『図書室と銀髪の魔王』
四限のチャイムが響き終えると、教室には甘く微かな夏の匂いがした。机にうつ伏せになりながら、わたしはぼんやりと天井を見上げた。
「……ほんと、参っちゃうよ」
「司書室に呼ばれたの?すごい!」
そう叫び声をあげるケイの言葉が胸に刺さった。
わたしたち以外にも残っていた、数人のクラスメートが振り返って笑う。人の気も知らず、甲高い声で話しかけてくるのは、数少ない友人、ケイこと三好景子だ。
彼女は明るさだけが取り柄だけれど、誰とでも……わたしとも友達になれる。
それははっきりとした長所だろう。清心館女学院の村人連合の中では、ましな方と言えた。わたしのことを「もか」と呼ぶのだけはちょっと嫌だけど。
それに比べて、わたしは……如月萌花という自分の名前すら、どこか持て余していた。
「なら、ケイもおいでよ」
彼女を巻き込む罪悪感を覚えつつ、魔王雪乃と対峙するための盾として誘ってしまう。
我ながら、ひどいとは思うが、相手はあの人だ。わたし同様、村人レベルでも味方は多い方がいい。そんなわたしの不純な思いには気づかない様子で
「無理!」
ケイは一言、叫びを上げた。
「友達を一人にして、かわいそうって思わないの?」
「いやいや、もかさんなら平気だって。三丁目のお化け屋敷からバラを貰ってくるくらいだから」
「すごいよ、君は」
ケイが突然、不気味な口調で囁いた。
「え……?それ、何?」
「もか、マジで知らないの?新聞部が騒いでたよ?三丁目『老婆の叫び声』のお屋敷。そのバラ何か関係あるんじゃない?」
「あ、だから朝、みんな変な噂してたのか……」
わたしは不安げに問い返す。
「誰かが幽閉されてるとか」
「猫背の亡霊が歩き回ってるとか」
彼女は得意げに続けた。
「何言ってるの」
「おばあちゃん、背筋しっかりしてるから」
わたしはケイの言葉を否定した。
「やっぱり、もかさんは一味違うよ。態度が大物だ」
事実を言っただけなのに、妙な納得をしながらケイは言った。
「空き花瓶ゼロ運動より、お化け屋敷調査が先じゃない?」
「まったく……そんなんじゃないから」
話を打ち切るために、わたしは勢いをつけて立ち上がる。
「じゃあ行ってくるよ」
「いってら!夕方まで中間試験の勉強してるから」
「神に祈るより動詞活用を覚えなさい」
教室を出るわたしの背中に、ケイの「健闘を祈る!」という声が響いた。
この時のわたしは知らなかった。この小さな不安と戸惑いは、やがて柔らかな光の中で解けていくことを。
――今日の出会いが、物語の始まりであることを。
放課後の廊下は静まり返っていた。
五月の連休からそれほど時間が経っていない。
それにも関わらず、遠い夏休みを渇望するような、そんな緩んだ空気に満ちていた。
廊下の影をつま先でよけながら歩く。踊り場には、キリスト生誕のシーンを模した像が飾られていた。わたしはそれを見るのが好きだった。
東方の三博士がよく出来ているのよね。一端の批評家気分で階段を登った。
昇降口前のマリア様もだけど、ミッション系の静謐な雰囲気はわたしの性格にあっていた。
そんなことを考えながら、管理棟の階段を昇りきった。
図書室の入り口で軽く身だしなみを整える。ふと見ると、包み紙の端に焦げが見え、花びらの縁に煤の名残り。
薔薇の香りにかすかな異臭が混じり、胸の奥で不吉な予感を告げる。薄く、熱の名残。
その気持ちを振り払いながら扉を開ける。
「失礼します」
清心館では入室時に挨拶をする決まりがある。守っている生徒は少ないけれど、わたしは図書室だけは守るようにしていた。
そんなわたしの挨拶に目を上げる生徒、小声で囁きあっている生徒。
一様に冷ややかな視線。雪乃先輩からの招待が全校に広まっているのだろう。不思議と不安は無かった。嗅ぎ慣れた、古い本の匂いが守ってくれる気がした。
この少し独特な図書室の匂いがわたしは大好きだ。自分の部屋のようにとても心が落ち着く。本を読んでいる間だけ、心のざわつきを忘れられるから。
貸し出しカウンターでは、図書委員二人が最近評判の演劇について熱く語り合っていた。
その奥で、一人の生徒が司書室の中をじっと見つめているのが目に入った。手に何かを握っていたが、わたしに気づくと、ためらうように立ち去った。
そのまま目線を室内に移す。司書室――雪乃先輩のプライベート空間からは、先輩が手招きする姿が見えた。手の動きに合わせて、銀白の髪が上下に揺れていた。
司書室の前には大型のテーブルが並ぶ。その手前側は、『天使』の信奉者達が本を読むふりをしながら、中の様子を伺っていた。
当然、真面目に本を読んでいる生徒も少なからずいる。両者の間には、見えない火花が飛び交っているようだった。その全員が、わたしに厳しい視線を向けてきた。
わたしのほうが、この人たちより読書量は多いはずなのに。
もちろん、そんな文句を言えるわけもない。その視線を避けるように、息をひとつ吸い込んでから、わたしは歩き出す。図書室の奥、あの銀色の髪がゆれる場所へ。
もう、ただの放課後には戻れない――確信にも似た予感が胸をよぎる。
振り返れば、窓の外の光が遠く霞んでいた。
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