『りんごのある静物――セザンヌ』
「美術部の外にも聞き込みをしてこようと思うけど、大丈夫かしら?」
「何かわかったら、真っ先に伝えるから」
雪乃先輩の言葉は、透明な水面に落ちる雫のようだった。百瀬先輩はそれを受け止めるように弱く微笑んだ。
天目先輩は部の評判を考えながらも、言葉を飲み込んでいる様子だった。それでも、絵具で汚れた指をこすり合わせながら黙ったままだ。
指についた緑と黄色が、ひまわりのようだった。
二人の横顔とリボンタイを、長く伸びる影が染め上げていた。
美術室からまっすぐ帰ろうとする雪乃先輩に、わたしは聞いた。
「聞き取りはどうするんです?」
「必要ない、かなって」
「そう、ですか……ね」
「仮説はそろってるからね……」
それだけを話すと口を閉ざしたまま歩き続ける。
夕暮れの最後の光が溶けるように差しこむ校内には、多くの人影が揺れていた。文化祭の仕上げを熱心にする生徒たちでひしめいている。
司書室に戻ったわたしたちは、お茶の残りを飲みながら事件の検討を再開した。アイスティーの冷たさが頭を鮮明にしてくれる。
「絵の具のラベルと今回の事は同じ話……」
「ですよね?」
「そうだね。きっとそう」
「そうだ、こんなことになっちゃったけど今日はとっておきがあるのよ」先輩はそう言うと、冷蔵庫からアップルパイを取り出して切り分けてくれた。
食器は百瀬先輩の絵を思わせる、空色のポーリッシュポタリーを選んだ。何でもいいから着想になるものを用意しないと、答えに辿り着けないと思ったからだ。
「結局、ラベルがなくて困ってる人、いませんでしたよね?」
「お花柄のシール可愛かったね……白薔薇にひまわりに」
「製作の遅延は目的じゃないってことだよね」
わたしは頷いた。
「あれが、今回の件と繋がってると考えると――」
先輩はパイを小さく切りわけて、口に運びながら聞いてきた。
「木を隠すなら森の中って、言葉がありますよね。百瀬先輩の絵の具にだけ、細工をしたかった」
「それを誤魔化すために、全員のラベルを破いたって、可能性はありますか?」
先輩は食べながら頷いた。
「他の部員さん達の絵は大丈夫だったものね」
握ったグラスに手の熱が吸い取られるようだった。
正直、これ以上の考えはないのだけど、一生懸命考える。
「たとえば……絵の具の中に、何かが仕込まれてて、時間が経つと色が変わるとか」
思いつきをそのまま言葉にした。
「……たしかにね、光耐性の差を利用した退色自体は可能だわ」
先輩は目を伏せたまま話し続ける。
周回遅れの思考かもだけど、それでも、わたしは同じ発想に至れたことがうれしかった。
「たとえば、上層にクリムゾンを薄く塗っておく」
先輩は、一瞬説明に悩んでそのまま続けた。
「それからUVライトを使えば……赤いヴェールが溶ける。そうして、下に忍ばせたフタロブルーが湖面のように浮かび上がる――」
「けれど、あの絵はそうではなかった……淡い写実が輝く印象派のようになっていたわ」
「つまり、この事件は『赤が抜けて青になる』そんな筋書きでは語り尽くせない」
ありえないと思った事なのに、先輩は丁寧に説明をしてくれた。
「もちろん……ほかのやり方もあるけど、とっても危険なのよ。そういうのは……科学実験の類だしね」
先輩は寂しそうに笑って言った。
「毒のりんご、みたいなものなのよ」
「量を間違えれば、すべて台無し」
わたしは何と言っていいかわからなくて、少し考えてから
「だから先輩は、他の部活には聞き込みをしなかった……」
「わたしも同じ考えです、美術部内のことだと思います。本気で嫌がらせしたいなら、絵を破いちゃえば早いと思うんです」
「極論ですけど」
そこまで言って、わたしはあの美しい絵が、切り裂かれた姿を想像してしまう。落ち込む気持ちを切り替えて続ける。
「でも、実際は、絵の具のラベルだけで……」
「もちろん、最終的には百瀬先輩の絵だけは変わっちゃったんですけど……なんというか……あの絵は、嫌がらせじゃない気がして……」
「先輩も、そう思ってるんじゃないですか?」
美術室からの帰り道の会話を思い出す。
「嫌がらせじゃないとしたら?」
雪乃先輩の瞳は、あと一歩で答えに届きそうな輝きを帯びていた。
「ラベルが剥がされた理由さえわかれば、このお話は結末に向かうわ」
導かれるように、わたしの中で考えがまとまっていく。
「筆致も百瀬先輩そっくりでした。あれ、素人には無理ですよね」
「だとすると……」
わたしはそこで言い淀んだ。
百瀬先輩と同じレベルで絵を描ける部員が、美術部にいるのだろうか?
もしいるとしたら――
でも、あの二人はきっと、わたしと雪乃先輩のような関係のはず。それなのに……
「……ごめん、ちょっと意地悪だったかな」
それだけ言うと、先輩は立ち上がって窓の外を見た。
いつもは聞こえない生徒たちの声。お祭り前の高揚感。先輩はなんだか楽しそうだった。
わたしもその声に耳を澄ましながら、思っている事を全て言うことにした。
「あの絵、色は違ってたけど、素晴らしかったです」
「百瀬先輩が印象通りの人なら、こう描くって感じがして……しっくりくるというか」
「ゴッホの再来――そんな風に呼ばれていたって、聞いたことがあります」
「千里さんらしさ、か……」
それきり、雪乃先輩は黙ってしまった。
空気が、また重くなってしまった。
その雰囲気に耐えきれないわたしは、手を付けていなかったアップルパイをつまみ、お茶を一口味わった。
「もしかして二種類のりんご、混ぜてます?」
「味がとっても深くて……食べた事ない美味しさです」
努めて明るくそう言った。
「お菓子のりんごは青が主役」
「赤は香りで支える――」
「それがうちのシェフの流儀なの」
そこまで言ってから、先輩は急に立ち上がった。
「もう一度美術室に行きましょう」
「世界に色が残っているうちに」
「謎は完全に解けたわ」
「でも事件が解決するかは、まだわからない」
「さ、お茶だけ飲んでしまって。残ったお菓子は解決のお祝いにしましょう」
謎は解けたのに事件が解決するかわからない……
それってどういうことだろう?
けれど、その名残惜しい匂いが、事件の解決を約束しているようだった。




