『初めての告白、初めての友達』
虹色の欠片が床に散って、乾いた音を立てるのと同時だった。
「おやめなさい!」
雪乃先輩の声が、鋭く空気を裂いた。
一瞬の静寂の後、先輩は立ち上がると、わたしの頬を撫でてくれた。
指先の温もりが、傷の痛みを柔らかく癒してくれた。
備え付けの薬箱から取り出した絆創膏を、丁寧に、慎重に貼ってくれた。
和らいだ目はホッとした様子で、「傷は残らないからね」そう言っているようだった。
そのまま先輩は無言で戸棚に向かうと、何事もなかったように新しいお茶の準備を始めた。
誰も口を開くことさえできなかった。
頬には熱だけが残り、痛みは心の奥で静かに響いていた。
砂時計の落ちる音だけが部屋に満ちていた。
「さあ。皆さん、おかけになって」
いつもの声。でも、それは有無を言わせない力を秘めていた。
瞳の中に、世界の終わりの炎が燃えているようだった。
沈黙の中、先輩はゆっくりと話し始めた。
「もかちゃん、私のために怒ってくれてありがとう」
そっと頭をさげてから言葉を続ける。
「でもね、奏さん、あなたがおっしゃった通りなんです」
「恋なんかした事もないのにって」
「私にも、小さな夢があったんです。私をそのままに見て、好きになってくれる人がいて、そして――」
「そんな夢を見て、これまで生きてきました」
「でも、私自身の心が……絶えず囁きかけてくるんです」
「あなたに、普通の恋愛をする資格なんて、ない。と」
「あなたに、人並みの生活なんて無理だ、そう囁くんです」
「ここだけの秘密ですよ、私には今、もしかしたら、好きな人がいるのかもしれません」
また、あの不思議な声だった。か細いのに宇宙の果てまで届くような……
「その人は、年下で――可愛い女の子で」
「私と、初めて友達になってくれた人なんです」
「でも私は、その人のことが心から好きなのか、自分でもわからないんです」
「笑われても、仕方ないと思います」
「随分と遅れてますよね。わかっています」
「それに、その人にも自由がある。私なんかを好きになってくれるのかもわかりません……」
先輩の静かな告白を聞いて、言葉の意味を理解したくない気持ちと、わずかに残る期待が振り子のように揺れ続けた。
先輩の顔をそっと覗き見る。
夕暮れの光に染まった頬が、あまりにも赤く、あまりにも切なく色づいていることに。
伏せられた目が微かに震え、それがどうしようもなく恋する乙女の表情だということに。
胸の奥で何かが音を立てて崩れていくようだった。
とても言葉にできない、言葉にしたくない感情の渦がわたしを支配した。
「だからあなたたち三人のことを、本当に尊敬していたんです」
「好きでいる形を、愛し合う形を選ぶことのできた。あなたたち三人を」
黒く重い雲が、室内を夜のように暗く覆っていた。
天井の明かりは、その暗さに負けまいと、頼りなく辺りを照らしている。
雨は薄い幕となって、すべてを覆い続けていた。
それは、わたしの心象風景だったのだろうか?
頬を染める先輩の両手は、胸元で何かを強く握っていた。お揃いのロザリオだった。
世界に、ただ一人取り残されたようだった。
「私は、誰かと恋仲になった経験はないですけれど」
「もしも、そうなれたとしても――」
不安げな声で先輩は話し続ける。
「『時よ止まれ、君は美しい』とだけは言いたくないんです」
ファウストの引用は誰に向けた言葉だろうか?
先輩の顔は、夕焼けよりも赤く、切ない色に染まっていた。
わたしはその表情を直視できずに、思わず視線をそらした。
「その人が、私の名前を呼んでくれた。その瞬間をずっと覚えていたい」
「それでも私は変わっていく時間、変わっていく瞬間を」
「そのすべてを、心に、留めたいんです」
「綺麗事、なのかもしれません、皆さんから言わせたら、子供じみた――」
「そう、きっと子供じみた幻想。なのでしょうね」
「でも、だからこそ――」
ここで先輩は言い淀んだ。
初めて咲く花が、蕾を開く時のような静寂。
雨が上がっていた。
胸元のロザリオが小さく鳴った気がした。
祈りの輪が、部屋の色を淡く照らすようだった。
雲の隙間から差し込む夕暮れの光が、すべてを照らしている。それは、どんな時間とも違う、この瞬間だけの色に思えた。
その色彩に背中を押されるように、雪乃先輩は静かに願った。
「私がその人と、相思相愛になれるように、祈っていてほしいのです」
その告白は、わたしにとって――まだ名前のない感情だった。




