『サモトラケのニケ』
「椿姫と同じ色を見て、同じ景色を望むのはそんなにわがままなの?」
その声には、どうしようもない悲しみが滲んでいた。
才能という翼は、重くて苦しい。そんな思いをわたしは感じた。百瀬先輩の声は強く激しくも、弱々しく室内に溶けた。
淡く儚く、どこか神経質だったあの絵のように。
目を閉じていた雪乃先輩が、静かに口を開く。
「椿姫さん、私の話を聞いてくれますか」
それは『おはよう』の挨拶にも似たさりげない言い方だった。先輩の親指が、人差し指をそっとなぞった。
雪乃先輩は囁いた。
「私、千里さんの気持ちがよくわかるんです」
「私には千里さんほどの……そこまでの才能はないけれど……そう、ですね」
「椿姫さんの言うとおりなんでしょう」
「千里さんは、天才と言ってもいいのかもしれません」
「椿姫さんの願い、それは千里さんが絵に向き合って、ありのままに生きること」
雪乃先輩は静かに言った。その声には伝えきれない悲しみがこもっていた。目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
先輩はきっと、千里さんが抱える才能と孤独に、静かに触れていたのだ。わたしにもそれが痛いほど感じられた。
廊下の奥から、トランペットの高音がひとつ、部屋の空気を微かに震わせた。その音を合図に、先輩は言葉を続けた――
「私たちが、普通の年頃の女の子で、ただ一人の人であることを望むこと」
「それは、そんなにいけないことですか?それは、罪なのでしょうか」
その言葉は神託のようにわたしの胸に響いた。
「私は、ずっと普通でいてはいけないと思っていました」
「周りの人からも、言われ続けてきました」
「特別であれと。期待にこたえよと。求められた役を演じ続けろと」
「いつか、この命が終わるまで――」
「その言葉を一番強く言っていたのは、もしかしたら、私自身だったのかもしれません」
夕陽が校舎に沈み、天井の明かりはキャンドルのように揺れた。柔らかな光と共に秋の風が吹き込んでくる。
先輩は続けた。
「でも……ある人が私に言ってくれたんです」
「あなたはそのままでいいと、いて欲しいと」
「そう言ってくれたんです」
「私は、それだけで救われた思いがしました」
「いいえ、きっと救われたんだと思います」
「自分が、自分でいて良いんだと」
「特別でなくて良いんだと」
「千里さんにとって、才能は呪いだった」
「そして同時に、椿姫さんにとっては、自由への翼でもあったのではないでしょうか?」
「私は、千里さんと椿姫さんはそれを支え合い、高みを目指す。そんな素晴らしい関係だと思っていました」
「私にはわかりません。お二人の意見がいつか交わる日が来るのか」
「あるいはそんな日は来ないのか」
「慈しみといたわりの心がこれからも続くのか、今日で終わってしまうのか」
「私には、わかりません……」
「私が見ている世界と、萌花ちゃん、椿姫さん、千里さんが見ている世界。それぞれが手にしている色は違います。けれど」
「世界はそれでも、美しい」
「そう思うことは、許されませんか?」
再び静寂が支配した。先輩の言葉を、わたしも、わたしの想いとして伝えたい。場違いなのはわかっているけれど、ポケットの中からそっとロザリオを出して握りしめた。
「わたし、本当に皆さんの事が羨ましかったです。今でも、きっと羨ましいままです」
「美人だし、注目されるし、すごく才能もあって……」
「でも、雪乃先輩と出会って、そういうの違うかもって、思えるようになったんです」
気持ちが高ぶって立ち上がってしまう。
「クラスで、出し物をするんです」
視線が集まって、恥ずかしさにわたしの声は小さくなる。
「結構めんどくさくって、嫌だなって思うんです」
「そんなわたしが持っている『普通』を望んでも、手に入らない人がいるんです」
先輩たちの独白に当てられたのか、目が潤んできているのがわかる。
「誰もがみんな、無いものねだりをして傷つけあってる」
「それって、もったいない気がします」
「一緒に過ごせる放課後、帰り道。それって……今だけなのに」
「白雪姫だって、みんなで見に行きたいです」
涙が落ちるのを我慢していたら、何が言いたいのか分からなくなってしまった。だって、わたしは部外者だから、才能なんてない。だから、泣く資格なんてない。無理矢理に、言いたいことだけを言うことにした。
「わたしはただの素人ですけど、感じたことはほんとだと信じてます」
「千里先輩の絵、繊細な中に色が踊るようで、こんなに素敵なものがあるんだって……そう思いました」
「途中のもよかったですし、あの絵の完成も見たかったんですけど」
「ううん、あの下絵があったからこそ、今、もっと良い作品になってると思います」
「だから……」
「アップルパイがとっても美味しかったんです」




