『万能の孤独』
清心館女学院の生徒会役員、支倉七々瀬。
その名前を知らない生徒はいない。けれど、本当の彼女を知る者もいない。
彼女を安易に「雑学王」などと呼んではならない。
熱心な支持者たちから、猛反撃を受けることになるだろうから。数字のゼロについて、親戚の小学生から聞かれた時のこと。七々瀬は一ヶ月間、家を訪ね、丁寧に教えたという。
また、老人ホームの慰問時の事も必ず聞かされるだろう。俳句について、文学部の院生さながらの知識を伝えたという――そんな逸話が両手の指では足りないほどだった。
また、「支倉七々瀬は生まれながらの才女だ」
そんな事をうかつに言えば、それもまた周囲から訂正された。彼女の重ねた努力を、詳細に語られるのが常だった。複数の百科事典を読破したこと。
小学生の頃、NASA公式アプリで月面着陸を成功させた事。人気のコスメを調べているうちに、インフルエンサーになってしまった事。
七々瀬自身は、そうした周囲の声を、否定も肯定もしなかった。知識欲を満たした後の彼女は、ただ微笑むのが常だった。
そうして、人々の評価を傍観しているだけなのだ。
支倉七々瀬は同年代の女子と比べると、ややスレンダーで身長は平均程度。
淡く光を帯びた黒髪を背中の中ほどまで伸ばしていた。瞳も同じ黒だが、覗き込むと、その輝きは宇宙が出来た頃の澄み切った闇を宿していた。
よく見なければわからない、地肌よりも自然なメイク。その技術は、噂の裏付けと言えた。
そんな七々瀬が、「折り入って相談したいことがある」そう言って、廊下で雪乃を呼び止めたのは、文化祭二日目、午後の陽が傾き始める頃だった。
「こんな果ての果てまで展示を見に来るなんて、ね。雪乃」
七々瀬は普段の顔では決して見せない、わずかに疲れた雰囲気を滲ませていた。
開け放たれた窓から顔を出すと、ぼんやりと遠くの喧騒に耳をそば立てた。
文化祭期間とはいえ、特別教室棟四階にはほとんど生徒も居ない。
ここだけ、夏でも秋でもないそんな、熱気と肌寒さが共存していた。柔らかな膜のような雰囲気を揺らす、二人の出会い。店番をしていた文化部員が、ドアの入り口から興味深そうに顔を覗かせている。
雪乃は、文化祭の見学を邪魔されて、少し気分を害したようだった。
「要件はなんですか?七々瀬さん」
「あなたが、自力で解決できないことがあるなんて」
突き放すような声でそう言った。
「君の好きな事件というやつだよ。雪乃。おそらくは、だけれどね」
「志崎暁希が、昨日から行方不明でね」
七々瀬はため息を隠さずに伝えた。雪乃の眉が微かに動いた。
「校舎中をくまなく探したんだ……」
そう言うと、手に持った手書きの校内地図を見せる。
淡々とした口調とは裏腹に、皺になった地図には繰り返しつけられたチェックが見えた。
その様子を見た雪乃は
「まだ展示は半分も見ていないんですが……」
「そう言う事でしたら、お話を伺いましょう」
柔らかく頷いた。
「立ち話もなんだから……」
「君の事務所……ではないか、司書室で話したいんだけれど、どうかな?」
廊下の先の、見終わっていない展示への未練ともつかない、遠くを見るような目で、雪乃は黙って歩き出した。
階段を降りると数人の生徒が、並んで歩く二人を追い越した。お目当ての展示があるのか、人気の模擬店に並びに行くのか、あちらこちらで人にぶつかりながら、ごめんなさい!
響、そんなに急がないでよ!早く早く、居なくなったらあんたのせいだからね奏?
二つのツインテールが風のように揺れ、叫び声を上げながら駆け抜けていく。その先でシスターにとがめられて、一瞬だけ早歩きになる。
その直後、またも走り出しては謝罪を繰り返しているのが遠目に見えた。
新しいシスター、来週からって言ってたのに今日からなんだ。通りすがりの生徒の声が、空気に溶けながら届いた。
秋の午後、風が銀杏の葉を巻き上げて世界を金色に染めた。特別教室棟の静寂の世界から、再び文化祭の喧騒に降り立つと、二人は歩を進めた。
渡り廊下で、先ほど生徒を指導していたシスターとすれ違う。
「ごきげんよう。シスター」
二人揃って丁寧に挨拶をする。
雪乃は、見ない顔のお若いシスターだな、とまじまじと見つめた。そういえば――休職される方の代理、そろそろだっけ。一人で納得しながら、距離を取って慎重に通り過ぎた。
雪乃も中身は普通の学生だ。教師でもあり、指導者でもあるシスターという人種は苦手なのだ。
司書室に七々瀬を招き入れると、雪乃はソファを指さした。
「紅茶はおまかせにさせてもらうね」
それだけ言うと、雪乃は戸棚の中から数種類の紅茶を取り出した。そして、最後に残った二つを秤にかけた――正義の女神が審判を下すように。
窓の外から漂ってくるのは、散りかけて名残惜しい金木犀の淡い香りだった。雪乃は、その消えゆく秋の気配を慈しむように深く息を吸い込んだ。
「今日はファイブオクロックにするわ」
「夏摘みのダージリン、春摘みのキームン、そしてジャスミンティーのブレンド」
「まだ午後五時には少し早いけれど――」
七々瀬の返答を待たずに、また違う引き出しを開ける。
「そうそう、今日はカヌレもあるのよ。カヌレ。あなたはラッキーね。七々瀬さん」
「あの……」
「本当はもっとゆっくりお茶を楽しみたいんだけど、ごめんなさい」
のんびりとした様子の雪乃に痺れを切らして、七々瀬が話し始める。隠しきれない焦りがそこにはあった。
「信じられない話かもしれないけれど――」
「生徒会書記の志崎暁希が私の目の前から消え去ってしまったの」
「それから学校中を探したのだけれど、見つかってない」
一息に話し終えると、七々瀬は握ったままの地図を見つめた。
「ごめんなさい、お客様はひさしぶりだったから」
雪乃はそっとお茶を差し出してから、囁いた。
「場所と時間から教えてください」
手には手帳とお気に入りの、軸の青い万年筆。
「場所は特別棟の四階。さっき貴女と会った場所の近くね。時間は昨日の二時過ぎ」
聞かれたことだけを簡潔に答えてゆく七々瀬。
けれどその表情は暗く沈んでいた。
静かに頷いた雪乃を見て先を続ける。
「奇術部の公演を二人で観に行ったんだ」
「人体消失マジック――」
「あの子がそれに選ばれて……消えて……それっきりになってしまって」
動揺を隠しきれない七々瀬。
雪乃は、そんな七々瀬の様子を感じ取ったのか、優しく微笑んだ。
「悪ふざけにしては……丸一日経っていますね」
「何かあったにしても、余程の事情はありそうです……」
「では、その時の状況を出来る限り詳しくお願いします」
七々瀬は背筋を伸ばし、細い指先でカップの淵をなぞった。
記憶を探るように、部屋の天井を見ながら、七々瀬は語り始めた。
硬質な声色に、ほんの一拍だけ揺らぐ息遣い。
そこには万能であろうとする彼女が初めて見せた、弱音が含まれているようだった。
幕が上がる瞬間を待つように、謎は静かに息を潜めていた。




