『セーヌに沈む日――クロード・モネ』
「待っててくれてありがとう、千里さん、椿姫さん」
その言葉は夕暮れの光と共に告げられた。
「きっと来ると思っていた。来なかったらむしろ期待外れだったな」
百瀬先輩の影のような声。
美術室は二人きりで、ひとつだけの灯かりに照らされていた。天目先輩は不安そうに、百瀬先輩のそばに寄り添っていた。室内は、強くて、弱い赤に染まっていた。それは百瀬先輩のようだった。
「さあ、雪乃話してくれ、日が落ちきる前に」
大仰な仕草でそう宣言する百瀬先輩。
「どうしても――今日お話をしたかったのは、今ならばまだ間に合うと思ったから」
「だから二人が待っていてくれて、よかった」
「ありがとう。心から感謝しています」
雪乃先輩は何が言いたいのだろうか?
「やっぱり犯人は……だとすると、目的は?」
そんなわたしの疑問に答えるように話を続ける。
「思えば……最初から千里さんの発言と行動には、不思議な点がありました」
そう告げると、雪乃先輩は目を閉じた。自分自身と語り合うように小さく呟いた。
「境界線のない世界で、色はただ静かに呼吸をしている。赤も緑も名を脱ぎ去り、やわらかく踊るように溶け合っている」
「それは欠落ではなく、もうひとつの美しい秩序」
「わたしたちがまだ知らない、名前のない色が、そこで目を覚ましている」
先輩が思い描く世界は、わたしには届かない遠い場所だった。
「ひとつ想像してみたの。聞いてくれる?」
「千里さんの瞳は、赤と緑の境界がやわらかく揺らぐ、特別な色のとらえ方をしているのではないでしょうか?」
先輩が再び目を開くと、夕映えの光が揺らめいていた。
「絵の歴史には、世界のとらえ方が違う、そう語られた画家が何人もいるのよ」
「真実は歴史の中にだけ、あるけれど。千里さんにも、そんな特別な見え方があるんじゃないかと思うの」
雪乃先輩の視線は千里先輩に注がれたままだった。その目に強さはなく、ただそっと慈しむようだった。
千里先輩は軽く微笑んだ。
「……色が微かに揺れることがある。昔からね。だから、隣り合う色の息づかいを覚えてきたのかもしれない」
それは告白というよりも、ありのままの自分を受け入れる為の一歩のようだった。
境界が柔らぐ世界は、欠落ではなく、また別の秩序だとわたしは思った。
先輩は今、あの鮮やかな夜空を思い浮かべているのだろうか。
「絵の具のラベルを剥がしても、パレットに出せば、色は一目でわかります」
けれど、千里さんの特性を考えれば、それは簡単ではないはずです。窓の外、赤に染まっていく街並みに目をやり、言葉を選びながら雪乃先輩はそう言った。
「そういえば……百瀬先輩が美術室で何度も色の相談をしていたのが印象的でした」
先輩の言葉に、わたしも思い出した事を口に出す。
二人に目を向けてから、雪乃先輩はわたしの言葉を反芻しながら小さく頷いた。
「私が最初に不思議に思ったのは、学食で千里さんとお話をした時のことでした」
「萌花ちゃん、覚えてる?私がりんごの色を千里さんの髪色に例えた時のこと」
その時の言葉が、印象に残っていたわたしは答えた。
「カーマインだって言ってました。赤をちゃんと色の名前で言うんだって」
雪乃先輩はやわらかく言った。
「正確にはね」
『僕の髪色のようだとすると……カーマインだね』
「そう言ったのよ」
美術室を染める夕陽の色は、百瀬先輩の髪の色と同じだった。




