『十月三十日・二十時ハンバーガーショップ』
「あ、あの!公園の出来事だけでは、まだ相談に来ようとは思わなかったんです」
かなえさんの声は微かに震えていた。その理由を、わたしはすぐに知ることになる。
「爬虫類専門店からの帰りでした。このコラボマスコットが欲しくて」
鞄のストラップを、愛おしそうに持ち上げた。
「ハンバーガーショップに寄ったのは、二十時を過ぎた頃でした」
「家では外食が禁止されているんですが、その日は特別に許可をもらいまして――」
かなえさんは縋るように雪乃先輩を見つめた。ポニーテールが弱々しく揺れた。
胸が締めつけられるような感情が、わたしの心をとらえた。ハンバーガーさえも食べて帰れないという事実に――
わたしは無意識にスカートを握りしめていた。
先輩がそっと背中に手を添え、慰めるような温もりを伝えてくれた。なぜか、寂しそうに見えたから。
優しげな瞳が、静かにそう語りかけている気がした。
気づくと、かなえさんは話を続けていた。わたしは少し聞き逃してしまった。
「そこでも、変なことがあったんです」
かなえさんは声を潜めて話し始めた。
「学習塾の近くなので、普段なら帰りに見るのは学生さんばかりで……」
「でもその日は明らかに違ったんです」
彼女は手元を見ながら、指先を不安げに絡ませた。その声が微かに震える。
「小さい店ですけど、その日は一階はキッチン一人、レジ一人で、店内は普段よりずっと静かでした」
「たまに見る、店長代理のような人がいて、レジを担当していたんです」
言葉を探しながら、小さく視線を揺らした。
「メニューを注文する時に、店内は満席って言われて……一階は確かに空いてなくて。二階を見にいったんです」
「どのみち家に持って帰ることはできませんし、どうしても店内で食べて帰る必要があったんです」
言葉を切った彼女は、小さく唇を噛んだ。
沈黙の間に、壁時計の針が規則的な音を立てて進む。
その音がやけに耳に残った。
「二階席は公園の時と同じように、高齢の方ばかりだったんです」
「みんなが携帯を握っていて、レシートを見せ合いながら、封筒を大切そうに抱えていました」
かなえさんは、ブラウスの袖を強く握った。
手の甲が白くなるほどだった。
「私が行くと、急に静かになって。隠すように伏せられたレシートに、はっきりと103017が印字されているのが見えました」
彼女の声がさらに緊張を帯びた。
七々瀬先輩がわずかに眉を寄せ、不思議そうに尋ねる。
「そんなにレジの人を見るものかな?」
「ごめんね、変な茶々入れてしまって」
先輩は軽く謝った。かなえさんは小さく首を振った。
「いえ……私、ずっと外食に憧れていて……」
「通学路で毎日お店の前を通るたび、いつか入ってみたいなって思って、つい店内の様子を眺めてしまうんです」
その言葉に、わたしは胸が締め付けられるような思いになった。幼い日のかなえさんが、店の前で憧れの目を向けている、そんな姿が見える気がした。
恥ずかしそうにうつむく彼女の視線は、手元のお茶に注がれていた。
「それともう一つ……」
かなえさんは急に声をひそめた。
「二階には、隣の学習塾の講師もいました。中学時代に私が通っていた塾の――教えてもらったことはないんですけど」
彼女は再び手首のアザを撫でた。指先はかすかに震えていた。
「私が食べている間ずっと、その人たちはピリピリしていた気がします」
「でも、しばらくすると、また変な言葉を言い始めたんです」
「“ヒトカリ”行こう。あと2〜3“ゴールド”は終わり?“素材”足りない、なんとかならない?」
「……その時聞こえてきたのは、そんな言葉でした」
かなえさんはそこで口を閉ざし、表情を曇らせた。
「講師の方が『ヒトカリ』って言ってるのが不思議で。真剣な顔で話しているものですから。塾の仕事の話かと思ったんですが……」
彼女は手元にあったチラシを取り出して見せてくれた。
「これがその塾のチラシです」
『特別推薦枠を目指すあなたへ』という文字がはっきりと印刷されている。
「講師の仕事と、そんな言葉が一緒に出るなんて、変ですよね……?私……どうしても気になってしまって」
「このお話、誰かにしましたか?お家の方とか?」
雪乃先輩はかなえさんに問いかけた。
「いえ!とても……家ではこんな話はできません」
「ただでさえ、今、成績が下がっていますから」
「それでも……誰かに聞いて欲しくて――」
先輩は立ち上がると、かなえさんの肩に優しく触れた。
「すごく勇気が必要でしたでしょう」
「私のところに、お話に来てくれてありがとうございます」
「あなたのこと、信じますよ」
「一度こちらで検討してから、しかるべきところへご連絡する形でよろしいですか?」
雪乃先輩は、真剣な声でそう告げると、童話の王子様のような仕草でそっと手を引いた。
「全てお任せしてもよろしいのでしょうか?」
雪乃先輩は鞄を手渡すと、かなえさんを扉へ誘う。
「ええ、もちろんですよ」
その言葉を聞き、かなえさんは安心したようだった。
「できるだけ早く……そうですね……一週間から十日ほどでご連絡を差し上げますから」
「萌花さんと連絡先を交換しておいてください」
「わ、わかりました」
かなえさんは短く頷いた。
かなえさんは慣れない手つきで、わたしと連絡先の交換を行った。それからメモの内容をもう一度確認して、部に戻って行った。
扉が閉まるその音は、彼女の泣き声にも聞こえた。




