『密室は舞台の中で』
七々瀬の声は、姿を現さない暁希よりも儚く聞こえた。落ちたリングは鋭く冷たい響きを放ち、観客席の空気を凍らせてゆく。
視線が交錯し、混乱と不安が波のように広がっていく――
部員たちが部長に耳打ちをする。
「ねえ、これどうするの?」
「どこにもいないんだけど……」
教室の外までざわめきが聞こえるほどの、舞台裏を捜索する音。教卓が動かされカーテンの裏までめくりあげられていく。
その時、閉じられていた扉が開け放たれた。
扉の軋む音が、部員や観客のざわめきをかき乱した。
中に差し込む光の眩しさに、七々瀬をはじめ観客達が目を細めていると
「あなたたち、ずいぶん騒がしいですよ?」
鋭い叱責の声が飛んだ。
声の様子から若いシスターのようだ。逆光で顔は見えない。
「あ、あの……私たち奇術部で……マジックをしていたら……えっと」
部長に代わり七々瀬が答えた。
「私の連れ――志崎暁希という子なんですが」
「人体消失マジックで、消えたっきり戻ってきていないんです」
「消えたなんて、そんな馬鹿な話が……」
シスターは、眉根をひそめながら七々瀬に答えた。
「……でしたら、一緒に室内の捜索をお手伝いいただけませんか?」
七々瀬の真剣な表情に気押されたシスターは、半信半疑ながら手伝ってくれそうだった。
全員で探したが、暁希の姿はどこにもなかった。
机の下、暗幕の内側、教卓の段差裏、備品棚――いずれも空っぽだった。カーテンの縫い目の内側に隠れる余地もないことがわかった。
「誰にも見られないように、扉を開けて出て行った可能性は?」
シスターが部員と七々瀬に質問する。
「いえ、もしそうならすぐわかるはずです」
「シスターが扉を開けて入ってくるまで、誰もドアを開けませんでした」
「古い建物で室内も暗くしていましたから、音や光で気づきます」
再び答える七々瀬。
「なるほど……わかりましたよ」
「皆で、私をからかおうと言うのですね?文化祭はお祭りですが……それでも、おふざけが過ぎますよ。観客まで巻き込んで、赴任したばかりの私にこんな……」
激昂するシスターの声に部員が怯える。
「生徒会役員の貴女まで……奇術部員は後で私が聞き取りをします。きっちり絞りますからね。みなさん、公演はここまでとなります!」
これも演出なのかと、どこまでも半信半疑の生徒たち。その中に混じって退出を余儀なくされる七々瀬。
ざわつく声と、扉が閉まる音。教室が再び闇に包まれるまで、七々瀬は何も考えられなかった。
「そんなわけで丸一日探したのだけれど、いよいよ手に負えないなと思って……」
そこまで言ってから、七々瀬は黙り込んだ。
まるであてどなくさまよう子供のような、頼りなげな表情だった。
「ごめんなさい……これは強がりね」
七々瀬は、かすれた声で言い直した。
「本当は、あなたしか頼れる人がいないの」
その悲痛な声が、室内の空気を震わせた。
紅茶のカップに視線を落とした表情には、翳りが見えた。琥珀色の水面が微かに震え、小さなさざ波を作った。
七々瀬は慌ててカップを手に取ったが、震える指先がさらに水面を揺らした。もし本人にその理由を尋ねたら、「西日が眩しかったから」と強がったかもしれない。
七々瀬は、ようやく手付かずだった紅茶に唇を湿らせ、落ち着きを取り戻そうと努めていた。
「正直なところ、シスターがおっしゃる通りだと思ってる」
「何かの悪戯に違いないって……」
七々瀬は唇を噛んだ。
「だって、人が消えるなんてこと、現実にあると思う?」
起こったことを認めたくない口調で七々瀬は強く言った。
「悪ふざけとも思えない何かがあるとは思うかな」
雪乃は自分の考えに、没頭し始めているようだった。
「神隠しや、誘拐のようなことでもないでしょうし」「ましてや……殺人ということは考えにくいから」
七々瀬の視線に気づいた雪乃は、慌てて言葉を補った。
「……ごめんなさい。少し強い言葉を使い過ぎたかもしれません」
「でも事件が起きたことは確かよ。ただ、今はまだ何が起こっているのか判断出来ないだけ」
「私が今言えるのは、それだけよ」
「悪ふざけではなくて、あくまで事件なの……?それは――探偵としての勘?」
七々瀬は何度か深呼吸をしてから、雪乃に問いかけた。
「……どちらかというと経験、かな」
「ただの悪ふざけにしては……」
その言葉が途切れた後、雪乃は遠くを見つめた。
「そのどちらでもない、もっと切実な何かがある気がしているの」
雪乃は紅茶の最後の一口をしっかりと味わうとそう言った。それから、七々瀬の手元をじっと見た。
慌てて紅茶を飲み干すのを見届けてから
「現場検証しましょうか」
「今回いただいたお話は、この場での解決は難しそう。私は本当は、安楽椅子探偵に憧れていたのだけれど」
悲しげに言った。
来た道を戻ることになった雪乃は軽くため息をついてから言った。
「もう、最初からここで話を聞いたら良かったんじゃないの」
それから室内を見渡す。配置は聞いた通りだった。暗幕、演台、小道具――フラフープに布を付けただけの、質素な造り。これで消失なんて、簡単にできるわけないと雪乃は思った。
扉を繰り返し開閉してみる。
木製の扉が重い音を響かせる。
この音では、こっそりと誰かが外に出るのは難しい――。
「部屋の扉は、シスターが入るまで一度も開かなかった」
七々瀬は疲れ切った表情で付け足した。
「隠れられる場所もすべて探して、二十人で確認したの」
「分かっているわ。あなたを疑っているわけじゃないの」
雪乃は穏やかに応じた。
「でも、事実としてここは『密室』なのよ」
「暁希さんが『消える』には室外に出るしかない――」
「けれど誰も出られなかった」
雪乃の声は暗幕に溶けるようだった。
密室――舞台の中央に立つ孤独な役者のように、謎は静かに佇んでいた。




