします。失恋を洗い流して欲しいって」
美香は少し表情を和らげながら答えると自分を落ち着かせるためかわたしたちの正面に腰掛けた。
「あはは、それ慰めになってる?」
その笑顔を見て、思いつきだけど行ってよかった、わたしはそう思った。
「どうせ悲劇なら、まだロミオとジュリエットの方が、ね?」
わたしはその言葉に納得しながら続けた。
「そう、ですね。でも、どうして、ハムレットでもなくマクベス」
「血と裏切りの物語……これ以上ない落ちる物語……」
「先輩は本当にわかってるんですよね」
「いえ、疑ってるわけじゃないです。でも、先輩の言う通り意味があるとしたら、それとバレンタインがどう繋がるんでしょう」
「やっぱり、わたしにはわかりません」
「美香さんは演劇部、わたしも一応読書好きなのに全然わからないなんて」
「わたしだってこの本を渡されたらきっと怒っちゃうと思います」
「美香さん、偉いです。その場では我慢して、ここまで相談に来てくださって」
雪乃先輩はカップの淵を指でなぞりながら口を開いた。
「……美香さん」
「何?」
「わたしの予想ですが……美香さんは、この本を開いてもいませんよね?」
美香先輩は大仰に立ち上がると、舞台上で口上を述べるように言った。
「わたし演劇部だって言ったでしょ、マクベスなら暗記してるくらいだよ」
「今さら見る必要もないよ。なんなら演じて見せようか?」
美香は静かに語り始める。
「消えろ、消えろ、つかのまの灯よ」
「人生は舞台をうろつく、哀れな役者にすぎない」
「ひととき騒いで、そして二度と聞かれなくなる」
美香は独り言のように呟いた。
見事な演技だった。夕暮れの最後の光がカーテンコールのスポットライトのように照らしている。わたしの静かな感動をよそに美香先輩はこのくらいなんでもないとばかりに言い捨てた。
「まるで一人で騒いでる私みたい」
雪乃先輩はそんな美香さんの手を取り、優しく座らせると、自分は窓際へと歩みよった。
「知っているからこそ見ていない。知っているからこそ、見えていない」
「この本が贈られたその真意を。萌花ちゃん、本当ならあなたもきっとわかるはずよ?」
萌花は戸惑った。
「えっ、わたし、ですか?無理ですよー」
雪乃は微笑んで答えた。
「萌花ちゃん、美香さん、坪内訳を読んだことは?」
「――ありますけど……ずいぶん昔で」
わたしはカップを持ち上げ、唇に触れる直前で一瞬ためらい、それから少しだけ口に含んだ。
「私もだいぶ前に一回だけ当たったことがあるかな」
美香さんもわたし同様に一瞬考えてからそう言った。
「みんなは第四場第三幕最後のセリフはわかりますよね」
雪乃先輩は本を開かないまま、指先で背表紙をなぞった。
美香先輩の声が、まだ室内に残っているかのように思い出される。
「“The night is long that never finds the day.”」
「明けない夜はない……そうでしょ?」
わたしも頷いた。
「わたしも、そう覚えてます……マクダフへのマルカムの言葉ですよね。有名ですもん」
「失恋したばっかなのに、悲劇の中のそんなセリフ希望になんてならないよ」
「しかもマクダフの妻子が哀れに惨殺された後のセリフ……」
雪乃先輩はわたしたちの言葉を受け止め、静かに目を閉じた。
「二人とも訳本って話をちゃんと重視してね」
雪乃先輩はもう一度繰り返すと窓の外を眺めながら、逆光に照らされた髪をひと撫でして囁いた。
「坪内訳だけはその原文を違う訳にしているのよ」
わたしと美香さんは必死に記憶の中の翻訳を掘り返したけれど答えは出なかった。
雪乃先輩は本を開かないまま、はっきりと告げた。
「永久に明けないと思えばこそ夜は長いのである」
ふわり、と先輩は振り返りながらなんでもないように告げた。
「ね。『明けない夜はない』とは全く逆の訳。そう思わない?」
「これって、寄り添いの言葉だと私は思うの」
先輩はお茶を淹れ直すためにシンクへ向かうと、手慣れた所作でお茶を選んでゆく。
甘く、心をほぐすような茶葉を選んでいる。
それは今の美香さんにピッタリと合いそうだった。
「今、美香さんは明けない夜の中にいる」
使い古された砂時計を逆さまにすると砂が落ち始める。
「美香さんに本を渡した子が伝えたかったのは」
「わたしにもその夜を共にさせてほしい」
「そして夜明けを共に見たい」
「そういうことじゃないかしら」
カップにお湯をわずかに入れて温めながら雪乃先輩は微笑んだ。
「実際の本も確認しますか?美香さんは開いてもないと言っていたしね」
雪乃先輩はページをめくる。紙の擦れる音が小さく響く。
一枚の付箋が現れた。
「“The night is long that never finds the day.”」
にそっと寄り添うように貼られた青い付箋。
一年生の青いリボンのような。青。
「ほら、全編通してここにだけ付箋」
「だからね、」
「これはきっとそういうメッセージ」
わたしは言葉を失った。
「中を見ればすぐにわかったのにね。でも付箋は見えるように貼って欲しいよね」
先輩がくすりと笑った。
その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。
淹れ直したお茶を三人で楽しむと、美香先輩は本を胸に抱きしめ、静かに立ち上がった。
「私、その子に答えてあげられるかはわからないけれど」
「ちゃんとお礼。言ってくる」
雪乃先輩は頷く。
「わたしには、美香さん」
「もうあなたの夜は明けようとしている」
「そう思えますよ」
「雪乃さん、ありがと。後、ええと」
「如月です。如月萌花」
「萌花ちゃんもね。寄り添ってくれて」
「嬉しかったよ」
本を抱えたまま、美香先輩は司書室を出ていった。
扉が立てるいつもの音がいつもより優しく聞こえた。
窓から冬と春が混ざり合った風が混ざり合いながら流れ込んでくる。
「先輩、よく誦じてましたね」
雪乃先輩は小さく肩をすくめる。
「私もあまり好きじゃないのよ」
「明けない夜はない。なんて無責任じゃない」
でも私の夜ももう……
その視線が、そっとわたしへ向けられる。
「どうしたんですか?神妙な顔をして」
「萌花ちゃんからチョコもらってないなって」
「私は高級チョコと特別なお茶を用意してるのにね」
思わず笑いがこぼれる。
「一緒に……食べますか?」
「ええ、もちろん。マリアージュを重視した最高の組み合わせよ」
雪乃先輩はもう一度、あの一節を口にする。
「永久に明けないと思えばこそ夜は長いのである」
「けれど、お茶は必ず冷めてしまうからね」
わたしは即座に言い返した。
「お茶は冷めちゃったらアイスティーにしちゃえばいいんです!」
「それに、わたしたちの関係は……」
言葉が喉の奥で止まる。
「萌花ちゃん、何か言った?」
「いいえ何でも」
わたしはバッグから可愛くラッピングしたチョコを取り出した。




