『白い天使と白い薔薇』
司書室の中はどこか緊張した空気に満ちていた。
わたしだけではなく、先輩も緊張している?そんなわけはないのに。
「一年F組、如月萌花です」
「お招きありがとうございます」
清心館女学院の生徒として最低限の礼儀で挨拶する。
「もかちゃんね。改めて今日はわざわざありがとう。そちらにかけてね」
ケイと同じ呼び方をされて、心がざわついた。
先輩はわたしを部屋に招き入れると、古い鍵をカチリと回した。
慣れた手つきで紅茶を淹れる。手には黒に金字の缶。わたしでも知っている高級ブランドだ。
「花瓶……お借りしますね……」
気押されたわたしは、ぎこちない動作で薔薇を生け始める。
自分の手が緊張に震えていることに気づく。それでも、葉先の萎れを感じて、手早く水切りをしてから生ける。
「お話を聞いている間は、テーブルに置いておきましょう。あとで窓のところ、日当たりと風通しがいいから、そこに飾るね」
花瓶に生けられた薔薇を柔らかい表情で眺めるとそう言った。それから、先輩は一秒たりとも見逃さないというような眼差しに戻った。今まさに、落ち切らんとする砂時計を見つめながら。
さらさらと音もなく輝く砂は、先輩の儚さを映しているようだ。
「ふふっ、そんなに見つめられたら……恥ずかしいわ」
先輩は目を伏せて呟いた。ベールのような髪が表情を隠した。
わたしは知らず、見とれていたことに気づいて花瓶の薔薇を整え直す。また、棘が触れる。その痛みは指先ではなく胸の奥で疼いた。なのに、また先輩に目を向けてしまう。抗い難い魅力があるのだ。
優しくポットを握る指先は、細く、長く、傷ひとつない。ブラウスの白よりも透き通って見える、陶器のように滑らかで白い肌。
月並みな表現だけれど。
その溶ける様な乳白色に、確かな生命感を付け加えているのは、薔薇色の儚さ。浅くゆっくりとした呼気の中に、入院患者のような面影を感じた。
お茶を注ぐカップを見つめる瞳を縁取る、繊細な長い睫毛まで銀色。柔らかく光を留めるそれは、写真でしか見たことのない珍しい鳥の羽のよう。
ポットを持つ手が微かに震えて見えたけど、そんなはずはない。
だって、先輩は完璧な『天使』なのだから。
睫毛の奥の真剣な眼差しは、淡い水色と薄紅色が溶け合っていて……なんだか綿菓子のような甘さを湛えていた。けれどもその奥には、どことない憂愁さを帯びている。
透き通るようなその瞳がわたしの記憶をかき混ぜる。幼い頃、光にかざして飽きもせず眺めていた宝物のビー玉にも似ていて。
あの夏の空は、今より透き通っていたように思う。
「図書室っていいわよね」
先輩は音一つなくカップを口に運び、静かに言葉を紡いだ。
「入ってくるときの、もかちゃん楽しそうに見えたから。本好きな人って、なんだか雰囲気でわかるでしょ?」
入り口で本の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいたところを、見られていたらしい。
「私もね、好きなの。本が、図書室が」
恥ずかしくて、「ええ……まあ」と曖昧に答える。そんなわたしを気にする様子もなく、先輩は続けた。
「もかちゃんはどんな本が好きなの?」
その言葉は、わたしの傷をひと撫でするようだった。
中学までのわたしにとって、図書室は聖域だった。
ユゴーの『レ・ミゼラブル』
ヘッセの『車輪の下』
ブラッドベリにジョン・ディクスン・カー。
カミュの『異邦人』
『わたしを離さないで』を初めて読んだ日は、涙が止まらなかった。
悲しい言葉は『青』美しい言葉は『赤』
図書館で読んで、気に入った本をお小遣いで買い直す、そんな日々。好きな言葉を見つけては、色とりどりの付箋を文庫本の天に貼りつけていく。そうやって虹を織り上げていくことは、わたしの一番の喜びだった。
図書カードに誰の名前も記入されていない本を探しては、初めて足跡をつける喜びで、得意げにページをめくっていた。
はたしてそれは、本当に読書だったのだろうか?友人達からの評価を欲しがっていたあの日。
「萌花ちゃんは難しい本ばかり読んで、本当にすごいね」
なんて言われるためだけの虚しいトロフィー集め。
それでもわたしは、図書室と本が好きだった。
目の前の彼女は、何も言わずにただ座っていた。その長い睫毛を伏せたままでいると、目を閉じて眠っているようにも見えて……その時間が、わたしの心の痛みを、白日の元に晒すようだった。
それは、ひと月ほど前、高校に入ってすぐの事だった。友達を作る事よりも、図書室に篭って夢中で本を読んでいた時の記憶。陽当たりのいい、司書室にほど近い席――
いつも誰かが座っているのに、その日は空いていた。今日は再読の日と決めて、持ってきた本にいつものように付箋を貼っていた。春の日差しに色とりどりの付箋がきらめいていた。それは、万華鏡のようで――
その美しい記憶を、煤けた色で塗りつぶすような出来事。
「その席は私たちの指定席なんですけれど?覚えておいてくださいね」
「それに、学校の本に、そんな事。雪乃様もお怒りになられるわ」
複数の生徒達に詰め寄られ、追い出された――
彼女に目も留めず、本を読んでいた事もお気に召さなかったのだろう。そういえば、それ以来、付箋を貼ることも図書室に来ることもやめてしまった。
「あの人たち……」
心の中でつぶやいた言葉が口から漏れてしまった。先輩の睫毛が震えたように見えた。
指定席というルールがあるなら、事前に知らせて欲しかった。今度こそ、心の中で唱える。誰にも言えない思い。
それがこの人を魔王と呼ぶに至った、わたしの物語。
先輩は何も言わない。わたしが話し始めるのを待っているのだろうか?ただ、その雰囲気には、言い知れないもの悲しさが漂っていた。
本当は分かっていた。
図書室に来れないことも、ファンの振る舞いも、この人の責任ではないと。
けれど、学院にはわたしと同じような気持ちを抱えた子が他にもいるはずだ。彼女への評価には、人とは違う存在を揶揄するものも混じっているのだろう。
それが今、面と向かって話をしているのだから、人生は分からない。
「私もね、図書室と本がとても好き」
わたしの心の中を見透かしたように、先輩はもう一度呟いた。その言葉は、何処か遠く、世界の果てに向かって届けたい。そんな想いが溶け込んでいるような、消え去りそうな囁きだった。
「詩と文学、それに推理小説が特に好きなの。だから今日も、もかちゃんを見てね……。ごめんね。どうしても話しかけたくなっちゃって」
過去に浸るわたしを引き戻す、消え去るような一言。ふっと窓の外を見る先輩。その横顔は世界を切り取る稜線。
「最近まで体が弱くてね。病院の消毒液、それと図書室の本が一番馴染んだ匂いなんだ。高校に入るまでは休みがちだったし、友達もいなかったから」
「友達は今もいないけどね。こうして、毎日学校に来れるのは嬉しいのよ」
本気なのか冗談なのか、わたしにはわからなかった。
笑顔を浮かべる先輩を、五月の光が照らした。目を細めたのは眩しさのせいだろうか?
「わたしも友達は一人だけです。友達……多分そうってだけですけど」
「そうなの?たくさんいそうなのに」
「いえ、いいんです。わたしは高校入学組ですし……」
「本当にごめんね。私……他の人と、どういう距離で接すればいいか、いまだによくわからなくて」
先輩はまた謝った。
そして、寂しげに顔を曇らせながら言葉を継いだ。
「わからないから、聞いちゃうんだけど」
一拍置いてから
「私たち……お友達になれる気がしない……?」
また顔をそらしながら、先輩は何かを呟いた。
「すいません、今、なんて……?」
聞き取れなかったわたしは、問い返した。
その言葉を遮るように先輩は
「ううん、やっぱりなんでもない」
今度は、はにかんだ笑顔で、はっきりと聞こえるようにそう言った。
初めてみる恥じらいを含んだその表情は、今朝の先輩とは別人のよう。
不思議と心に沁み入るような温かさがあり――なんだか可愛い人だな。
そんな事まで思ってしまうのだった。わたしは、その時の笑顔をずっと後まで、忘れる事ができなかった。
「推理ゲームのために招待したんだから、きちんとやらなくちゃ。司書の先生いらっしゃらないから、お話の時間、たっぷり取れるんだけど」
「そんなの、迷惑だよね」
ほんの一瞬、垣間見えた笑顔の向こう側が錯覚だったと感じるような――
いつもの、あの万人に向けた微笑で、雪乃先輩は言った。
さっきわたしに、何を言おうとしたのだろうか?今はもう、雲間に隠れた陽光を思うような気持ちでそんな事を考える。先輩の淡いまなざしがわたしを包み込み、続きを促した。
「三丁目のお屋敷の前を通ったら、急に庭からおばあちゃんに声をかけられて」
わたしは記憶の扉を一枚ずつ開けていく。
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