『吸血鬼――エドヴァルド・ムンク』
ラベル事件の主犯は椿姫さん。
絵を改変したのは千里さん自身だった。
結果として千里さんは“被害者であり実行者”になった。
それが……真実。
先輩はわずかに頷いた。
伏せた睫毛に隠された瞳からは、その表情は読み取れない。その淡く溶け合った夕暮れの瞳で、二人を交互に見つめる。
天目先輩は、一点を見つめ続けている。わたしたちが来た時点でこうなることを察していたようだった。
「雪乃は僕のことを甘く見ているよ」
「ラベルの時点で僕は気づいていた。けどね、椿姫の言うことならすべてを信じたよ」
百瀬先輩は笑いながら言った。
「しかし椿姫がこんなことをするなんてね」
強く握りしめていた絵筆を、パレットに優しく置いて立ち上がった。ゆるく転がった絵筆は、乾いた音を立てて床に跳ねた。その音に振り返りもせずに、呆れたような感心したような百瀬先輩。
「ここまで積極的だなんてね。そんなに僕の事、愛してるのかい?」
その態度の中に、諦めとも悲しみともつかない、想いが詰まっているようだった。
きっと、わたしたちが来るまで、同じ話を繰り返していたのだろう。伝えたいのに伝わらない、すれ違いの痛みが伝わってくる。
「花柄のラベルは、椿姫さんなりの、ささやかな抵抗だったのです」
雪乃先輩は言った。
「彼女はラベルに名前を書かなかった」
「それは、千里さんにありのままの色を見て欲しかったから」
雪乃先輩は、一呼吸置いてから続けた。
「椿姫さんは知っていました」
「千里さんが才能ゆえに、彼女自身の色を恐れていたことを」
百瀬先輩は、口を開きかけて、二本のチューブを一度だけ握った。それは何よりも先輩の気持ちを雄弁に語っているようだった。
静けさが落ちた。わたしは二人の気持ちを考えた。
天目先輩は、色の「名前」を隠した。
百瀬先輩の瞳がそのままに映す色を、まっすぐに見てほしかったから。
けれどそれは百瀬先輩にはあまりにも重い贈り物だったんじゃないだろうか。
雪乃先輩は、丁寧に貼られた白薔薇のラベルを愛おしく撫で、パレットに戻した。艶のある白はやわらかく溶けるように光を反射した。
「この機会に、椿姫さんとお互いが納得するまで話をするつもりでいたのでしょう」
「千里さんは優しい人ですね」
「だから、文化祭の当日まで誰にも見せないつもりだった……」
わたしも、誰にともなく呟いてしまう。
「でも偶然見られてしまった。騒ぎになって隠し通すことができなくなった……あの子にも悪いことをしてしまった、後で謝らなくちゃね」
困った顔で、髪をかきあげる百瀬先輩。
ため息を付きながら、天目先輩の髪の毛を愛おしそうな仕草でかき混ぜる。それから、窓際に近づくと水洗台の一つに腰掛けた。
夕映の校舎を背景にしたその姿は、神話の女神のようだった。
「ずっとこの件は話し続けていたんだよ。全くわからずやなんだから」
語られない言葉があった。
世界を染める色よりも深い想いが。




