エピローグ『運命を選ぶ』
目を上げると、かなえさんの目が潤んでいた。
その涙は、無事に事件が解決した涙だったのだろうか?それとも、自分の言葉が初めて尊重され、受け入れられたことへの涙だったのだろうか。
かなえさんと同じ痛みが、わたしの胸の奥をそっと照らした。
やわらかな沈黙がその場を包んだ。
全員が、かなえさんが、ありのままであることを望んでいるようだった。
陽がわずかに傾いて、落ち着いたかなえさんに、わたしはハンカチを差し出した。
司書室には静かな余韻だけが残っていた。
「そう言えばね、推理の小さな種明かし」
雪乃先輩は今日はお祝いだから、と言ってお茶のおかわりの用意をしながら、話し始めた。
陶器が微かに触れ合う澄んだ音に混じる、先輩の声。
「ハンバーガーのお店ね」
「私、あそこで、生まれて初めて食べたんだ」
「何をですか?」
わたしは感情がこぼれないように、普段より明るく声をかけた。
「何言ってるの?ハンバーガーよ」
変な事を聞くのね、そんな顔の先輩。
「だからコラボのマスコットも知ってたの。ちょっとズルかなって」
許してね、と小声で言うとアイスティーにするために氷を入れていく。琥珀の液体に溶けた氷がマーブル模様を作ってゆく。カラン。と澄んだ音が鳴った。
厳しい食事制限があった、そう教えてくれた事を、ふいに思い出した。かなえさんの境遇への共感は、過去の先輩自身への哀悼なのだろうか。
いや、もしかすると、それはわたし自身の感情の投影に過ぎないのかもしれない。
先輩の髪を風が揺らしている。
秋の風が軽やかに、その銀の波を通り抜けてゆく。
「でね。最近とっても美味しいドーナツを見つけたの」
振り返った先輩は、満面の笑みで話し出す。
「これは知らないんじゃないかな?ポンポンリングっていうんだけどね」
「すごい画期的な発明っていうくらい美味しいし、考えた人、天才だと思うの」
ふふんと鼻を鳴らしながら、自慢げに語る雪乃先輩。
「今日の帰りにでも皆でいきましょうよ。食べたら笑顔がこぼれるくらい美味しいから」
「もちろんご一緒しますけど……」
「ポンポンリング、わたしたちが生まれる前からありますよ」
「えっ、嘘でしょ?」
わたしは先輩に笑いかけた。
「色々なものを食べにいきましょう」
「安くて美味しいものって、実はたくさんあるんですよ」
「ちょっと体に悪いかもしれませんけど」
「それにわたしが遊んでるゲーム――にゃんこあつめも教えてあげますよ」
雪乃先輩が、これまでに歩んできた人生。
わたしにはわからないけど、それを想像してみた。
それでも、同情はやめようと決めた。
まっすぐに先輩と向き合うために。
わたしは頑張って自然な笑みで先輩に向き直り、伝えた。
「かなえさんは運動部だから、いつもは無理かもだけど、たまには一緒にどうですか?」
「わたしたちは、確かにまだ子供かもしれません……けれど――」
「色々、一緒に経験していきませんか?大人になるまで一歩ずついろんなことを」
わたしは揺れる心を抱えて最後まで言った。
いい感じに伝えられた、そう信じたかった。
雪乃先輩は、わたしを見ると微笑みながら言った。
「ゲーテは『知り過ぎるが故に誤ることがある』と述べています」
「今回、私たちは知識が多すぎたせいで、かえって単純な真実を見落とすところでした」
「塾講師の傲慢さ、それは、そのまま私たちにもあてはまるのかもしれません」
雪乃先輩の言葉を聞きながら、わたしは窓の外の穏やかな日差しに目を向けた。
『人は生を選べない。ただ、それをどう生きるか選ぶだけ』
ゲーテの言葉をまた思い出した。
「今回、かなえさんが勇気をもって一歩を踏み出してくれた」
「そして、私たちの中で、ただ一人、萌花ちゃんだけが、その心を拾い上げてくれた」
「心からありがとう。私に事件を解決させてくれて」
わたしの頬を涙がつたっていた。
誰にも知られないように、慌てて窓際に駆け寄った。
外の天気を見るふりをして誤魔化した。
「今日、天気いいから」
「行きませんか?」
「ドーナツ。ハンバーガーでも」
震える声はバレなかっただろうか?
袖口でそっと涙をぬぐった。
あたたかい涙はブラウスを銀灰色に染めた。
わたしはそこに雪乃先輩の面影を見た。
振り返ると、七々瀬先輩と暁希先輩は、それぞれ食べたいものを楽しげに言い合っている。かなえさんも、初めてここに来たときの張り詰めた空気は消えていた。
今日をきっかけに、きっと剣道でも結果を出していくのだろう。
司書室の窓から午後の柔らかな陽射しが差し込み、わたしたちを包んでいた。風がカーテンを揺らし、その淡い影が床を撫でるように移ろっている。
未来に踏み出す勇気を、わたしは今この手に確かに感じていた。
それは、新しいはじまりの合図のようだった。
そして、わたしも自分にできることで先輩の隣に立つんだ。そう決めた。
自らの運命を自分で選ぶ、というのはこういうことだろうか?
まだ、わたしにはわからないけれど――
雪乃先輩の、みんなの笑顔を見ながら、
わたしは、未来の姿を思い描いてみた。
明日には、今よりほんの少しだけ強くなったわたしがいる。
それは小さな決意であり、大きな予感でもあった。
放課後密輸事件 完
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