『ラブレターはマカロンの甘さで』
時を告げる柔らかな音とともに、扉がノックされた。
先輩はわたしに、ここにいて。と目で合図を送ってから、音もなく扉のロックを外す。わたしが目にしたのは、翳りを帯びた微笑みと。ガラス越しの踊るような声色。
ただそれだけ。
先輩は短く言葉を交わすと、扉を音もなく閉めた。振り返ったその手には、薔薇が一輪とラブレター。
「あの……薔薇、よかったら」
わたしは控えめに花瓶を差し出す。けれど先輩は柔らかく首を振る。
「ありがとう。でもね、これは向こうに飾りたいの」
先輩は窓際の日当たりの良い一輪挿しに、優しい手つきで薔薇を差した。わずかに開かれた窓からの風が、甘い香りを運ぶ。隣に置かれた白い封筒を指でなぞる――
購買部で売っている、見慣れた封筒だった。光沢のある封筒が、柔らかな午後の光を返している。先輩は微笑んだままそれを見つめていた。
また、見惚れていたことに気づいたわたしは目を逸らす。食器棚のガラス越しに、司書室を覗き見する生徒たちの視線とぶつかった。胸の奥が軋む。その痛みに気づかないふりをして、前髪を引っ張りながらわたしは言葉をさがした。
「あ……お茶、おいしかったです。お話も、もう大丈夫ですよね?」
早く逃げ出したくて、席を立とうとした。先輩はやわらかく首を横に振った。
「あなたは、私が招いたお客様なんだから、ね?」
雪乃先輩の瞳がわずかに揺れた。ここにいていいと、いてほしいと、その目が訴えかけているようだった。先輩は立ち上がると、窓の前に立って、ふわりと振り返った。
「ちょうど差し入れの薔薇のマカロンがあるの。一緒に食べましょ?今日は一日、薔薇の香りに包まれる日にしたいの」
差し出された、マカロンを口にする。鼻に抜ける薔薇の芳香と、口に広がる上品な甘味が心をゆるやかに溶かしてゆく。
「あ、美味しい……」
わたしの素直すぎる感想に、先輩は目を輝かせた。
「話が途切れちゃったわね。本当は続きがあるんでしょう?」
先輩は、いたずらっぽく見つめてくる。その視線から逃れるように俯くわたしに、優しく囁いた。
「私、変わった話が好きなの」
「ほら、推理好きの変人だって、みんな言ってるでしょう?」
わたしはまだ顔を上げる勇気がなく、
「変人だなんて……そんなこと、ないです。みんな、先輩のこと好きですから」
自分の言葉に傷ついているような、この痛みはなんだろう?そう感じながら答えた。
「好きっていってくれる人は、多いかなあ……こんな見た目だからね」
先輩の自嘲するような言葉。
この人の優しさを、寂しさを、ほんのひとかけらでも慰めて……いや、支えてあげられたら。そんな想いが自然と胸に湧きあがった。わたしは小さく息を吸ってから、勇気を出して先輩の瞳を見つめて口にする。
「推理ゲーム……もうちょっとだけ、真面目にやってみましょうか?」
わたしの言葉に、先輩の瞳が輝いた。
「ええ、もちろんよ」
弾む声と表情は、クリスマスの朝にプレゼントと出会った幼な子のようだ。
「そのために来てもらったんだから。もっともっと、お話ししましょう?」
変人という噂は先輩への揶揄だと思っていたけれど、案外本当なのかもしれない。図書室で手下を引き連れた冷たい魔王――そんなわたしの先入観。
それは今、目の前の雪乃先輩を見て揺らぎ始めていた。
そして噂話が真実だったこと。
それが先輩へのわたしの印象を好転させていると気づいた。
「改めて推理ゲームの始まりよ」
先輩は嬉しそうだった。その瞳と髪が一層煌めいて見えた。
「一度話したことも遠慮なくね」
弾む声でそう言った。先輩は、スカートをきれいに巻き込んでから座り直すと、わたしの顔を正面から見据えた。
「では、わたしも改めて最初から、詳細をお話しますね」
先輩を真似て座り直すが、うまくいかない。けれど、不思議と心は穏やかだった。
今朝の出来事の真相を解き明かす時間が始まる。
その先に何が待っているのか――わたしはまだ知らなかった。
「わたし、散歩が好きでよく歩くんです」
「今日は朝五時に目が覚めちゃって……そんな日はもう、何をやっても眠れないんです」
「三丁目のお屋敷の薔薇。この季節は最高ですよね」
先輩は黙ったまま頷いてくれる。睫毛に光がふわりと乗った。
「そう思ったら、もう着替え終わってて。お化け屋敷の噂、知らなかったから」
特に事件なんてあるわけない。それでも心が解けるようだった。こんなに落ち着いた会話は久しぶりだった。また、薔薇が甘く香った。
「それで、登校時間はずいぶん先だし、ゆったり楽しんでたんです。そうしたら……急に声をかけられてしまって」
先輩は、朝六時前に庭先で会話している、二人を思い浮かべているのだろうか?
女子高生と老婆、その奇妙な取り合わせを。
「ちょっと油断してたっていうか……。これまでその時間におばあちゃんに会うことはなかったから」
「それで仕方なく……お家にあげてもらって」
「その時は心底困ったなあと思ったんです」
でも、そのおかげで今この場所にいられる。おばあちゃんに感謝だな、わたしはそんなことを考えていた。
先輩はわたしの言葉をじっと聞きながら、軽く首を傾げた。
「こういうこと言うの、失礼かもだけど……」
先輩の視線が一瞬揺れた。
「おばあちゃんのお誘いを断れないタイプなんだね」
「今日、初めてってわけじゃないんです」
そっと唇を噛んで、不満を隠さずに言葉を重ねる。
「実はその家には、何度か上がらせてもらったことがあるんです。それにわたし、おばあちゃんっ子だから」
わたしはもう一度はっきりと言った。先輩は笑った。その瞳は、長い冬の後の陽だまりのように優しく見えた。
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