『美術室へ――Viridian(深緑)の罠』
美術室の扉を開けると、油絵具と鉛筆の匂いがふわりと広がった。
わたしにとっての図書室のように、この空気に安らぎを覚える人も多いはずだ。
軋む扉の音に邪魔されながら、先輩は告げた。
「お邪魔します。私、二年F組、日ノ宮雪乃と申します」
「天目椿姫部長と百瀬千里副部長はいらっしゃいますか?」
百瀬先輩はすぐに気づくとスカートを翻しながら駆け寄ってくる。
「やあ、まさか本当に来てくれるとはね!モデルまでお願いしちゃっていいのかな?」
ひと足先に室内に入って部員に微笑む先輩。
周囲の部員に準備をするように伝えてから、雪乃先輩を部屋の中央へと招き入れた。
雪乃先輩は美術室を興味深げに見回してから
「お誘いありがとうございます。皆さんに描いていただけるなんて光栄です」
その言葉に部員たちは、きゃあきゃあと喜びの声をあげる。わたしもそっと室内に滑り込んだ。
わたしの選択科目は音楽なので、美術室は学校案内で入った以来だった。室内は角度がつけられる大型の机が、今は畳まれて部屋の隅に寄せられていた。
空いたスペースに、文化祭用のキャンバスが置かれたイーゼルが、二十ほど部員の数だけ並んでいた。
市松模様の床は丁寧に掃除されているが、絵の具の染みが歴史を物語っていた。
けれど、その努力と情熱の跡は、素直にただ綺麗だな、そう思えた。部屋の隅のごみ箱には、見覚えのある花柄シールがキラリと光った。
一部だけが使われていて、大部分がそのままだった。
勿体無いな、と思った。部屋の奥の緑の掲示板には、精密なデッサンが名前入りで飾られていた。
どうやったらこんな絵が描けるのかと、思えるものばかりだった。
掲示板の奥はモチーフ置き場で、石膏像や鳥の剥製、空瓶などが所狭しと並ぶ。
部員たちは各々、進めていた作品を美術室の隅に片付けて、イーゼルを円形に並べた。
準備が整う直前、扉がノックされた。
教室の扉が控えめに音を立てると、金髪の少女がそっと顔をのぞかせた。大きめのスケッチブックを抱えている。文芸部の先輩、物部アリサ先輩だった。
雪乃先輩に気づくと軽く微笑んだ。同じクラスだと言っていたっけ。わたしは最近、幽霊部員であることに罪悪感を感じながら会釈をした。
アリサ先輩は気にしていないようだった。
「えっと……百瀬さん、聞きたいことがあって」
「まだ、描きかけなんだけど、この空の色……どうかな?」
差し出されたページには、淡い水色と藤色が重ねられた夜明けの空。
百瀬先輩はその絵を覗き込むと、首をかしげた。
「ちょっと緑が……強いか?少しいいかな椿姫」
声をかけられた天目先輩は、アリサ先輩に手早く、しかし丁寧にレクチャーを済ませた。
アリサ先輩は嬉しそうに目を細め、礼を言うと去っていった。
それにしても、百瀬先輩は不思議な人だなと思った。水色と藤色の空に緑を足すと、いい絵になるんだろうか?
やはり――この人の感性はわたしとは違う、そう思った。
「ポーズはこんな感じ?」
雪乃先輩は教室の中央の椅子に腰掛け、周囲に向けて語りかけた。一言ごとに、黄色い声があがった。
先輩にも部員たちにも、心の中から暗い思いが沸き上がった。
先輩はわたしの物……なんかじゃないとわかっているのに。
「その姿勢だと長時間は辛いから、楽に座ってくれ」
モチーフの観察を怠らない様子で、目線はすでに雪乃先輩に向けたままの百瀬先輩。
鉛筆の先端をカッターで軽くなぞってから、指先で鉛筆の尖り具合を確認する。
それを満足そうに眺めるとペンケースに戻す。
手慣れた芸術への所作は熟練の騎士のようで、不思議な色気を醸し出している。
全員の準備が整ったのを見てとると
「せっかくだから、じっくり時間をかけてやろう」
「五分後開始。三十分で一ポーズ。椿姫、それでどうかな?」
最後に、部長の天目先輩に確認を取った。
「ありがとう、千里ちゃん、それでいいよ」
「クロッキーとデッサンの中間くらいになるから、しっかり形をとることを意識してね」
合図の手拍子をすると、天目先輩は普段の様子とは違う、指導者としての口調で告げた。部員たちにとっては普段のやりとりのようで、タイマー係の生徒が電源を入れる。
それまでのざわめきは一瞬で消え去った。
そこにあるのは、一心不乱に鉛筆を走らせる心地のいい音だけだった。
そして、その真っ直ぐな視線の中から、憧憬や好奇心は消えていた。わたしの中の、嫌な独占欲は、不思議と柔らいでいった。
邪魔にならないよう、音を立てずに席を立つ。
描いている様子が見やすい入り口近く、陽当たりのいい椅子に腰かけた。
「色味を感じさせるように鉛筆を持ち替えて」
「僕は2Bは赤、Fは黄色というように持ち替えるよ」
百瀬先輩は、周囲の部員に目を配った。
天野目先輩も別の部員に熱心に指導をしている。
さすが部長と副部長らしい。どちらも絵を描くことに重要な要素なのだろう。その指導で、それまで悩んでいた鉛筆が走り出す。
指導を仰ぐだけではなくて、積極的に意見を交わしあって、制作を続ける。
美術室独特の香りにも慣れたわたしは、目を閉じて心地良い音に耳を澄ませた。




