『色の名前が消えるとき――Valeur(色価)』
「ラベルを隠しても、色は消えない。けれど、色の境界が曖昧なその瞳には、名前をなくした色は、いつでも静かに揺れている」
「絵を描く人なら、目の前の赤を見て色を掴むでしょう」
「けれど、千里さんの瞳が特別だとするならば……」
「そう考えたら、絵の具のラベルが剥がされた事が意味を持ってくるんです」
「椿姫さんは、自分と千里さんのチューブにだけ、花柄のラベルを貼った」
先輩は一本の絵の具を手に取って愛おしそうに白薔薇のラベルを指でなぞった。
「そして、この花はカーマイン、こちらはビリジアン――」
「というように二人の絵の具には名前は書かずに、ラベルだけを貼った」
「それ自体は、お花の大きさや種類が違うから見ればわかります。誰もがそう思います。でも、そこが盲点でした」
「ここが重要よ、もかちゃん。しっかり聞いていてね」
先輩はわたしに柔らかな微笑みを向けた。
「千里さんと椿姫さんの絵の具」
「同じラベルが別の色に貼られていたのよ」
「どういうことですか?」
わたしは話に置いていかれそうになって、とっさに問いかけた。
「話を整理してみましょう」
先輩は生徒手帳を開き、ペンを取り出すと書き出した。
「本来であれば、白薔薇のラベルは緑、ひまわりは赤って決めるわよね?」
「特に絵の具を貸し借りする仲なら当然」
「そう、ですね」
わたしは頷いた。先輩は先を続ける。
「白薔薇のラベルを椿姫さんの緑と、千里さんの赤に」
「ひまわりのラベルは、椿姫さんの赤と、千里さんの緑……」
手渡されたメモには、白薔薇の小さな絵にフタログリーンとカドミウムレッドの名前。
その文字を繋ぐ双方向の矢印。カーマインとビリジアンの間にも同じ記号。その横には、ひまわりが添えられている。
「ふたりは、同じ花を“目印”にして貸し借りしていた――色の名前の代わりにね」
「同じ花は同じ色。普通はそう思うよね?」
その説明は、わたしだけに向けられているようだった。二人は、ただ黙って話を聞いていた。
どうしてそんな複雑なすり替えが必要なのか、わたしにはわからなかった。そんなわたしに、先輩は絵本を読むように優しく続けた。
名前をなくした色たちは、どんな夢を見るのだろう?そんなことをふと考えた。
「絵の具のラベルがなくなったことで、千里さんは椿姫さんに頻繁に色の相談をする」
「椿姫さんは、はい、この赤ちょうどいいよ、そう言って白薔薇のラベルを手渡す」
「けれど、千里さんの際立っているところ……あのデッサンをみたでしょう?」
「ヴァルールは、色と光の均衡。千里さんはそれだけで色を見分ける」
「彼女はその瞳で、明度と彩度を深く知り抜いていた……」
「あっという間に混色のバランスを理解してしまう」
「色の名前なんてなくてもね、白薔薇3・ひまわり2という具合に」
「だから、同じ花柄のラベルで赤と緑をゆっくりと入れ替える」
先輩はもう一本のチューブを持つと、左右の手で持ち替えた。
「本人は赤りんごのつもりで、青りんごを手に取ることになる……」
「食堂で、『こんな美味しそうな色なのに』、そう言ってしまった時みたいにね」
「赤を使っているつもりで緑を、緑を使っているつもりで赤を。結果として光の設計が変わり、千里さん本来の色が現れた」
「千里さんの赤が椿姫さんの緑によってね……」
雪乃先輩は二人の髪色を見比べた。
「そのためには、千里さんと椿姫さん二人のラベルを剥がす必要があった」
「でも、二人分だけでは、あまりにもあからさますぎる」
「木を隠すなら森の中よ」
「ラベルの破損は、試験休み中と萌花ちゃんが言っていました。あの日、学食で手帳に挟んであった、未使用のラベルはあらかじめ用意していたんですよね?」
「再開後、最初の部活でラベルをそろえるために……」
先輩はあの時、百瀬先輩と話し込んでいたと思っていたのに……
わたしは机の上に先輩がそっと置いた、二つの白薔薇の絵の具をパレットに出した――
その二色は、赤と緑。向かい合った二色はとけ合いながら、お互いを引き立てていた。
雪乃先輩は話し始めた。
「境界が揺らぐ世界は、色が寄り添い合う世界」
「千里さんは今回の制作では普段使わない色を使うとも言っていたわ」
「慣れない色に、慣れないラベル。流石の千里さんも、ね」
「あまりにも複雑で、補色や、色を深く理解していないと出来ない」
「専門知識が必要なすり替え」
先輩はわたしを見た。司書室での話を思い出した。
「科学部には無理よ」
先輩は悲しげに笑った。
それは百瀬先輩の絵にわずかに残った、淡い灰色のような表情だった。二人の心に色が残っているうちに。先輩の瞳はそう言っているようだった。
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