『マーガレットと記憶の鍵』
これで推理ゲームも終わり。
そんな不安を胸に、わたしは最後の記憶のかけらを手繰り寄せた。
先輩はカップを洗うために、流し台に向かった。
「あ、手伝います」
隣に並んで高級なカップを落とさないように、洗う。考え事をしながら先輩は丁寧に拭いていく。
水音だけが微かに響き続ける。
「そういえば、玄関に大きなトランクがありました。なんで忘れてたんだろ……」
このまま話が終わってしまうのは嫌だった。わたしは思い出せる事を、全て口にする事にした。
「それは、お家を長く留守にするから花瓶が空だった。という理由の説明になるわね」
「ほかには?何もなかった?」
わたしへの問いかけは縋るような響きを帯びていた。もしかしたら、先輩も同じ気持ちなのだろうか?
先輩は戸棚を開けると、一つずつ丁寧に仕舞っていく。その動きの一つ一つが、二人の時間が終わる、カウントダウンのようだった。
もう少しだけ先輩と話したい。その一心で、数学の難問を解くような気持ちで必死に記憶を巡らせた。
「あ……そうだ!紅茶が、今日だけ分厚い湯呑みで出てきたんです。以前はすべて同じ、見たこともないような立派なティーセットだったのに」
「湯呑み……?」
先輩の声が、部屋の空気を変えた。
「どんなティーセットだったか、覚えてる?」
先輩は戸棚を締めながらそう呟いた。扉が閉まる直前、戸棚の奥に午後の陽が差し込んだ。
その光はわずかに傷ついたカップの縁に反射してプリズムを描いた。薄く繊細な陶器。蝶の取っ手に、淡いマーガレットが描かれたカップ。その瞬間、お屋敷で見た記憶と、鮮やかに一致する。
「待ってください!」
自分でも驚くような声。先輩はゆったりと振り返る。髪が揺れ、戸棚に差し込む光を吸い込むように柔らかく反射した。
こんな偶然があるのだろうか?わたしは、先輩にお願いして、指さしたカップを取り出してもらう。
触れるだけで壊れそうなカップを両手で握った。
入学後初めて見た聖餐式で、葡萄酒を受け取る仕草を真似て。
震える手と心を押さえつけながら、先輩に伝える。声の震えだけは止めることができなかった。
「これと同じ……だったかもしれません。ふちについた小さな傷まで――」
カップのふちの小さな傷まで鮮明に蘇った。
わたしの言葉に、先輩の表情が険しくなる。
「マーガレット・サーヴィス……」
――その言葉を口にした途端、雪乃先輩の目がわずかに揺れた。その瞳は日没直後の、最後の光にも見えた。
「アーノルド・クローの手による1900年パリ万博でグランプリを獲得した……」
「それが、ロイヤル・コペンハーゲンのマーガレット・サーヴィスよ」
「これは1922年までに作られた初期ロット」
先輩はわたしの手を支えるようにして、カップを受け取った。手の震えは止まっていた。
先輩は目線を落とすと、愛でるように取っ手の蝶に触れてから戸棚に戻した。
それから携帯を取り出すと、慣れない手つきでポチ……ポチ……と文字を打ちはじめる。そのぎこちない仕草が、先輩の飾らなさを映し出した。午後の光がわたしたちを照らしている。
先輩は一仕事終えた満足げな表情で、穏やかに微笑んだ。
「念のため、家に連絡を入れてみたの」
その微笑みが、わたしの胸に微かな安堵と動揺をもたらす。
「旅行ではなく、終活……でしょうか?そういうの最近は多いって」
わたしは躊躇いながら続ける。
「そういえば、役所の通知とか老人ホームのパンフレットがありました。古い雑誌の切り抜きもありました。朝、先輩が言っていた、雑誌の写真が切り抜かれた残りのページが」
「実は最近、おばあちゃんの様子が変で……」
どうしても言い出せなかったことを言葉を選びながら、わたしは話すことにした。
「ずっと優しかったのに、時々二階から怒鳴るようになったり……物を投げたり」
「数日前もあったんです」
「それに、一ヶ月くらい前から、利き腕の左手に包帯も巻いていて。火傷がひどくて、物も上手く持てないって」
わたしの言葉を聞きながら、先輩の瞳が遠くを見ている。
何を考えているのかは、読み取れなかった。
「今日も色々とお手伝いしてきたんです。こういうのって、どうしたらいいんでしょうか……身寄りもないようで……大丈夫なのかなって。わたし心配で」
つい、不安を口にしてしまう。
「それで、薔薇のお礼に明日も行くって言っちゃったんですよ」
その時のわたしは、何かをしてあげなきゃ、そんな気持ちに突き動かされていた。今考えれば、無茶だったかもしれない。でも、少しでもなんとかしてあげたい……その気持ちに嘘はない。
先輩は黙ったまま、わたしを見守ってくれていた。
その笑顔がわたしの気持ちを肯定してくれたようで、胸の中に静かに響いた。
推理ゲームを続けたかったはずなのに、ただそれだけのはずだったのに。
わたしはこれ以上話を続けたいのか、避けたいのか分からなくなっていた。
「二階から物を投げてくるお話だけど……」
先輩がゆっくりと口を開いた。
「間違いなくおばあちゃん本人だった?」
一人暮らしのおばあちゃんだから、そうに決まっているはずなのに。わたしは疑問を感じながらも、素直に先輩の質問に証拠を添えて答える。
「もちろん声も見た目も同じです」
「それにずっと一人暮らしだって、うちの母も言ってました。いつも同じ部屋から投げてくるんです。二階の南向きの大きな部屋。わかりますよね?あそこの窓から、道路に向かって」
「……でも、たいてい庭に落ちるから大丈夫なんですけど、やっぱり怖くて」
お化け屋敷の正体が認知症の老人なんて……そんなの、悲しすぎる。今朝も優しかったおばあちゃんが、いつか消えてしまう。その事を思っただけで泣きそうになってしまった。
「最近は包帯を巻いて利き腕を庇っていたんです。だから、物を投げるなんて難しいと思うんですけど。一週間前、わたしが通りかかった時にも怒鳴られちゃって……」
「あのお屋敷の前の道路って……西側よね?」
先輩は急に変な質問を挟んできた。
「方角?えっと、そうですね。そうかな?多分。今日もお庭を見る時に、朝日が目に入って、光を反射した薔薇がすごく綺麗でした」
わたしは先輩が何を気にしているのか分からなくて、混乱したまま言葉を切った。
先輩は黙って、じっと考え込んでいる。
「怪我をしていたのは一ヶ月前からで、左手なのよね?間違いはない?」
わたしは黙って頷いた。
その言葉を口にしながら、先輩の視線は、遠くの何かを見つめていた。
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